3.3 誘致
雲など、存在しない。だから太陽は、地上へ向けて、満遍なく光を落っことす。
砂もどこかに流されて、大地の残滓には、緑と青がひたすらに広がっている。ハラルトは、遠くで大きな影を作っている天空の庭園を見て、大きく伸びた。
後ろを見れば、オンボロの家がちらほらと並ぶ。最も気になる一室は、もちろんウトゥピアがいる部屋だ。だから彼女は、限界まで澄んだ空気をため込んで、一気に駆けて、白い女性の下へと急ぐ。
ウトゥピアがいる家のドアは、触るだけでうるさい。もし、勝手に侵入している事が知られてしまえば、スィルの頭上だけ曇天になって、すぐに雷が落ちる。
慎重に周囲を確認してから、ハラルトはいっぺんにドアをあけ放った。思い切りがよい方が、ドアの軋みは少ないのである。
転がり込んだ部屋の中で、座ったウトゥピアが、つるつるの板を一生懸命にいじくっていた。ハラルトだって気になったのだ、不思議な彼女にだって、気になる事くらい、あるのだろう。
人がやってこない内に、ハラルトはドアを素早く閉める。
スィルは草の葉っぱでくるんだ肉を、火にかけて蒸している最中だ。まだまだ完成しないだろうから、食事までしばらく時間がある。少しの間だけ、ウトゥピアと話ができる。
あわよくば、食事も一緒にしたいところである。
「ねえ、それ面白い?」
つるつるの板は、見つけた時から何も変わらずに、謎の音を連続で生み続けている。そんな板をこねくり回すウトゥピアが、ハラルトへゆっくり頭を向けた。
「うるさいだけです。面白くはありません」
顔色一つ変えずに、ウトゥピアは言った。
立ち上がった彼女は、ハラルトの近くにある台へセンサーを置いて、座っていた窓辺へ戻る。ハラルトは、少しだけ彼女との距離を取りつつ後ろに続き、ウトゥピアの近くへとお尻を落とした。
「つまんないのに、見てたの? 変なの」
白っぽい髪の毛の揺れを目で追いながら、ハラルトは言った。長い髪は、白い光を反射して、ハラルトの目を焼く。眩しいから、少し顔を覆った。
「もうちょっとで、ご飯できるよ」
ハラルトが伝えると、痛々しい傷跡に見入っていたウトゥピアが、怪我のある右腕を持ち上げて、高く掲げる。窓から入り込む光で、白くて細長い腕が霞んだ。
「あなたの姉妹は、どこにいるのですか?」
「みんな家にいるよ。今」
不思議な事を聞くから、ハラルトは真面目な顔で答えた。目を見開いたが、白い彼女が掲げた腕をするりと下ろしたから、太陽の光が遠慮なく入り込んできて、ハラルトはすぐに、顔をしかめた。
「どうして?」
「私を見つけてくれた、あなたやあなたの姉妹に、お礼がしたいのです。食事をとるのならば、一緒に食べましょう」
ウトゥピアは、血の跡が僅かに残った腕をさすって、言った。
眩しい光に歪んでしまった顔は、ウトゥピアの一言で即座に晴れ渡る。チャンスがあれば、彼女と食事をしようと思っていたところなのだから。姉だって、お礼を素直に受け取るべきである。
膝を曲げて、筋肉へ目いっぱい力を込めて、ハラルトはすっくと立ち上がった。少々身を引いたウトゥピアへ向かって、全力で笑いかける。白い彼女は無表情で無言だったが、お喋りは食事までお預けらしい。高鳴った気持ちは、しばらく抑える必要がある。
でも、ハラルトに我慢できる筈もない。
高鳴った気持ちに突き動かされて、ハラルトは勢いよく部屋を飛び出し、姉の下へ向かうのだった。
常に多忙なスィルは、トゥァカシーヴとスィーンの手を借りているから、幾らか楽ちんに見える。しかし、コアはと言えば、寝っ転がって肘を立て、料理を燻す火を眺めている。手伝ってあげれば良いと思ったが、ハラルトだって、姉妹に内緒で怪我人の部屋に忍び込んで、遊んでいたのだ。それを考えれば、迂闊な事は口走れないのだった。
ハラルトは、火の周囲に近寄って、料理の蒸され具合を熱心に確認しているスィーンの横へと、座った。
「ねえねえ」
「何」
スィーンがハラルトを一瞥して、再び火へと目をやった。瞳の中で踊る橙色が、綺麗に舞った。
「あのね、ウトゥピアが、ね」
「勝手に入ったの?」
スィーンの目が、鋭利さを増して、ハラルトに突き刺さる。しかし、ハラルトは何となしに火を見て、上手に逃れた。
「ウトゥピアの部屋覗いたらね、一緒に食事しようって」
「それ、あんたが頼み込んだんでしょ」
「違うよ」
今度は、スィーンの視線が火にくべられる。姉は、大きな勘違いをしているから、正してあげねばならない。加えて、このまま見過ごすのは、ハラルトにとっても不本意である。
だが、スィルが、
「ハラルト!」
と、立ち上がって大きな声を浴びせてくるから、些か尻込みしてしまったハラルトは、トゥァカシーヴに、目線でもって、救助を要求した。
すると座っていた姉は、気味の悪い笑みを顔に張り付けて、膝を刷りながらハラルトの近くまでやってきて、腕を彼女の頭へとまわし、がっちり掴んできた。
「やだ、勝手に入っちゃダメじゃない」
叱責とは裏腹に、トゥァカシーヴは顔を摺り寄せて、髪の毛の匂いを嗅いで、ハラルトを蹂躙し始める。こうなってしまっては敵わないが、料理が出来上がるまでに、何とかして誤解を解かねばなるまいと、トゥァカシーヴから顔だけを引き離して、僅かに生まれた隙間から、言う。
「見つけてくれた……お礼、したいって……」
ゴリゴリと、トゥァカシーヴの鼻先が、ハラルトの頭を削る。てっぺんの辺りは、もうすぐなくなってしまいそうだ。
スィーンの瞳がこっちに向いたが、温かみのある橙色に染まった瞳は、視線だけが冷たい。
「そう。じゃあ、出来たらみんなのも、もってく」
「怪我人ですよ?」
立ったまま、スィーンは言う。スィルがチラリとそちらを見て、再び火を注視した。
「だから持ってくんでしょ。連れてくるつもり?」
「そうじゃなくって……」
スィルが、力なく、地面へお尻をつけた。同時に、トゥァカシーヴの魔の手から、ハラルトは解放される。彼女は安堵して、スィーンを見た。すると姉は、葉っぱのお皿を手際よく、火から引っ張り上げる。
一個。二個。三個。四個。五個。
そして、六個。
全ての食事が、橙色から取り出されて、綺麗に揃った。
「じゃあ、もってって」
スィルは、言ってから、熱々の葉っぱの塊を、滑らせるようにしてコアへと流す。コアは、良い反応で、湯気をまき散らし、滑って移動してきた葉っぱのお皿を、足で受け取った。
普段、スィーンは乱暴な事をしない。だからきっと、何もしないでゴロゴロしていたコアに、怒ったのだろう。
でもコアは、微動だにせず、受け取った料理の端っこを掴んで、「アチ! アチ!」などと言いつつ、踊っている。全く反省していない。
「行くよ」
スィーンは、湯気が立つお皿を、片手でポンポンと弄びながら、部屋から出て行った。
他は、何やらあたふたとしてみたり、ハラルトの後ろにぴったりくっついて離れなかったり、面倒くさそうに起き上がったりしている。だから、ハラルトは呆れてしまって、さっさと部屋を後にした。
スィーンは、ハラルトよりも一足先に、ウトゥピアの部屋へと入り込んだ。姉は扉の扱い方が、良くわかっている。迅速に開いてから、足でドアを停止させたままに、ハラルトを見る。ハラルトが入るのを待ってくれているらしい。
だからハラルトも、小走りで駆けこんで、消えてから幾らか時間が経っているであろう火種の横に、座った。
すると、姉は、
「お邪魔します」
と言って、素早く扉を閉め、部屋の隅っこに陣取った。どうやら、遅れた者には容赦ないらしい。
ウトゥピアは、閉口したままに座していたが、スィーンが、葉っぱのお皿を丁寧に前へと差し出すと、白い彼女は、包まれた中身を露わにして、湯気を吸い込んだ。
「ありがとうございます」
見るからに熱々で、食欲を掻き立てるそれから、容易く目を背けたウトゥピアが、言った。
直後に、部屋のドアがギリギリ、ガタガタと、盛大に音をたてて、解放される。次々になだれ込んでくる、姉達だった。
各々が、好き勝手な場所へ散らかったが、しかし、ウトゥピアから適度な距離を置いている。白い彼女に対して、緊張しているのだろうか。
全員が落ち着いたところで、ウトゥピアは、足を丁寧に折りたたんだ。
「私は、皆さんに助けて頂きました。ですから、何かして差し上げなければなりません。しかし、生憎、私には何の持ち合わせもない。せめて、お礼の言葉を言わせて下さい」
ウトゥピアは、頭を深く下げる。白くて長い髪が、彼女の顔を隠してしまった。
「ありがとう」
短く言って、しばらく頭を下げた状態を維持した後、美しい顔が持ち上がる。ウトゥピアの後ろから差し込んでくる光が、彼女を一層、白く輝かせる。
いつも眩しいから、また今回もハラルトは、一旦腕を白い彼女に掲げて、葉っぱのお皿に視線を移す。すると、スィルがクスクスと、控えめに笑った。
「あら。お礼なんて、いりませんよ。私達は、助け合って生きてゆくべきなのですから。そうでしょう?
大事な時には、しっかりしているスィルだから、ハラルトは安心する。対照的なコアだって、こういう場面では、きちっとしていた。
白い髪を揺らして、ウトゥピアが全員の顔を見る。彼女は、無言で頷いた。だが、顔だけは、何の感情もなかった。いつもの事であるが、どうしても空っぽに見える。それでも彼女は、スィルの気持ちに同意してくれたのだろう。表情が読めなくたって、気持ちは読める。
彼女には良い心が宿っているのだ。姉達と同じように。
パン! と、スィルが両手をぶつけた。気持ちの良い音が、部屋に響いた。
「さあ、冷めます、食べましょう」
食事の合図だった。
ハラルトは、葉っぱのお皿を抱きかかえて、ウトゥピアの横に移動した。幾らか狭いと思ったが、白い彼女が、お尻を一個分ずらしてくれたから、丁度そこへと収まれた。
皆が先に手を付けたから、ハラルトは遅れて葉っぱのお皿を開く。湯気が出てきて、顔を襲った。
湿っぽいから、真横に頭を動かすと、ウトゥピアが口に、食事を運ぶところだった。
満腹で重さを増した腹をポンと叩けば、小気味の良い音がした。続いてハラルトは、出来る限り足をのばす。すると指先が、ウトゥピアの衣服へ、かすかに触れた。気になって、白い彼女を見ると、気付いていないのか、丁寧に葉っぱのお皿を折りたたんでいた。
ハラルトも真似をして、葉っぱのお皿を極限まで小さく折りたたんで、地面に置く。ところが、小さくし過ぎたからか、葉っぱのお皿はひょこっと、中途半端に広がってしまった。どうやら、ウトゥピアのような器用さは、一朝一夕に身につくものではないらしい。何しろ、ウトゥピアのそれは、完璧な仕事だったのだから。
諦めて、姉達がどうしているのかを見てみれば、全員食事を終えていて、葉っぱのお皿は一所に重なっており、折りたたまれてなどいなかった。後で纏めて捨てるか、火にくべるのだろう。
要するに、参考になど、ならない。
残念に思って、嘆息を吐き出したら、横から、極めて小さいため息の音が聞こえてきて、ハラルトのそれと重なった。耳をすませていなければ、聞き逃していたところだ。似合わないから、白い彼女でも、ため息をつくことがあるのかと、ハラルトは意外に思った。
「皆さんに、一つ、大事なお話があります」
割合静かだった部屋の中に、透き通るようなウトゥピアの声が溶け込む。相変わらず、表情は空っぽだったが、声には多少の強さがあった。だからこそ、白い彼女以外の全員が、美しい顔へ一斉に視線を注いだのだろう。
少しの間、沈黙が、席巻する。
唯一生きているのは、窓から入り込んできた、風に揺られた草達の、ひそひそ話だけだった。
「皆さん、落ち着いて聞いて下さい」
不穏な前書きをしつつ、ウトゥピアは続ける。ハラルトも、姉妹達と同じように、心なしか緊張した。
「私は、地上の人々を空に導く為に、現れました。途中、倒れてしまったのです」
信じられない告白だった。
白い彼女は、地上の人々を、『導く』といった。もしそれが真実ならば、白い彼女は、空からやって来た、という事になる。なぜなら、空の庭は、地上へ人々を残して旅だったのだ、そんな空へ導くことができるのは、空の人に他ならない。
誰かが、唾を飲んだ音がした。しかし、ウトゥピア以外は、何も喋らない。
「地上の民の全ても、いずれは空へと住まうべきなのです。その準備がある程度整ったので、私は降りてきました」
無表情のウトゥピアは、ピクリとも動かなかったが、汚れた赤茶の衣服と、白い髪の毛だけが、風にはためいている。それを茫然と眺めていたら、隅っこで、誰かが言った。
「空と地上は、仲が悪い」
スィーンだった。
ウトゥピアは、部屋の隅っこ――恐らくはスィーンに視線を移して、口を動かす。
「仰る通りです、空の民が突然地上へ降りれば、争い事に繋がってしまうかもしれない。ですから、各地では、少しづつ、地上の民を空へと移住させているのです」
ハラルトは、姉妹の顔をそれとなく見回す。どうやらウトゥピアに集中しているらしいから、誰もハラルトに注目してくれなかった。
再び頭を空の人へと向けると、白い彼女は誰ともなく、続ける。
「私はあなた達に救われました。ですからまず、あなた達に、空の庭を見ていただきたい。勿論、気に入らなければ、地上へお戻り頂いても、構いません」
ウトゥピアが言ってから、全員が黙りこんだ。
しかし、大事な話であるというのに、窓から入り込む涼しい風だけは、我関せずと、何にも頓着しない。堂々と入って、部屋の中でトグロを巻いて、どこへともなく逃げていった。
スィーン曰く、空と地上は仲が悪いらしいが、ハラルトの気がかりはそこでない。行けるものなら行ってみたい程度に考えていた空への道が、開かれている。それ故に、いざ問われれば、ウトゥピアに従うか、行かざるか、結論を出せないのだ。
もっとも、彼女が何も言わずとも、姉が何かしらの結論を出す。だからハラルトは黙っていたら、居心地の悪さが気になってしまったから、スィルの横へと移動した。
最年長者は、ハラルトの体に腕を回して、少しだけ顔を覗いてくると、困ったように眉毛を歪めて、ウトゥピアを見た。
「空には、腐敗がないと聞きます。もし本当なら、この子だけでも……」
かすれた語尾が、トグロを巻く風に包み込まれて、消された。ハラルトには、よく聞こえない。だが、スィルの言いたい事は、わかった。だから彼女は、我慢ならなかった。
その気持ちは、腹の底から湧き出して、彼女の喉から止めどなく、しかし、ゆっくり溢れ出る。
「みんなが行かないなら、行かないよ」
たったそれだけの、思いだった。
行けるものならば、行ってみたい。それは事実である。何でもあり、多くの人が満たされている、素敵な、夢のような世界なのだ、気にならないと言えば、嘘になる。
それでも、ハラルトにとってみれば、大地や姉妹達の代えがたい尊さを、上回る程ではない。皆、故郷や家族は尊いものだろうが、自分一人だけ、全てを見捨てる事など、空の庭が壊れてしまう位に、あり得ない話だ。空の人々を非難する気持ちなどないが、見捨てるとは、彼女にとって、おぞましい罪悪に他ならない。
仮に姉妹が空へ向かうならば、ハラルトは着いていくだろう。が、あくまでも、旅のような感覚であって、地上を見捨てる訳ではない。
地上の民は、地上で生まれ、地上で死ぬのだから。
「行くなら、みんなも行こうよ。ハラルトだけじゃ、絶対に行かない」
真剣に、スィルを凝視した。
ハラルトの体に巻き付いた腕は、心なしか力を強める。そして、スィルの顔が、困った時のそれに変わった。
「……わかりました。じゃあ、私も行きます」
困った目線が、ハラルトから離れた。
「でも、あなた達は、自分で決めなさい」
「行く」
間断を一切許さずに、スィーンが応えた。すると、退屈そうにしていたコアが、
「あー、わたくしめも、行きまーす」
と、場の雰囲気にそぐわぬ軽々しさで言うものだから、トゥァカシーヴが笑った。
「いつでも帰れるんでしょう? じゃあ私も行くー」
顔色一つ変えず、ピクリとも動かなかったウトゥピアが、折りたたんだ草の葉っぱを、ちょんと軽く突いた。
「無用な混乱を避けるために、この事は内密にお願いします。明日にでも、空へたちましょう」
カサッと音がした。草の葉っぱでなく、各々が頷いた音だった。
「それから、空の民は、まだこの事を知りません。ですから空でも、内密にしていただきたいのです。いずれ、空の民も、地上と融和できるでしょう」
細い彼女が、地上では見たことのない類の美しさを身に纏って、すらりと立ち上がる。大事な話は、終結した。
姉達は、それからしばらく、集落を抜ける理由をどうするか、何をもって行くか、などを話し込んでいたが、ハラルトの興味が向かない話だったので、草の葉っぱを集めて、丸めた。すると、その内に完結したのか、スィルがハラルトの腕を掴んで立ち上がる。
ハラルトはウトゥピアに手を振って、
「また後でね」
と言った。すると彼女は、無表情で、白い手をゆっくり動かす。
応じてくれただけで満足だったから、ハラルトは上機嫌になって、飛び跳ねる。その拍子に、草の葉っぱが一つ落っこちてしまったが、スィルが引っ張るものだから、拾う事が出来なかった。
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