3.4 永久
冷たいセンサーを脇に挟んだら、ウトゥピアの背筋に寒気が走って、彼女は些か身震いした。昨晩から、既に準備万端の彼女は、集落に来てから初めて、外に出る。
予め用意した段取りは、少々穴が気がかりではあるが、特に問題はないだろう。怪我人がフラフラと外に出る事は、集落の人々からすれば、違和感しか感じられないから、どうしても刻限までには旅立たねばならないと、姉妹に触れ回ってもらったのである。マオテという青年は医者であるから、止められはしたのだが、使命があると嘯いたら、渋々であったが、納得してくれた。肝心の姉妹はと言えば、集落の人々に、一番小さな少女――ハラルトが、いつか集落でしっかり働けるように、立派にさせる為の旅をする、などと言ったらしい。その際に、ウトゥピアと旅立ちを共にして、集落周辺までは案内する、とも付け加えて。良い仕事だ、これで堂々と、姉妹と共に空へ旅立てるのだから。どうやらスィーンという子供は、冷静で頭が冴えているらしい。彼女のアイディアに従ったから、マオテという医者も、頷いたのだろう。診療に来る彼は、その都度、聞いてもいないのに、姉妹の話を口走って、心なしか落胆した様子を、ウトゥピアへと見せつけてきた。
兎角、やるべき事など、やり尽くした。他には、何もない。故に準備万端である訳だが、これ以上時間を先延ばしにしても、空の庭へ到着する時刻が遅れてしまうだけだ。ウトゥピアには、とり急いでやりたい事があるので、確保した”人的資源”と共に、手早く空へと移動したいのだ。
世話になった土の部屋を見回してから、土の窓枠に手をひっかけて、”割合新鮮な”空気を胸に蓄える。すると、空の庭のそれよりか、緑の香りが強い事に気付いた。どうやら地上は、ハラルトの言う通り、『変わらない』のかも知れない。
空の丁度真上に来た、太陽の光が差し込む窓に背を向けて、ドアの前に立つ。
軋む音は、彼女を心底苛立たせるから、絶対に音をたてまいと、素早くドアを開け放ったのだが、最後の最後で油断してしまい、ギリギリと言う音を生み出してしまった。意図せず、耳へと、扉の悲鳴の侵入を許したから、彼女は不愉快になって、壊れそうなドアに構わずに、思いきり、殴りつける勢いでもって、閉めた。すると今度は、全く音がしなかったものだから、こうもうまくいかないものかと、彼女は嘆息を漏らした。
いつもならば、こんな乱暴な事は、絶対にしなかった。が、彼女は焦っていた。
空の庭に帰る事もそうであるが、それ以上に、エクスクルーシヴに対して、だ。
常識から――それこそ、世界の法則から外れた存在に対抗できる術など、この場では考えも及ばない。イリオスに帰ってさえ、成果が実るかどうか、わからぬのだ。焦るなという方が、無理な話である。
空の庭へ恒久の平和を注ぎ続ける為に、自分に足りないものが何であるのかを考えながら、ウトゥピアは集落を歩く。四方から、色々と声をかけられたが、それどころではない。しかし、世話になったという事実もあるから、とりあえず怪我のない腕を持ち上げて、軽微な会釈を撒いた。すると彼らは、一様に純粋な笑みでもって返してくる。だからウトゥピアは、彼らには絶対に、人を堕落させる愚かな庭園など、必要がないと思いなす。せめて彼らには、地上の星として、輝いていて欲しい。その気持ちは、神聖ではないが、真正だと、保証できる。
草の、青い香りが、鼻腔に届いて、ウトゥピアの焦りを、幾らか癒す。決して良い香りではないが、悪くもないそれを、少しでも長く堪能していたいと思った矢先に、大仰な外套を纏った姉妹の四人が見えた。彼女らは、手を振って、ウトゥピアを誘ってくるから、彼女は少しだけ進路を変えた。
ハラルトが、腕に抱き着いてくる。もちろん、怪我のない方だ。自由な彼女でも、怪我人に対する労わりの持ち合わせが、あるらしい。
「準備、いいの?」
無論だ。
ウトゥピアは、無言でもって、頷きで返す。それを見上げた少女は、天真爛漫、純粋さにおいて、完全無欠な笑みをこぼした。
「それでは、ゆきましょう」
言うと、少女以外の顔つきが、締まった。
彼女らを誘う場所は、決まっている。空への門――転送装置だ。老人といい、姉妹といい、人の入れ替わりが激しい事であるが、全部でたったの六人だと、絶対数を考えれば、慎ましいものである。
腕に抱き着いた少女を一瞥して、ウトゥピアは、先陣切って一歩踏み出す。少女が腕から離れる事はなかったが、孤独でない、という斬新さは、ウトゥピアに、鬱陶しさを忘れさせた。
空が、青い闇に染まって、地上で光る腐敗が目立つ。場所柄だろうか、星の光が紫色にかき消されて、見えずらい。
だいぶ長い事、腰を下ろしたり足を動かしたりして、移動してきた訳だが、疲労は感じなかった。
飽きもせずウトゥピアの左腕を握っている小さな手は、初めこそ引き締まっていたが、今ではだらしなくて、弱弱しい力を彼女へ伝える。それとなしに見てみれば、ハラルトはくたびれ切った様子で、今にも倒れそうである。食事も、水も、欠かさずに摂取していたとは言え、余りにも長い道のりは、少女を屈服させるには、十二分だったらしい。
ウトゥピアの左腕は、ハラルトの何割かの重さを、支えている格好になっていた。
しかし、ここで立ち止まる訳にはいかない。まだまだ長い道のりならば、一考の余地は十分あるが、じきに空への道が、見えてくるだろうから、ここで止まって時間を無駄にしたくないのだ。
小さな少女には酷な話だろうから、ウトゥピアはハラルトの手に少しだけ力を伝えて、体重を支えてあげた。
そうこうしていると、眼前に、青い闇から落ちてきた僅かな光が、何かの影を作っている事に気付く。自然とはかけ離れた、きちっとした形状であるから、それが転送装置であると理解する暇は、ウトゥピアには不要だった。
「あれが、空への門です」
風のない、しかし、冷え込んだ暗がりに、ウトゥピアは声を溶かした。その小さな声にいち早く反応したのは、ハラルトである。
「あれって、あの、四角いやつ?」
「そうです」
ウトゥピアの手中にすっぽりと収まった小さな手から、力が抜ける。彼女も力を緩めると、小さな手は、すぐに離れた。
一体どこに体力が残っていたのだろうか、ハラルトは結構な速さで転送装置の前まで駆けて移動する。ウトゥピアもそれを追いかけて、ハラルトの横に並ぶと、少女の姉妹達が、足並みを揃えてウトゥピアの周りに集まった。
最年長の女性が、一歩前にでた。スィルという女性だった筈だ。
「これは、変わった形の岩ですね」
「材質は、岩です。形は、六個の角があり、柱のようですから、六角柱と言います。太古の力を受けて、内部に組み込まれた機構が、対になった岩へと体を転移させます」
詳しい仕組みは伏せたが、まだまだ理解には遠かったらしい。スィルは、「へぇ……」と、ため息交じりに呟いてから、黙り込んでしまった。
「とにかく、起動します。柱の上に乗って下さい」
姉妹の全員が、恐る恐る、ウトゥピアの指示に従い、六角柱の上へと移動し、中央へと寄って固まった。イリオスの――女王の技術力を注ぎ込んだ転送装置は、彼女らにとって完全なる未知の塊なのだろうから、わざわざ、危なっかしい端っこに立たない理由もわかる。
それにしても窮屈に見えたから、手早く転送を済ませてあげるのが、姉妹達の為になろう。ウトゥピアは、大人数を転送する為に、比較的多くの力を生成してから、六角柱へと送りこんだ。
すると、柱は徐々に発光を強めて、やがて、全員の姿が見えなくなった。
姉妹達は何やら喋ったり、叫んでいる。ウトゥピアは、こんな事になるのならば、空の庭に至るまでに、予め静かにするように伝えておくべきだったと、若干後悔するのだった。
すぐに、発光は小さくなって、やがて、青い闇が全てを掌握した。地上ではよく見えなかった星は、腐敗の光がないからか、天をびっしりと、埋め尽くしている。
空を見上げたウトゥピアの左手が、再び、弱小な感覚に包まれたから、彼女は、少女の細くて脆い手を握り返して、六角柱の外へと導いた。
石のタイルへ、一歩、踏み出す。しかし、なぜか左手が後ろに引っ張られるから、振り向いてみれば、腰の引けたハラルトが、後ずさりしようと、無言で彼女に抵抗していた。
「大丈夫です。もう、空の庭です」
言いながら、丁寧に、少女の手を引っ張った。するとハラルトは、ウトゥピアの繊細な力加減に身を委ねて、石のタイルへと、怖じ怖じ踏み出した。
狼狽していた姉妹達も、空の庭に到着した事に安堵したのか、あるいは、ウトゥピアの言葉に安堵したのか、続々と、石のタイルへ降りた。
「ようこそ、天空の庭園へ」
ウトゥピアは、ありきたりな歓迎の言葉を、姉妹へと贈った。姉妹達はそれを聞いて、お互いの顔を確認して、一斉にウトゥピアへと視線を注いで来る。何か言いたそうにしているのは、明々白々であったが、諸注意を説明している暇も、お喋りをしている暇も、ない。
だからウトゥピアは、
「ついてきて来てください」
と、ハラルトの手を引っ張りつつ言ってから、
「衣服は後程準備します、くれぐれも、地上の事は口になさらないで下さい」
と、必要最低限だけを告げつつ、歩みを進める。
ウトゥピアは、砂の地面でない場所を歩ける事が快適だと思った反面、地上と比べて、絶え間なく風が遊びまわる不快を感じた。
市街地から少し外れを縫って移動したら、イリオスの民との遭遇は、最低限で済んだ。この場所での姉妹達は、見た目が少々奇抜だっただろうかと心配したものだが、民の視線には、おかしなところなどない。尤も、女王の存在にすら気が付けないのだから、彼らには何が見えているか、わかったものでもないのだが。
ウトゥピアは、白い塔の脇にある建物へと、姉妹を連れ込んで、彼女らに相応しい衣服と、空の庭で必要な知識を与えてから、白い塔の中層にある研究施設へと入っていた。傷も癒えていないし、長く移動した疲労も、抜けきっていない。それでも、彼女には休んでいる暇などないし、休むつもりも毛頭なかった。
そもそも、姉妹を空に招致した理由だって、当然であるが、地上の民を空に移住させる事ではない。確かに、地上の民と空の民が融和出来れば、良い事と言えるだろう。だが、世界の法則から外れた存在に出会った彼女は、当面の目標を、それらの脅威からイリオスを守る事へシフトさせたのだ。融和など、二の次である。要するにウトゥピアは、世界の法則から外れている姉妹達を、管理する為に空の庭へ招いた。獣と違って、手の届く範囲にあれば、危機からイリオスを守れると考えたのだ。
それだけではない。
エクスクルーシヴは、世界を壊しかねないと同時に、彼女自身と同じように、世界を守る事だって出来うる。何しろ、ウトゥピアが今までにそうして来たのだから、間違いない。だからこそ、彼女にとっての全てである天空の庭園を危険に晒し、あるいは、維持できる力を包含したエクスクルーシヴの可能性を、彼女は、どうしても開花させたいと考えた。
ウトゥピアは、資料を漁る。手が引っかかってそれらが散乱しても、お構いなしに、漁り続ける。今の彼女がなすべきは、初めから、何も変わっていない。自らの存在意義にかけて、イリオスに約束した永久の平穏をもたらし続ける。しかし、永久とは、人の身では絶対になしえない事を指す。だからこそ、彼女は止まらずに、山積みになった資料を散らかした。何か、手がかりはないだろうかと考えて――。
彼女は、思い至っていた。
世界の法則から外れた存在。エクスクルーシヴ。もしも、本当に世界の法則から脱しているのならば、永久という観点からも、世界の理を外れる事が出来るのではないかと。そして、幸い彼女は、世界の法則から、外れている。これが真であるならば、彼女には、可能性がある。
ウトゥピアの命が続く限り、天空の庭園は、安泰だ。逆に考えれば、安泰を継続する為には、彼女の命は永遠でなければならない。既に、世界の理から外れた彼女に、失うものなど、何もない。ただ、貪欲に、目的を達成するだけだ。何しろ、それが可能であるのは、他ならぬ、自分自身。女王として君臨する、エクスクルーシヴの彼女だけなのだから。
故に、彼女は欲した。永久の、命を。
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