2.2.1 不自由な者の自由

 帰路を振り返れば、紫色はとっくに見えなくなっていた。渦中にいる時は、世界の中心たる紫色の柱に自分が組み込まれたように感じていたのだが。

 やはり世界は、想像以上の広さらしい。そんな事を考えながら、自分よりも幾らか大きいコアの歩幅に合わせて、一生懸命彼女についてきたハラルトは、自宅が大きくなって来た事にも気付く。

 少し荒ぶり出した風は鋭さを携えて、幾度も肌に突進してくる。乾いた空気の欠片を少しだけ吸い込むと、喉はチクチクと刺激され、肺もカサカサになった。心の整理がつかない自分に自然が痺れを切らしているようだ。

 ハラルトは額をクシャリとさせて、余計に帰宅を躊躇う。だが、心が拒否しても、姉に続けば必ず家にたどり着く。たどり着いてしまうのだ。だから、一歩一歩と進む度に、素直な体は鈍重になってゆく。

「ねえ」

 気付けばハラルトの重い足は、歩くことをやめていた。代わりに彼女は、額の皺くちゃを余計に増やして、姉に不審を抱かせぬよう、かさついた声を背中へ投げかけた。

 すると姉は、「んー?」と、どうやらいつもの軽い調子だ。同時に歩みを遅らせて、のんびりと半身をこちらに向けてくる。

 ハラルトは、姉に気持ちを見透かされる気がしたから、慌てて視線を下に外し、しかし口だけを動かす。

「ちょっとだけ、遊んでから帰るから」

「そうか。すぐ日も落ちるから、遅くなんなよ」

「うん」

 言うなり、ハラルトはぎこちない動作で斜め四十五度方向に体を向け、家とコアから身を逸らす。

 自分では、滅法挙動不審だったかも知れないと反省したものの、どうやら姉は不審に思っていないらしい。

 コアの反応にちょっぴり安心したハラルトは、姉に心中を隠し通したくて、おんぼろ家の壁に使う土のように重くなった足を無理やりにでも動かし、ささっと小走りに姉の脇をすり抜けた。

 すり抜けざま、じーっと見つめられていた気もするが、少し遅れて背後からのんびりとした足音が規則的に刻まれ出したので、ハラルトは、このまま姉の足音が消えるまで小走りして、余計な心配を丸ごと置き去りにしようと思った。




 ハラルトが集落の端っこまでくる途中で、空は青黒く染まりきって、そこに目いっぱい光の穴が穿たれ始めていた。もう少しで青黒い空は真っ黒に染まり、光の穴も数を増やして行くことだろう。

 彼女は、一日が終盤に差し掛かった事を告げる空をぼーっと眺めながら、地べたにお尻をつけて足を伸ばし、両手をつっかえ棒にしてしばらく過ごしていた。

 結局、スィルに怒鳴って家を飛び出した事をコアへ相談出来ず、だからと言ってここにいれば何かが解決する訳でもなく、時間を浪費しているだけなのだ。彼女自身もそれが良いとは思っていないが、大好きな自然に急かされても覚悟が決まらなかったのだから、仕方がない。


――あーぁ。


 刻一刻と、空に浮かぶ星は仲間を増やしてゆく。そんな光景と、たった一人でいる自分を比較して、ハラルトは泣き出したい気分に駆られた。

 彼女は、自然に勝てるわけがないとわかっている。でも、数を増やしてゆく星々に孤独感で負けた気分になりたくないから、上に向けている顔をカクリと素早い動作で正面へ向き直させてから深呼吸する。


「よし!」

 短い掛け声と共に重い体を上手に操り、ハラルトはいよいよ立ち上がった。だがそうまでしても心は曇天であり、家へ帰りたくない。

 勿論彼女は、いつまでもそう言っていられないと、ちゃんとわかっている。だから、立ち上がった勢いで頭を乱暴に右へ左へ振り回すようにして、灰色の気持ちを遠くへ吹き飛ばさんとする。

「ハラルト、何してる」

「わゎ!」


 トスン! と。グラつく視界にひょっこりと飛び込んできた声のお蔭で狼狽し、ハラルトは再びお尻を地につけた。誰だか考えるまでもない。それは、耳にこなれているいつもの挨拶だから。

 自然にすら冷たくされている心境の彼女にとって、彼の声は、多少なりとも心の励みになるものだった。

「い、いきなり声かけないでよ。びっくりしたよ」

「悪かった。日が落ちたのに外にいるなんて、珍しいと思ってね」

 マオテがお喋りしている最中に、お尻をはたきながら立ち上がる。言われてみれば、夜中に彼と会話したのは、もしかするとこれが初めてかも知れない。

 クルリと振り返るや、ハラルトは彼の真正面を向く。

「ハラルトは、たまに夜でも外でるよ」

「そうか」

 フーッと、長く息を吐く音がハラルトの耳に届く。それから少しの間、風が流れる音と、砂嵐の影響で所々が埋まっている草の一部が静かに踊る音だけが周囲を彩った。

 周囲は明るい。踊る草も、光を受けて艶やかだ。夜の暗色に目が慣れたし、空が随分賑やかに振る舞っているからそう感じるのだろうが、星々には、もう少しだけ大人しくしていて欲しい。

 無欠な空間で全てが静かに流れるが、先ほどまで自然に冷たくされていたハラルトは、不思議と負担を覚えなかった。

 青年は、心をも癒す医者なのだろうか。

「そろそろ帰らなくて良いのか。姉妹に心配をかけるんじゃないか?」

「まだいいの」

「お前のお姉さんが心配するだろう。早く――」「まだいいの――!」

 荒っぽいハラルトの声は万遍なく広がりつくして、やがて余韻すら残さずに、広い大地や空に吸い込まれていった。きっと相手がマオテでなかったら、自分は叫ばなかっただろう。ささくれだった現実に気圧されなかったのは心を潤してくれた彼のお陰だが、そんな彼に対して乱暴に当たるなんて。


 マオテの眉が、向かって右だけ極端に下がって、ぐにゃりとした。だからハラルトはハッと我に返って、小さな手を口元へ押し付けて、彼の顔に背を向けた。

 悲しくなった。

 自分の心には、常に猛る獣が潜んでいる。スィルのような落ち着き払った心が欲しいと、心底願った。

「気にしてるのか」

 背から、彼の声が包み込んできた。

 心があっちこっちと目まぐるしいから断言できないが、心なしか、落ち着き払った声だと思った。

「何を」

「昼すぎの事だよ」

 ハラルトは、進んで孤独を噛みしめている現状を、認めるべきか迷って、頭をいっぱいにした。それとは対照的に、体は手持ち無沙汰だったから、足元に残る砂を蹴って散らかす。

 草の隙間から、黒い土が姿を現した。

「……そんなことないよ」

 気遣う青年に、嘯く。

 気取られたくなかったから、あえて彼女は振り向いて、マオテの視線と対峙する。内心恐る恐るだったが、星の光を受けて優しく浮かび上がる、親しい青年の僅かな笑みがあったから、張りつめた何かがいっぺんに解放されるのを、ハラルトは実感する。

「そうか」

 彼は良い顔のままそう言って、ハラルトの横まで歩いてきて、肩を並べる。これは、いつもの彼だ。

 でも、何気なしに見上げた彼は、いつもより大きく、たくましく見えた。

「あのね」

 今なら、彼になら、話せる。そう思ったハラルトは、極力周囲の空気が重くならぬよう気遣って、うんと背伸びをしてみたり、光る草を足でつついたりして、彼の集中を一生懸命散らかす努力をした。彼にとってはつまらない相談事かも知れないのだ、真剣に聞き入られたら、なんだか小恥ずかしい。

「スィルに叫んだの、反省してる。でもハラルトは、家に帰りたくない」

「どうして」

「だって……」

 先が続かず、つい足元に視線を落として、再び足で草をいじめる。こうしていると、不思議と冷静になれた。

 この状況は、心に潜む猛った獣のせいじゃないと、直感的に理解できた。心は少しも乱れていない筈なのに、声が出てこないなんて、荒っぽい獣のやることじゃない。

 また、静かに風が流れ出す。ハラルトの服や皮膚をむらなく撫ぜてくるそれは、先ほどと比べれば幾分か柔らかく、潤いを帯びていた。

「ハラルト」

 足で草を弄んでいたら、マオテがしゃがんで、真横からハラルトの顔を覗き込んできた。しゃがんでも尚彼の存在感は大きく、それでいて一切の威圧感がなく、温かい。それに安心してチラリと彼を見下げれば、彼はフフっと息を漏らして微笑んで、ハラルトの瞳を見つめたまま、ゆっくりと立ち上がった。

 何かの魔法でも使ったのだろうか。気付けば、彼の瞳をじーっと見上げる自分がいた。彼は偉大な空を背景にして、どの星よりも誇らしく輝いているように見えた。

「お前の気持ち、わかるよ。スィルに叫んだ事、後悔してるんだろ。でも本当は、お前が優しい心を持ってるんだって、みんな知ってる。みんなの為に、狩りの手伝いがしたいって思ってることもな。だから強い体が欲しいって思ってるんだろ」

 まるで周囲の静けさに合わせているように、ゆっくりと、静かにマオテは言った。彼は、左の手をハラルトの頭のてっぺんに優しく添えて、温もりを与えてくれた。姉達と比べればいくらか丁寧だが、行為に含まれるニュアンスは全く同じだと感じた。

「スィルだって、お前に早く帰ってきて欲しいって思ってるんじゃないか? 誰よりもお前の事を気にかけているから、あんな事を言ったんだろう?」

 マオテは、スィルが常日頃からハラルトに対して思っているであろう事を、いとも簡単に言い当てる。何の事はない、姉は誰よりもハラルトを想っている。たったの、それだけだ。

 そういえばハラルトも、怒鳴って家を飛び出す直前に、それに気づいていた。でも、彼に諭されるまで忘れていたのだ、心を染める真っ黒い獣は、身震いしてもまだ足りない。

「俺も帰るから、ハラルトも帰ろう。感じてることを正直に言えばいいんだ。お前は素直だから、スィルはわかってくれるよ」

 彼の手がのろのろと動いて、頭を離れてしまった。

 きっと、そこだけ余計に温かくなっていたのだろう、急に流れる風にさらされた頭のてっぺんは、冷たさを敏感に捉え始める。それだから、火照る心は現実に引き戻された。名残惜しかったが、少しだけ強くなった気がした。

「マオテ、ありがとう」

 ハラルトは、ありったけの笑顔を惜しみなくマオテに捧げた。その直後に腰のあたりに腕を回して、彼のおなかに頭をうずめた。それでもまだ、足りないと思う。

 彼から貰ったのはもっともっと大きかったのだから。




 おんぼろの家は、星の光を浴びてもおんぼろだった。当たり前の話と言えばそうだが、草も土も砂も夜になれば自分の姿を変えて見せるのだ、おんぼろの家に少しだけ同情する。

 人が手を加えたものは、自然とはどこかが違う。彼女の体が劣っているように、あらゆるものには、生まれたときから不平等が生じるらしい。

 尤も、おんぼろの家に関しては、不平等とは少し違う。だから、おんぼろの家が包含する異質の原因に少しでも近づこうと、ハラルトはじっくりと観察する。そして、縁に細かいヒビの入った窓から、オレンジ色の光が漏れ出している事に気が付いた。

 ゴクリと唾を飲み込む。一挙に緊張が押し寄せる。

 ハラルトは、自然と人工物の違いを見比べる事をやめて、胸にギュッと手を当てた。彼女は、マオテからわけてもらった正の概念のみに集中する。

 やがて、この期に及んで地に足がつかない心と決別する極まりをつけて、彼女はドアに向かって一直線に進んだ。不思議と足取りは風のように重さがなく、地に根付く草さえも、歩みの味方をしてくれているのだとさえ思えた。

 戸の前まで来て、ハラルトは静かに右手の平をピタリとくっつける。

 そして、思い切る。

 肩から腕全体を真っ直ぐ押し出すようにして、戸を奥に押し込んだ。戸はそれを受けて身を少しだけ軋ませて抵抗したが、最後にギシリと鳴いてから、大きく開いた。彼女は、今の自身の屈強な意思に勝てる者はいないと自信満々だったから、望んだ結果を得られて当たり前だと、戸が開くという些末な事でも胸を張れた。

 完全に開ききった戸は、僅かに傾斜する地面に上手い事引っかかって止まった。代わりに家の中でパンパンに膨れ上がっていた温風は、大きな出口を得た事で一点に殺到して、ハラルトを押しのける勢いで外界へと逃げ出した。

 余韻を受けて、室内に灯る火がグラリと大きく捩れ、家具や狩りの道具が作った影を歪ませる。影には、スィル自身のものも含まれていた。


「あ、ハラルト」

 スィルはこちらに気づいて、名を呼びながら手を止めた。手先にあるのは、草でくるんだ何かを炙る、小さな火だ。晩の食事を作っていたらしい。

 少しの間ぼんやりと火を見つめていたら、その内に姉が立ち上がる。

「あのね、スィル」

 スィルは無言のまま、体をこちらへと向ける。そしてゆっくりと、近づいてきた。姉の動きに合わせて、家に灯る火は小さく踊りだし、影を巻き込み始める。

 おんぼろの家は狭いから、姉が目先まで来るのに、時間はかからないだろう。

「さっきの事なんだけど……」

 ついに目の前まで来て、スィルは止まった。ハラルトは、姉の顔を見上げたら、少しだけ怖くなった。

 そして。

「ハラルト」

「あ……」

「さっきは、ごめんなさい」

 スィルは、ハラルトを見て、そう言った。

 ハラルトは、何をもじもじしていたのだろうと、自分自身に対してバカバカしさを覚えてしまった。姉のように、気持ちをすんなりと伝えれば良かったのだ。それに気づいた頃には、灯りは踊りをやめて、上へ向かってピンとしていた。影もそれに従って、地に伸びたまま動かなくなった。

 姉は目をそらさずに、続ける。

「あんな事を言うつもりじゃなかったの。私はあなたの事が心配なだけ。わかって」

 そういったスィルの背後で、灯りか食事を炙っている火のどちらかが、パチンと弾けた。

「うん、わかってるよ。それなのにハラルトは、スィルに怒鳴っちゃった」

 部屋の暖気は、どこまでも重く感じる。上から頭を抑えつけて、無理やりにでも下を向かせようとしていた。

 それでもハラルトは、抗った。

「叫んだ事も、家を飛び出して迷惑かけた事も、反省してる。スィル、ごめんなさい。嫌いって言ったけど、嘘。本当は、大好き」

 どうやら暖気は、ハラルトを屈服させられないと思ったのだろう。気が付いたら、部屋に蔓延る圧迫感は心のもやもやを連れて、どこかに消えてなくなっていた。

 開放感があった。ただ伝えたい事を伝えただけなのに、不思議な感覚だった。


――しばらくして、ヌルリと、再び部屋から熱気が抜けてゆく。そして入れ替わりに入ってきたのは、新鮮な空気だ。

 それは、ハラルトが扉を開けた時と同じだった。だからハラルトは、扉があいたのだと、振り返らずとも理解できた。

「おう、話は終わったのか」

「何ですか。聞いていたの?」

「聞くも何も、ハラルトと一緒に帰ってきたんだよ。顔見た瞬間こりゃ何かあるって思ったね!」

 後ろを見たら、コアが口元を上に持ち上げて、ヘラヘラとしていた。

 スィルは、傍目に少しだけ不機嫌そうにしていたが、ハラルトは寧ろ、気を使って家に入ってこなかったのであろうコアに、内心感謝していた。時々油断ならぬコアは、ハラルトが落ち込んでいると、最初から見抜いていたらしい。

「意地っ張りで泣き虫なアンタがなー。いやー、随分成長したなぁ。ハッハッハ!」

 前言撤回。コアはいつでもお調子者がすぎる。

「うーるーさーい!」

 ハラルトは全く面白くなくて抗議したのだが、どういう訳か、コアは大笑いしだす。そんな具合だから、スィルまで口に手を当てて、吹き出しそうなのを一生懸命にこらえ始めてしまった。

 こうなったらもう止まらないのだと、ハラルトは知っている。抵抗するだけ無駄だ。

 右を見ても左を見ても、どんどん面白おかしくなってきて、口元がプルプルと、素早く小さく動き出して、とうとうハラルトも一緒になって、笑い出してしまった。




「さーてハラルト。アンタ、スィーンのおさがりあったろう? それ着て外で待ってな」

「どうして?」

 コアはおかしな事を言い出す。姉の言うおさがりとは、上から三番目の姉妹が丁度ハラルトと近い年頃に使っていた、明るい茶色に染まった外套の事だ。この外套は、狩りに行ったり遠くから水を運んで来たりする為に使うものなので、集落につきっきりのハラルトには不要である筈だ。なのに、それを纏えと言う。一体どういうつもりか。

 不審に思って眉をくちゃりとさせたら、コアも面食らった顔をした。

「どうしても何も、アンタも行くんだよ」

「どこに?」

「どこって……。決まってんだろ、スィーン姉とトゥァカ姉んとこに行くんだよ。アンタも、仕留めたでかい奴運ぶの手伝え」

 かなり突拍子もない提案だった。でも、コアにしては珍しくふざけた様子がないものだから、本気で言っているのだろう。

 時たまとんでもない事を言うコアに慣れているとしても、このタイミングで言うのは、まずい。スィルの心配性からくるものは、自然のどんな側面よりも恐ろしい。そう思って、カクカクの動きでスィルの顔を見る。

――視界に入ったのは案の定、今にも爆発せんとする姉の顔だった。


「ちょっと! 何いってるの!」

 顔を真っ赤に染めたスィルの強烈な雷が落っこちる。でも、まだまだ底知れない。こうしている間にもスィルは、耳まで真っ赤に染めだした。気のせいだが、ニョキニョキと健やかに、恐ろしい獣の角が生えて来たようにも見える。あくまで、気のせいだが。

 こうなったら、ハラルトにはどうしようもない。虫のように小さく小さくなって、黙って事の成り行きを見守る他にないのだ。

「そんなに怒んなよー。いつも集落にいたって、ハラルトだって退屈だろ?」

 コアはにんまり笑いつつ、両手を頭の後ろに組んで背筋を大きく反らし、天井に顔を向けた状態で、視線だけを送ってきた。いつも通りの声音から、まったく物怖じしていないとわかる。

 いい加減というべきか、意志に芯が通っているというべきか。とにかく恐ろしいと感じた。

「怒ります、ていうか怒るに決まってるでしょう! ハラルトには狩りを教えてないんだし、遠くにだって行かせた事もないのに! 何をどうしたら! いきなり遠くに連れていく事になるの! しかも、日も落ちてきたのに!」

「おっほぉー、怖い怖いー」

 とんでもない速さでパクパクパクパクと動くスィルの口に、言葉が遅れてついてくる。そうかと思えば、時たまだけ珍しく降る暴雨のように、言葉がいっぺんに降り注いで来たりもする。

 こんなおぞましい状況にも関わらず、コアは相も変らぬ具合で、両手をバタバタと頭の上で振り回しながら飛び跳ねて、ふざけだす。何の踊りだろうか。まさか、スィルが恐ろしい獣に変身するのを手伝っているのだろうか。

 当然コアが怒られている訳だが、話の渦中にいるのはハラルトであるから、どうしても自分に言われているのだと錯覚してしまって、さっきよりも小さくなるしかない。

 そんな訳で、ハラルトは点になった。

 ぼろっちい壁の亀裂にポツリとこびり付いた、目を凝らさなければ見えないようなシミよりも小さな小さな、点に。

「コアッッッ!」

 スィルの目が、ギラリと真っ白く輝いた。姉はとうとう恐ろしい獣になり切ったのだと、ハラルトは思った。

 そんなスィルを見て焦ったのか、コアはヘンテコな踊りをぴたりと辞めた。もう遅いが、何を思ったのかコアは、壁にもたれたスィーンの外套をふんだくって投げつけてくる。それは素早く宙をはためいて、ハラルトの頭に乗っかった。

 丁度視界を遮られたが、「アンタは先に外でてろー」と言われて背中を押されたので何の抵抗もできず、ハラルトは勢いに身を任せるしかない。外套越しのおでこにゴツンと、戸らしき何かがぶつかった。

 でも、それどころではない。ハラルトが転んだ拍子に、スィーンの外套は頭の絆しを解いたのだが、目の前にあるのはおんぼろの家の汚い戸だけだ。きっと中では、恐ろしい事が起こっているに違いないのだ。

 そう考えながら、ハラルトはふるえてコアを待つ。でも、恐怖など霞んで見える位に、外への期待は膨らんでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る