3.2 Exclusive.
パチンと、何かがはじけた音が響いたから、ウトゥピアの意識が深淵から引きずり出されて、それは彼女へ覚醒を促した。
瞼越しに差し込んだ光が眩惑という形の鬱陶しさを生み出したが、それよりも、ビリビリと痛み続ける右腕がひどいものである。だから、瞼を開けて眩しさを我慢するか、起き上がって、何かしらの方法――足掻いて痛みをごまかすか、決断は早かった。
目を開ければ、案の定、光の束が瞳へと突き刺さる。
彼女は先ず、無傷の左腕で上体を起こして支え、右腕を腹上にもってきて、どうなってしまったのかを確認する。すると、驚くべきか、喜ぶべきか、腕はちゃんと彼女の体につながっていた。
再び、パチンと何かがはじける。重い頭を音源へ向けると、火にくべられた木の棒が、赤熱の中ではじけた音だったのだと知った。
小さい火へと目を凝らせば、上騰する熱気が、揺らめきながら広がって、土色の天井にたどり着いた途端に渦を巻き、手のひら大の穴へと吸い込まれていた。熱がこもり過ぎない為の仕組みなのだろうか、十平方メートル程度の広さがある土色の部屋全体は、適度な温かさを保っており、快適そのものだった。
火を取り扱うのは、人である。だから、理由は知らないが、どうやら彼女は人の住む場所にいるらしい。
記憶から消えかかっている、意識を失う寸前の情景を思い出すために、彼女は眉間に皺を寄せつつ、ひねりだそうとする。しかし、それはすぐに中断されてしまった。
「あ!」
ギリギリと壊れそうな音を出す扉が開かれたかと思えば、部屋に、無機質な砂と同色の髪の毛を揺らしながら、一人の女性が入ってきた。彼女の衣服は、デザイン性もなければ、年季も入っているから、正直に言えば薄汚く見える。しかしその瞳は、イリオスの人々のそれよりも、どこまでも澄み切って、遥かに輝いていた。
女性は、大声を上げたかと思えば、
「ちょ、ちょっと待って、動かないで!」
と、手のひらを掲げて言葉を継ぐ。
そして、何やら慌てた様子でブツブツと口を動かした後に、再び壊れそうなドアから、転がる勢いで飛び出した。
ウトゥピアには、何となくであるが、状況が見えてくる。
延々と広がる砂の大地に横たわっていた彼女は、この家か、あるいはこの家を含んだ町の人々に発見され、そして救助されたのだろう。そうでなければ今頃は、彼女の血肉を獣や虫が食い散らかしていた筈だ。加えて、腐敗の象徴である紫色の光を放った獣に傷つけられたが、生きているのだから、腐敗は体に侵入していない。
要するに、ウトゥピアが生存している現状は、奇跡的と言えるだろう。
自らの体が未だに命を宿している事が不思議で、彼女は自分の体を見る。すると、纏った紅茶色の衣服は、年季も入っていないのに、かなり薄汚くなっていた。
女性に謂れのない事を考えてしまったと反省した彼女は、ここへ来て初めて失敗を実感した。
久しぶりに、何も考えずにいる時間を味わっていると、再び、軋むドアが悲鳴を上げる。そちらを見れば、三人ほどが、静かに中へと入ってきた。
一人は、浅黒い肌の青年。一人は、先ほどの女性。そしてもう一人は、華奢な少女。
それぞれの顔を順番に眺めていると、青年がウトゥピアの座った場所まで来て、しゃがみ込んだ。
「調子はどうですか?」
調子とは、何を指しているのだろうか。腕に関してはすこぶる不調であるが、生命維持に関しては、今のところは、大変良好である。であるから、浅黒い肌の青年の問いになんと答えようか、迷う。
すると彼は、
「あ、無理に喋らなくても大丈夫です」
と言って笑みをたたえたから、ウトゥピアはそれに甘んじる事にした。彼女は会話が、好きでない。
「砂の狩場で倒れていたあなたを見つけてから、三日が経ちました。私は、この大地の残滓で医者をしている、マオテと言います」
マオテと名乗った青年が、簡潔に述べた。無能な側近の話口とは、比べものにもならない。
彼曰く、見捨てられた人々が寄り添ってできた集落に、助けられたらしい。ウトゥピアの考察通りである。しかし、三日も時間が経過していたとは、考えもしなかった。意識を失ってから彼らに発見されるまでの時間は不明だが、少なくとも、彼らに発見されてから三日は経っているのだから、ウトゥピアが意識を失ってから、三日以上の時間が経過している。
一大事である。こうしている場合ではないし、空に帰れば良質な治療が受けられる。
だが、言うのははばかられた。
仮に、イリオスの女王であると正体を明かせば、ウトゥピアにとって都合が悪い。何しろ大地の残滓は、空の庭から見捨てられた人々が集ってできた場所なのだ。それに彼らだって、天空の庭園から来た人物を治療したいなどと思ってもいないだろうから、これは彼らにとっても、汚点だ。要するに、イリオスとの確執が拭えているとは思えない。
ウトゥピアは真心から治療をしてくれたであろう浅黒い青年の瞳をじっと見つめて、何も言うまいと決心する。すると彼は、プイと頭をそらして、人差し指を立てて、こめかみを掻き毟った。
「ち、治癒の力を使ったんですが、あなたの傷はそれ以上癒せませんでした。ですが、そのまま安静にしていれば、よくなると思います」
あらぬ方向を見て言うと、彼は立ち上がって、足早に故障寸前のドアへと踵を返した。マオテという青年は、治癒の力を持っていたらしい。だから医者であるのだろう。
彼が外に出るまで目で追っていた女性が、ウトゥピアを見る。
「水と食事を置いておきましたから、どうぞ。それじゃ、私は行きますね。ここは自由に使ってください」
言いながら微笑み、女性は少女の手を引いて、静かに部屋を後にした。
再び一人になってしまったが、ウトゥピアにとっては都合が良い。今まで孤独に生きてきた彼女にとって、そちらの方がらしいし、彼女自身も気が楽だ。
痛む腕を労わりながら、ウトゥピアはゆっくりと起き上がる。女性が残していった、巨大な草の葉っぱの上に乗った、謎の料理を手繰り寄せてから、周囲を見回す。わかってはいたが、何度確認しても椅子といった類のものがないから、地べたに座り込んでから、素手でそれを掴んで口にした。
謎の肉は、大味であるが、適度な重さがある。空腹であった彼女には、丁度良い料理だった。
べとつく手を気にせずに何度か口に運んでいたら、葉っぱで出来たお皿の底が見えてきた。
割合少ないと思っていた料理は、三分の二くらいまで食した段階で、ウトゥピアの腹をほとんど満腹にさせる。だから彼女は、草の葉っぱを一旦地べたへとおいて、丁寧に折りたたんだ。せっかく出された料理であるから、砂が入らないようにと、一応敬意を払っておく。
腕を保護しながら、自分が寝ていた場所まで移動して、近くにある窓らしき穴をのぞき込む。穴の向こう側では、緑色と土色の二色が程よく混ざり合っており、それを背景として、人の姿がちらほら確認できる。どうやら、ここの大地の残滓は、砂一色の中に建っている訳ではないらしい。
人影が、丸い木の板を運んだり、座ったり、立ったり、忙しない。空の庭では、道楽以外で必要となる作業のほとんどが、機械や太古の力で行われるから、ウトゥピアにとってかなり斬新な光景だった。
とは言え、楽しくも、つまらなくもない。しかし、特にやる事もないウトゥピアは、漫然と、眼前に広がる光景を眺めていた。すると、突然背後から、ギリギリと軋む音が襲い掛かってくる。
慌てて振り向けば、かなりゆっくりと、壊れそうなドアが開かれる所だった。どうやらドアは、素早く開けば静かだが、速度を殺して開くと、それに比例して、騒ぎ出すらしい。
気難しい話である。
完全にドアが開き切る前に、ウトゥピアは来客の準備を終えるべく、横たわっていた場所へと座って、騒音の元を凝視した。すると、ドアがピタリと動かなくなり、伴って、騒音も消える。直後に、隙間からひょっこりとはみ出た、小さな頭と目が合った。
先ほど女性と部屋を後にした、少女だった。
彼女は自分の手を口に押し当て、クスクスと笑うと、素早い動きで部屋に入り込んできて、ドアを即座に閉める。何やら辺りを見回し始めた彼女は、まるで小動物のようだ。誰かに発見されたくないのだろうか。もしそうなら、気難しいドアは素早く開け閉めするべきであると、ウトゥピアは思う。
こそこそと近寄ってきた少女が、ウトゥピアの横へやってきて、転がるように座った。
「ねぇ、どこから来たの?」
小さな顔をウトゥピアの前に突き出して、瞳をのぞき込み、彼女は言った。かなり楽しそうである。何がそんなに愉快であるのか、ウトゥピアには全くわからないが、にこやかな顔はとにかく近い。
彼らに救われたという事もあって、ウトゥピアは、無視しようにもできなくなって、
「……遠くからです」
と、少々辟易気味に答えた。
「遠くって、どんなところ?」
些か頭を引いて、少女は言った。浅黒いという程でもないが、やや褐色の肌を光らせた彼女は、うつ伏せになり、細い両腕をくの字にして、顎を支点に、小さな頭を固定する。勿論、瞳はウトゥピアへと向いたままだ。
人の手によって整備されたイリオスとは、比べものにならない程に澄み渡った瞳。
その奥深くを見つめて、ウトゥピアは言う。
「尊い場所です。緑があって、綺麗な空気があって、白い建物もあります」
黙って聞いて聞いていた少女は、真剣な顔になる。その表情さえも、イリオスの民のそれとは全く異なる情熱が宿っていた。
「じゃあ、ハラルトの所と変わらないね。家はおんぼろだけど」
恐らくはハラルトの名を持つ彼女は、言い終えてから、何の含みも感じさせない笑みを湛えた。澄み切った彼女にとって、腐敗した大地は尊く、緑もあり、空気も綺麗なのだろう。
故に、変わらない。
ウトゥピアが住む、彼女にとって尊い庭と全く同じで、ハラルトという少女にとって、腐敗した大地は尊いのだ。
「そうですか」
屈託のない少女を見ていれば、一言を紡ぐのがやっとだった。
空の庭を守る使命。それは、彼女が彼女として存在する為に、絶対的に必要な要素だ。しかし、少女の思いの一端に触れたウトゥピアの心は、揺れた。
幸せは、人により異なる。そして、イリオスに住む人々は、幸せを追求する。だが、大地に住む人々もまた、幸せを追求するのだ。違いといえば、力の有無と、住んでいる環境だけだろう。
であるならば、なぜ人々は、力の有無に着眼し、持たざる者を排斥したのだろうか。
腐敗は、人を殺す。だから、腐敗に住む人々は、清浄に住む人々にとって、避けたい存在であろう。しかし、腐敗が人を殺すのであれば、同じ人間である地上の民は、とっくに死んでいて良い筈である。そうならないのは、地上の人々が、腐敗に対して正しい知識をもって生活しているからに他ならない。ますます、空の庭に住む者が、地上に住む者を忌避する理由がなくなってしまう。
にも関わらず、空の民は未だに、地上の全てを忌み嫌う。
誰かもわからぬ人を助けようとしてくれた地上の民も。
ウトゥピアの目の前で屈託のない笑いを見せる少女も。
彼女が尊いと言った、大地の全てを、忌み嫌う――。
――それでも彼女は、自分の存在意義を考えて、揺れる心を食い留めた。
イリオスを守る事が出来るのは、ウトゥピアだけだ。そして、彼女が彼女であれる理由は、イリオスを守れるからこそ存在する。
ウトゥピアは、大きなため息をつく。自らの存在意義を再確認して、早くイリオスへ戻らなければならないと思い、座すべき純白の塔を思い浮かべた。
するとハラルトが、今度は仰向けになって、小さな頭を腿に乗せてくる。随分馴れ馴れしいが、恐らく彼女の行動原理の全ては、真心にある。そう思えば、素直に人の温もりを感じる事が出来た。
「何考えてるの?」
少女の眉が、若干歪んだ。
「故郷の事です」
腿の上から見上げてくるハラルトを見下げる恰好で、ウトゥピアは言った。不思議な状況だが、違和感がないものだから、殊更に不思議な気分となる。
少しだけ頭を動かして、明るい土色の髪を揺さぶったハラルトが、目を見開いた。
「お姉ちゃん、名前なんていうの?」
「ウトゥピアです」
ハラルトは、更に目を見開く。
「ウトゥピア!」
彼女は叫んで、目を見開いたままに体を波打たせた。随分楽しそうである。
彼女の小さな体が捩れる度に、ウトゥピアの腿がちくちくする。髪の毛が、衣服を貫通して皮膚に刺激を与えているのだろう。やがて頭も左右に揺さぶり始めたから、腿の芯まで少々痛い。
しばらく謎の動きで喜びを表現していたであろう少女は、いきなり動きを止めて、再び真剣な顔でウトゥピアを見つめてきた。
妙な位置で頭を止めたから、心地が悪い。
「ウトゥピアは、光る獣見たの?」
「……なぜそれを?」
「やっぱりみたんだ! どんなのだったの?」
少女の顔が、にやけだす。
これ以上腿の上で暴れられてはたまらないから、ウトゥピアは彼女を刺激しないように、左手で頭の上を抑えた。
「巨大で、乱暴な獣でした」
瞳が期待に満ちていたから、なるべく面白くない話になるよう、短く、呆気なく言った。これ以上興奮されてはたまらない。
すると少女はウトゥピアの期待通り、「ふーん」と鼻息を立てて、
「ハラルトが見た時はね、すぐ近くまで行ったのに、逃げたよ」
と、追加情報を述べた。
提供された情報は些細なものだったが、随分真面目に語るものだから、ウトゥピアは、
「そうですか」
と、一応相槌を打って、頭に添えた左手を、少女の頭からひっこめた。
「次に見たときはね、獲物運ぶ時。近寄ったら消えちゃったけど、ウトゥピアがいたの」
ハラルトの鼻息が、強まった。
ウトゥピアは、引っ込めた左手を再び出すか、出すまいか、若干迷う。
「それは、私が倒れていた場所ですか」
「そう! だから聞いてみた。そういえばね、変なつるつるの板も落ちてた」
部屋の中央で踊る火から、パチンとはじける音がした。
「板ですか?」
「見してあげる」
言い終えた途端に、ハラルトは体を軽く丸めて、頭をウトゥピアの腿へと叩きつけた勢いで、起き上がる。快活なのは良い事だが、できれば腿へ乱暴せずに立ち上がって欲しい所である。
地味な痛みを癒すべく、ウトゥピアが腿をさすっていると、ハラルトはドアを蹴っ飛ばして飛び出した。手早い事であったから、彼女が残した風圧が、揺らめく火を一方向に薙いで、パチンとはじける音を連続的に生み出した。
基本的に彼女は、乱暴な人物らしい。いや、乱暴というよりも、快活自在といった方が正しい。
思いのままに振る舞う少女の事を考えていると、再びドアが、内側に軋んだ。
先ほどまでの慎重な様子など、彼女には全く残っていない。自由な彼女は、一体何に気を付けていたというのか。
部屋のドアをきっちり閉めたハラルトが、細い腕に板状の機械を挟んで、駆け寄ってくる。彼女のわきに押し付けられていたから、音は小さかったが、板は解放された瞬間に、割合大きな警報音を、断続的に鳴らした。
「これ、近づくとね、うるさいの」
「どれですか、見せてください」
言うまでもない。
間違いなく、ウトゥピアが地上へと持ってきた、腐敗を探知するセンサーだ。冷たい板状のボディを手に取ってみれば、どうやらセンサーは、自動的に蓋が閉まっていたらしく、中身を隠している。ウトゥピアが操作すれば難なく解除されるが、少女の前でそれを行って良いのか、逡巡する。
「これは、どこにありましたか?」
「種のとこ。水色の種!」
今更確認するまでもないが、やはりセンサーは、ウトゥピアの所有物であった。センサーを展開するべきか否か迷って、それを誤魔化す為に聞いた訳だが、愚問も良い所である。純真な少女に対して、少々の罪悪感さえ生まれる始末だ。
センサーは、延々と、断続的な警報を鳴らし続ける。
ウトゥピアは、一瞬壊れてしまったのだろうかと思い、センサーを隅々まで見回す。しかし、目立った外傷もなければ、汚れすらない。外部からの衝撃を守る為の蓋だって、自動的に閉まっているのだから、とても壊れているようには見えない。つまるところ、センサーの機能は健在という訳だ。
であるならば、センサーの警報が意味する事とは、腐敗の存在。
鳴っている、というだけの事実が、極めて重く、ウトゥピアへとのしかかる。警報を放つセンサーは、一体、どこに腐敗を検知しているというのだろうか。
ウトゥピアは、少女の顔を見る。首を傾げて、大きな疑問符を張り付けた様子の、少女の顔を。
すぐに、答えはわかった。
それは、少女が口にしていた。『近づくと、うるさい』と。つまりセンサーは、少女に反応しているのだ。恐らくは、獣と同じように、腐敗を身に宿した少女に。
「これは、離れると静かなのですか?」
「うん。ハラルトとお姉ちゃんがいると、うるさい。マオテだと静か」
ハラルトの姉妹については不明であるが、彼女と同じ系譜に属する人物は、センサーに反応するらしい。マオテという医師の青年に反応しないのだから、間違いないだろう。
だが、腐敗は人間を殺す。故に、人間が腐敗を宿しているなど、考えられない事だ。従って、なぜ少女がセンサーに反応するのか、見当もつかなかった。
「これはうるさいから、少し離れた場所に置きましょう」
ウトゥピアは、諦めて少女にセンサーを渡した。ここは空の庭でないのだ、手を動かせない状況で、検証など当然できない。
彼女は静かにそれを受け取って、部屋の隅に設置してある木の台へと置き、ウトゥピアの近くで地べたにお尻をついた。
センサーは、沈黙する。
「ねえ、なんで怪我したの?」
座った彼女は、ウトゥピアの右腕を凝視した。
彼女は、傷ついた腕を少しだけ持ち上げて、少女の瞳を覗く。
「乱暴な獣に、ひっかかれました」
「それって、でっかい獣?」
「そうです、あなたが見た獣と同じ獣であったかは、わかりませんが」
そこまで聞いたハラルトは、小さい手を伸ばして、ウトゥピアの右手を握った。生々しい傷跡へと顔を近づけた少女は、怪訝な顔をする。つられてウトゥピアも自身の傷跡を見ると、大きなかさぶたができた右腕は、マオテという医者が優秀である事を物語っていた。
「マオテという医者は、優れているのですね」
少女が握った右腕が、解放された。
「マオテは力もってる! 怪我とか病気とか、治せるよ!」
無欠な笑み。それを張り付けて、少女は言った。幼い声の語尾が、揺蕩う火のはじけた音と混ざり合って、ウトゥピアの心へと刺さる。
だから彼女は、少女から目を反らして、光が侵入する窓へと頭を向けた。だが、空虚な心は最後まで痛みを生み続けた。
少女が立ち去ってから、ウトゥピアは、土の部屋に引きこもり続けていた。気が付けば、外から差し込む光など、どこにもない。あるのは、うっすらと浮かんだ星ばかりである。無数の光の点を眺めながら、ぼんやりと、彼女は考え事をしていた。
しばらくセンサーをいじくり回していた彼女は、機械に異常がないと知った。推測の通り、センサーの故障などではなく、少女が腐敗を宿していたのである。だが、ウトゥピアはもう一つ、恐るべき事実に気が付いてしまう。
センサーは、ウトゥピアにも反応したのだ。
数値を見れば、濃度が高い訳でないとわかる。だが、腐敗が体内に入れば、入った場所から空っぽになって、ボロボロと崩れ落ちてしまう。にも関わらず、獣に深々とつけられた傷は、傷程度で済んでしまっているのだ。本来ならば、彼女の右腕の形など、残っていない筈であるのに――。
それから、ずっと怖気を感じて、彼女は自分の正体を、考えていたのだ。一体、何者になってしまったのか。おぞましい獣――自らを、世界の理から外れたと称した、腐敗の泉に傷つけられた彼女は、人間ではなくなったのだろうか。
そうしている内に、腐敗を身に宿す獣が残したパズルのピースが、ウトゥピアの思考内に浮き上がって、並んだ。
”人の敵である、獣”。
”世界を支える二本の柱”。
”歪みと虚空の均衡”。
”傾けられた世界によって生み出された、理から外れた者”。
”歪んだ、空の庭”。
要するに、世界を支える二本の柱とは、歪みと虚空の事なのであろう。そしてそれらは、均衡を保って存在している。獣曰く、人は、どちらか一本――腐敗は空虚を生むのだから、恐らくは歪みを、引き抜いた。それによって、世界が傾いて、理から外れた者が生まれた。歪んだ空の庭とは、空の庭を浮かべる為に用いた、片方の柱を指しているに違いない。そして獣は、世界を傾ける人間の敵なのだろう。
それだけではない。
彼女には本来の知識がある。腐敗を吸収し、太古の力を取り出す装置を作成した際、研究をしていたのだから。
太古の力とは元来、”力の根本”となる何かを二つに分離して、片方を取り出す能力である。大気中にすら存在する力の根本を、人々は取り込んで分離し、形として発現させるのだ。即ち、獣の言う、虚空と歪みの内、歪みだけを取り出していたのだろう。それが正しければ、分離された片方は、腐敗――つまり虚空として、残る事になる。
勿論ウトゥピアは、腐敗についても研究済みだ。
腐敗は、かなり長い時間接触する事で、物質の性質を無視して虚空へと還し、小さくなってゆく。彼女が過去に実験した結果、腐敗を消す為に最も効率的だったのは、腐敗へと命を投げ込む事であった。
例外は、ない。すべての命は、腐敗へと飲み込まれ、消滅する筈である。
だが、ウトゥピアは生きている。
世界の理から外れた獣と、同じように。
腐敗を宿していた少女と、同じように
――つまりウトゥピアは、世界の理から、外れている。
ウトゥピアは、自分の正体を確信する。世界の理から外れた獣と同じなのだ。
腐敗は例外なく、全てを呑み込む。だが、例外は、確かに存在する。世界にとってみれば、それらは”エクスクルーシヴ”な存在だ。
獣は、『人やエクスクルーシヴは世界を滅ぼしかねない』、と言っていた。それが真実ならば、ウトゥピアは、世界を滅ぼす存在なのだろうか――。
否。あり得ない。
彼女はイリオスの安定に、人生を賭けてきた。そしてこれからも、人生を賭けてゆく。そんな自分が、世界そのものを滅ぼしてしまう存在などと、荒唐無稽な話である。
どちらかと言えば、人でもなく、エクスクルーシヴでもなく、獣が問題だ。エクスクルーシヴである獣は、空の庭に恒久の平穏を約束した彼女を、殺しかけたのだから。
平穏を生み出すエクスクルーシヴと、破壊を生み出すエクスクルーシヴ。
どちらが危険な存在であるのかは、言うまでもない。
確かにエクスクルーシヴは、彼女や獣と同じように、優れた力を持っているだろう。故に、圧倒的な平穏も、壊滅的な破壊も、生み出せる。だからこそ、力の使い道を誤らなければ、世界を導く事すら、できる筈なのだ。ウトゥピアがそうであるように。
これからも、そうしてゆくように。
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