起点
3.1 夜明け
ハラルトは、紫の光から焦点をそらさず、両足をせっせと動かす。
過酷だった。
獲物が並んだ場所まで歩いた事で、相当にくたびれてしまった足を、更に動かしているのだから、過酷でない筈がない。しかし、それ以上に、彼女の好奇心は巨大だ。それこそ、砂嵐の中で見た獣のように。
だから、聳える好奇心と比べてしまえば、足に纏わりつく疲労は、ちょっぴり程度のものであって、心を占める大きなそれに、すぐさま塗りつぶされてしまった。いや、正確には、たいして疲労が気になる事はなかった。
内で蠢く好奇心と同じくらいに、感謝もしなければならないと、冷えた風を押しのけながら、ハラルトは思う。無論、姉へである。無言でついてきてくれる姉達は、きっとハラルトの事を思ってくれているのだろう。それも足並みまで合わせて、だ。
ふと、空が、腐敗とは少し違う紫色に染まっている事に気付く。紫、というよりは、青紫色だ。一生懸命だったから気付かなかったが、どうやら夜は、もうじきお終いらしい。
向かい風がハラルトの髪の毛を強引にかき上げたが、それでも彼女は、目をしっかりと見開いて、左右へ揺らめく紫色の光を直視し続けた。
しかし、あともう少しという所で、異変が起こる。
「あ!」
大声を上げたのは、ハラルトのすぐ後ろを歩く、コアだった。
恐らく姉の驚きは、彼女のそれよりも小さいだろう。小さいに決まっている。何しろ、驚愕と落胆は、ハラルトの足を止めるに至らせる位だったのだから。
ハラルトがしっかり捉えていた筈の紫色が、消えてしまったのだ。余りに大きな発光が、突然姿を消す違和感。にわかには信じられない現象が、起こってしまった。
もう少しで、動く光の正体が掴めるところだったのだ、これほどの落胆が、果たしてあるだろうか――。
「――ほら、行くよ」
失意の心を、スィーンの冷静な声が引き戻した。どうやら、紫が消失してしまっても、スィーンの目的は不変らしい。
少なくともスィーンは、他の者に音が聞こえない違和感を解消する為、ハラルトの手を引いて丘の上まで歩いたのだから、そんな姉が、ここへ来て踵を返す事などあり得ないと言えば、当然そうである。
光が消えた事でしょぼくれてしまった気持ちを何とか正して、ハラルトは再び、柔らかい砂の大地へ力を込めた。
やがて、紫の光が消えてしまった辺りまで来た。
青紫色の空から降り注ぐ、少し不気味な光が、大地の凹凸に影を作って、それらを引き延ばす。だが、いくら周囲を確認しても、紫色の光の塊は、見当たらなかった。
消えてしまったとわかってはいたのだが、ここへ来ると改めて、ハラルトの心が沈んでゆく。そんな気持ちに身を委ねつつ、漫然と、凹凸から生まれた影を眺めていたら、ひと際長い影が、やけに目立っている事に気が付いた。
「ねえ、あれ」
腕を遠くに伸ばして、指を立てる。すると、トゥァカシーヴが左へ立って、ハラルトの指を見て、その先へ向かって頭を突き出し、目を細めた。
「なぁに? 岩?」
少し怪訝な顔をした姉の気持ちが、ハラルトにはわかる。この辺りには、岩こそあれど、大きなものはない。影の伸び方が凄く不自然だと気付いて、きっと変な顔になったのだろう。
ハラルトは、不自然な岩らしき”何か”が気になってしょうがない。やがてその気持ちが心を埋め尽くして、彼女の全身を操った。
「おい待てって」
コアの声を置き去りにして、不自然な影を伸ばした何かに向かって、ハラルトは駆ける。”何か”はすぐそこにあるから、たどり着くまで、たいしてかからなかった。
ハラルトは、自分の両膝に手をのせて、上半身を支えつつ息を整え、大地に”刺さっている何か”を見る。それは細長く、綺麗な形をしていた。言うなれば、細長い植物の種のような、そんな形だ。
それにしても、植物の種とは言いえて妙だ。縦になった細長い何かは、てっぺんから、空へと向かって、茎らしきを高く高くへ伸ばしているのだから。
とはいえ、植物の種とは、形だけである。ハラルトは、こんなに大きい植物の種を、見た事がない。細長い種は、屈強な男二人を縦に並べたくらいの高さがあり、太さは、ハラルトが四、五人手をつないで輪っかを作って、やっと収まるかどうかなのだ。
見たことのない植物なのかもしれないと、ハラルトは少しだけ興奮する。
「ねえ、これ!」
砂を踏む音がしたから、ハラルトは振り向いて言った。すると姉達も、細長い種を見上げて、口をポカンと開けっ放しにする。
「ひぇーなんじゃこれ」
言って、コアは頭を高くまで持ち上げた。その目線の先には、伸びた茎がある。
まだまだ周囲は薄暗いから、茎がどこに向かって伸びているのか、先端がどうなっているのかは誰にもわからない。気になるが、見えないのだから仕方がない。とにかくハラルトは、目の前で地面に刺さっている植物の種をじっくり見まわした。空の色よりも薄い青色に染まったそれは、ところどころが黒ずんでいて、古めかしさを感じさせる。もっとも、おんぼろの家ほどではないから、比較してしまえば、綺麗であると言えそうだ。
「どんな花、咲いてるのかな」
水色の種に片手を使って寄り掛かり、問う。しかし、姉達も気になって仕方がないのだろう、ハラルトの疑問には、誰も応じなかった。
代わりにスィーンが、「あんまり触らない」と言って、体重をかけた片腕をすくうものだから、ハラルトは体勢を崩して、地面に転がってしまった。
疲れもあったから、起き上がらずに足を投げ出して、ぶらぶらと足先を弄びつつ、伸びをする。
「これ、木のお化け?」
「何だろうね? なんだか生臭いけれど」
トゥァカシーヴが、座ったハラルトの前にしゃがみ込んで、水色の種を見上げて言った。
言われてみれば、確かに生臭い。風向きが変わると、それが顕著にわかる。その臭気たるや、たくさんの得物を並べた場所よりも、遥かに強い。気付いたハラルトは、ここへ来てようやく鼻をつまむ。それでも、見るからに植物の種だったから、きっと生臭い花を咲かせるのだろうと、彼女は思い成した。
たちこめる臭気の中、スィーンがハラルトの伸ばした足を跨いで、種の後ろへと回り込む。
「穴が開いてる」
「虫でもくったんだろー? でっかい虫が」
真剣に言ったスィーンの話は、適当なコアによって、どこかに流れてしまった。見ると、スィーンの顔はほんの少し膨れていたが、一応は年長だからか我慢しているらしい。
ちょっと愛らしい無口な姉の怒り顔を見て笑いそうになってしまって、ハラルトは気取られぬように下を向く。すると、伸ばした足先に、消えかかってはいたのだが、明らかな人の足跡が見えた。
ハラルトはすっくと立ち上がり、それに驚くトゥァカシーヴを迂回して、足跡の前でしゃがみ込んだ。大きな種が風から守ったのだろうか、よく見ればそれは、きれいな形で保存されていた。
「見て、足跡あるよ!」
しゃがみ込んだままに、大声を出す。すぐに連続した足音がハラルトへ集まってきて、彼女が凝視している足跡が影で覆われた。
「うわ、ほんとじゃん」
「あらー、誰かいたのかしら?」
「……」
各々が好き勝手に、あれでもないこれでもないと言いあうから、ハラルトは入り込めずに、仕方なく閉口する。耳元で騒々しく続けられていれば、窮屈と共に退屈がこみ上げてきたから、彼女は何となしに、足跡の横へと、自分の足を置いてみた。
どうやら足跡の主は、ハラルトよりも幾らか年長のようで、彼女の小さい足と比べると、一回り程大きかった。参考になりそうなトゥァカシーヴの足先へ目を移したが、一生懸命に話をしているから、やはり声をかけ辛い。
ハラルトは手を伸ばして、姉の足の指先をチョンと軽く触ってから、自分の足を、謎の足跡の横から引っ込める。すると、コツンと、何か硬い感触が、足の裏にあった。
砂の地面は柔らかいから、きっと岩か何かが埋まっているのだろう、とも思ったが、岩にしては刺々しさがないものだから、少し不思議だ。
ハラルトは、まだ騒いでいる姉達を放っておいて、とりあえず砂を払ってみる。細かいそれらは、右へ左へと飛び散って、すぐ脇に立つ姉達の足へかかった。
そして、すぐに硬い何かが、姿を現した。四角くて少し重い、板だった。
「なんか板が出てきた」
木の板ではない。
土を固めて焼いたものでもない。
白くて、ひんやりしていて、少し重くて、つるつるとした、謎の板。手に乗っけて掲げたら、姉達はいっぺんに静まり返り、ハラルトの持つ板に注目し始める。
「なーに? それ」
トゥァカシーヴが、板に顔を近づけて、眉をひそめた。
この場で最年長の姉が言うのだから、誰にも分らないのだろう。が、もしかしたらと思い、ハラルトはスィーンの顔を見る。しかし姉は、目を瞑って、頭を振った。コアも、同様の反応だった。
不思議な板。それを両手でしっかり持って、隅々まで観察したり、匂いを嗅いだりする。しかし板は、植物の種のような生臭さを放つ訳でもなく、生物のような温かみを含んでいるわけでもない。ひたすらに冷たくて、白くて、綺麗なだけである。
そう、思っていた。
――ビー!
と、今までに聞いた事のない音が、突然にして鳴る。この音が、何の音であるのかハラルトにはわからないし、表現もできなかったが、つるつるの板が発している事は、明白だ。顔を近づけていたから、大きな音が耳に刺さってきて、頭の奥をかき混ぜられた気分になり、強く目を瞑る。驚いて、心音が高鳴って、すんでのところで、板を投げ捨ててしまうところであった。
甲高くてうるさい音を断続的に鳴らし続ける板を顔から遠ざけて、ハラルトは目を開ける。見回せば、姉達もびっくりして、目を丸くしていた。いつも無口で冷静なスィーンが一番変な顔をしていたから、よほどびっくりしたのだろう。
指をさして笑ったら、いつも通りの無言で、スィーンがげんこつを飛ばしてくる。ハラルトは反射的に頭を抱えたのだが、機敏な姉から逃れるには、一足遅かった。
頭を抱えて、砂の地面へと目を落とす。ズキズキと痛み続けるげんこつの痕跡は、ハラルトの頭の真上で熱を発生させる。そんな事などお構いなしと言わんばかりに残る足跡が、なんだか腹立たしいから、彼女は些か乱暴に、足跡を蹴って散らす。すると、舞った砂がいずこへと流れた。
流れは大地と同化して、風に巻き上げられて、再び流れを生み出す。痛む頭を慰めながらそれを見ていたら、今にも消えんとするくぼみが、等間隔につながっている事に気付いた。
紛れもなく、誰かの痕跡。今も砂に散らされるそれは、確かに続いていた。
「見て見て、足跡残ってるよ」
少しづつ小さくなってゆく痛みを早く消そうと、片手で頭を撫ぜ続けながら、うるさい謎の板で、足跡を示した。
「またですかー」
コアが面倒くさそうに、空へ浮かんだ大地を見上げて、言った。
「ここまで来たらいこうよ」
コアをそっちのけにして、ハラルトは言う。
すると、思ったよりもすんなり二人が頷くものだから、誰かの痕跡が砂に溶け込んでしまう前に、ハラルトは急いで足跡を追いかけた。
足跡を追っかけて歩きながら、ハラルトは違和感を感じる。いや、初めから違和感はあったのだが、ここへ来て、突然それが強まったのだ。
足跡は、ところどころがかすれている。それは、砂の仕業なのだろう。しかし、後ろを向いたり、前を向いたり、間隔がバラバラだったりするのだ。明らかに、足跡の主は変な歩き方をしている。多くの人が歩いたから、足跡が乱れているのかとも思ったが、自分の足跡と並べてみれば、そうではないと、すぐにわかる。足跡の大きさが、変わらないのだから。
違和感はそれだけにとどまらない。
幾らか凹凸のある場所だと思ったが、不自然に削れた部分や、何か大きなものが落下したような窪みなどが散見される。それを迂回するかの如く、足跡は姿を消して、離れた場所に再び現れる。勿論、方向がバラバラのままに、だ。
そんな状態が続けば流石におかしいだろう、姉達も早い段階から気付いていたのか、ハラルトの後ろでごちゃごちゃと、再びお喋りを始める始末だった。
ハラルトは確信した。
先ほどの光点の正体は、獣なのだと。しかし、足跡についてはどういう訳かわからないから、ひたすらに追っかけるしかないのだ。
だいぶ歩き回ったせいか、太ももにちくちくとした痛みが生まれる。手に持ったつるつるの板が奇怪な音を発し続ける事も相まってか、ハラルトはそろそろ休みたいと思って、歩く速度をやや遅める。そして、周囲を見渡し、すぐ先に、小さな岩がある事に気が付いた。
「ちょっとあそこの岩に座ろ」
言って、ハラルトはやや赤っぽい土の色をした岩へと、駆け寄った。
しかし。
――赤っぽい土色の岩は、岩ではなかった。
「あ……」
恐ろしい。
その衝撃から、喉の奥で空気が詰まってしまい、言葉にならない音が生まれた。慌てて振り返ると、既に姉達も気付いていたらしく、ハラルトへと駆け寄ってきた。
いや、違う。
倒れ伏した、赤茶の衣服を身に纏った色白の女の人へと、駆け寄ってきた。
「おい!」
コアが大声を出しながらハラルトを脇へと押しやり、倒れた白い人の頭の横でしゃがみ込む。きょろきょろと周囲を見回した頭が、スィーンへと向いて止まる。
「縄!」
「え、あ、うん」
いつにない気迫で叫ぶから、スィーンが小さく見えてしまった。
スィーンはすぐさま、肩から下げた縄を一本とり、コアへと手渡す。受け取った姉は、横向きに倒れる女の人を仰向けにして、彼女の腕を高くまで持ち上げ、わきの辺りに縄を巻き付けると、獲物にそうするように、きつく縛り始めた。持ち上がった彼女の腕から、青紫の薄暗い光でもよく見える深紅の液体が、垂れさがる。それは女性の腕を這って、彼女の纏った赤茶色の衣服に染み込んで、衣服本来の色を真っ赤に染め上げた。
命を持つ者は、死ぬ。
これは自然の摂理であるが、いざ目の前で人が死ぬとなると、ハラルトは怖気づいてしまう。医者であるマオテは、こんなに怖い出来事を前に、誰かを助けようといつも必死であるから、彼が一等気高く感じられた。
青年の勇敢な姿を思い出していると、きびきび動くコアと、重なる。
「とまった。トゥァカシーヴ、肩お願い」
女の人の腕に深々とついた傷から垂れ流れる血液をせき止めて、きっぱりとコアは言う。それに無言で頷いたトゥァカシーヴが、怪我のない方の腕を自身の肩へと回して、女の人を起き上がらせた。だが、色白の彼女は、力なく姉へと雪崩かかったまま、うんともすんとも言わない。
嫌な予感が、ハラルトをかすめる。
「その人、もしかしてさ」
ハラルトは、トゥァカシーヴに寄り掛かったまま沈黙している白い彼女の肌に触れた。綺麗な肌は、うるさいつるつるの機械と似た冷たさを含んでいる。彼女には、人の温もりが一切なかった。伝わった冷感が、ハラルトを身震いさせる。目の前の白い彼女を前にして、とっくの昔に死んでしまったのではなかろうかと――。
「朝は寒い。外套」
心配をよそに、姉達が動き続ける。スィーンは、自らの纏った外套を女性へかぶせて、腰の辺りを支えた。小さなハラルトにできる事など、何もない。
だから彼女はただ唖然と、心にかかる靄を見つめながら、時間が止まったかのように固まっているしかなかった。
するとコアがハラルトを見て、
「大丈夫、ちゃんと生きてるよ」
と言って笑うものだから、見知らぬ誰かの死に目に恐怖する必要が、今のところはなくなった。
「どうするの……?」
「連れてく。マオテに見てもらう」
コアにしては珍しく、端的に伝えてきた。
顔こそ笑っているが、切羽詰まった感は、決して否めない。故にハラルトの心は僅かに騒めいたが、女の人を支えながら歩き出した姉達がとても大きく見えたから、彼女は根拠もないのに、なぜだか安心できてしまった。
丘のてっぺんを超えて、獲物が横たわっていた場所を超えて、姉妹と色白の女の人は、進む。とは言ったものの、女の人に関しては、ハラルトの姉達に交代で支えられているから、進むというには少し違うのだが。
ハラルトよりもずっと体力があってたくましい姉達も、流石に疲労がにじみ出ている。空はとっくに金色に染まってしまったし、それほど長い時間、白い人を支え続けてきたのだ、息が上がって険しい顔になっても、仕方がない。
だが、延々と続いていた長い道のりも、夜がそうであったように、あっけなく終わりそうだ。眠気でややぼやけた視界のど真ん中に、多くの人が見える。
集落だった。
一人が、遠くから駆けてくる。その後ろを、幾らかの人が小走りで追いかけた。近づくにつれて人影が大きくなるから、何やら慌てて駆けてくる人物がスィルである事に、ハラルトはすぐ気付いた。
「あなた達――その人は!?」
慌てて駆け寄ってきたスィルが、四人の顔を見回して、叫んだ。だが、疲労困憊の三名は、誰もスィルの質問に答えられずに、閉口しつつ、足を動かし続けている。
そんな姉達の様子を見て、ハラルトはスィルの横へと、静かに移動した。
「狩場の近くにいたの、助けてあげて」
「狩場のって……帰ってこないから行こうとしてたのよ」
スィルに何やら困惑らしきが浮かんだ頃、男達が姉妹の周囲を囲って、白い女性を引き受けた。詳しく説明した方がいいとわかっていたが、眠気と疲労でそれどころではないハラルトは、とりあえず黙る。
察してくれたのだろうか、スィルはそれ以上何も言わず、ハラルトの両肩に冷えた手を乗せて、家に戻るまで一緒に歩いてくれた。
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