2.2.2 親愛なる者へ

「本気なの?」

 家の戸が閉まってから少しの間をおいて、スィルは静かに言った。僅かに遅れて、声に混ざって出てきた吐息がコアの顔をくすぐったが、神経がピリピリしているからか、あまり気にかからなかった。

 目と鼻の先に立つ姉の顔は、怒りと何かしらの感情がごちゃまぜになってる。こういう時のスィルは、正直怖い。しかし、だからこそ怖気づかずに、ちゃんと説明するべきだとコアは思う。

「本気だよ。アイツは集落の外を見るべきだ。アイツ自身も、それを望んでると思う」

 姉妹を想う気持ちは、コアだって同じなのだ。スィルならば理解できない筈もない。

 しかし、不穏だ。

 スィルの肩がピクリと動く。そして、揺らぎないと思われた瞳の輝きも、少しだけ濁った気がした。

 腹立たしい程に固く重い空気が、時間をかけてやんわりと纏わりついてくる。逃れたいのだが、目に見えぬ重圧は逃してくれそうにない。

 悶える事もままならずにいると、スィルは静かに離れて、長くて鬱陶しい溜息をついた。同時に、生気の抜けた生ぬるい視線は地へ向いて、肩もガックリと落ちてしまった。

 姉は貧弱な声音で言う。

「いくら望んでも、あの子の体がみんなと変わりなくなる事はないの。マオテが言うんだから、間違いない。あの子の極端な虚弱に、治る見込みはないの。だから……」

 スィルの語尾は、霞んで消え去った。

 いつの間にかスィルは、コアの知る姉ではなくなっていた。彼女は誰になってしまったのか。

「だから、なんだよ?」

 思わず、口を尖らせてしまう。コアは、小さくなってしまったスィルの姿を見たくなかった。そんな気持ちから来るのだろうか、縮こまった姉がだんまりしてから、苛立ちが募ってゆく。コアにはわかっているのだ、姉は誰よりも姉妹に対する愛情が深い人物なのだと。だからこそ、吹けば飛ぶ羽虫のように脆くなってしまっている姉を、否定するべきだと思う。

「スィル姉。アイツは大丈夫だよ」

「……」

 先ずは、スィルを安心させようと思った。

「アタシがちゃんと見てるから」

「……」

 ハラルトにだって、笑ってもらおうと思った。

「だから――」

 その時だった。

 小さくなってしまった姉が、ほんの一瞬だけ真っ黒になった気がした。


「あの子に、期待させないで」

 ズッシリとした一言が、コアをして言わせれば信じ難い事に、スィルの口から放たれる。その重さに押し潰されて、粉々になってしまったかと思えた。

 暴状的にして非情なまでに鋭い瞳。乾いた唇から漏れる空気は、不規則で不愉快なリズムを届けてくる。姉は、根拠のない絶望感と凄みを帯び、まるで悪い亡霊に憑りつかれているように映った。

 そんな彼女も含めて、全てが静まりかえる。いつの間にコアは、魂を抜かれてしまったのだろうか。今のスィルを前にして、コアはどうする事も出来なかった。だからこうして、ただ茫然と立ち尽くす他にない。

 やがて、室内を光で染める火が、唯一、小さく揺らめく。

 つられて影が踊りだしたから、コアには、静まり返ったすべてが一斉に動き始めたように感じられた。

 いつの間にかコアの中で、慕う姉に対して強烈な嫌悪感が生じる。そして、それに気が付いた頃には、自分にもその矛先が向いていた。

 こんなスィルを見たハラルトは、毛を逆立てて激昂する獣と同じだと思うだろうか。意志を貫く為なら手段を選ばない、無慈悲な獣と同じだと、思うだろうか。

 そう問われれば、否であろう。断言できる、決して獣などでないと。少なくともコアは、姉妹の中で誰も持ちえないであろう深い愛情が、スィルにはあると思っている。そんな事から、感情を噴出させたに違いない。決して、克己とかけ離れた獣などではないのだ。

 こういう場合は、どうするべきだろうか。考えてもわからない事だろうが、わかる事と言えば、耳から侵入してきた重い一言が頭を真っ白にさせてから、ぼんやりとした違和感が延々と続いていて不快という点だろう。

 右手の平を、そっと側頭部へ置き、しつこく残る不快感を相手取って小競り合いをする。そうしながらコアは、こんな姉を見るのは久しぶりだと、漫然と思う。だが、どうしても姉の意味深長な感情の矛先が自分に向いているのだとは、とてもじゃないが考えられなかった。

 その筈だ、コアの知る姉は強く、凛としていて、決して馬鹿げた事を口走るような愚か者ではないのだから。

 コアは脱力した。伴って、右腕は重力に従い、指先が太ももに当たる。起立を継続出来たのは、足だけを器用に扱ったからだが、なぜだかそれが不思議に感じられた。

 彼女は続けて、ゆっくりと目を瞑る。すると、それとは対照的な勢いで、心の隙間から何かが滲んで来るのに気が付いた。止めどなく、見境もなく。だが彼女は、得体の知れない感情への対処法を持ち合わせていない。なのに、自身のプライドは、折れることを認めたくないと叫んでいる。

 つまり黙って瞑目し、耐え続けるしかないのだ。

 今までの自分は、性にもなく無力感に打ちひしがれる事が、これ程までに忌むべき事だとは思い至りもしなかった。

「フ……」

 乱暴で無邪気に外へ飛び出そうとする何かに、無力な彼女の辛抱は続かない。

 やがて滲みは広がり、とうとう溢れ出るに至る。その瞬間、プツリと、何もかもが途切れた。

「アッハッハッハハハ――!」

 行き着いた先に待っていたのは、笑いだった。嘲笑でも苦笑でも、あるいは憫笑でもない。

 コアは笑う。とにかく面白可笑しくて、止められない。どう考えても面白い状況とは言い難いと、ほんの僅かに残っていた理性が訴える声を確かに聞いた気がした。だが乾いた笑いは留まることを知らない。


――結局、どこか遠くから弁えもせずにやってきた笑いが完全に枯れ落ちるまで成行きに身を委ねていた彼女は、気が付けば、腰から『く』の字に折れ曲がって、自分の腹を強く抱きしめていた。辛うじて寝転ばなかったのは、きっと何かの幸運だ。

 小さく燻る正体不明の感情と、僅かに張っている腹の鈍痛から逃れるように、苦し紛れに頭を上げてみる。すると、あんなにも恐ろしく変わり果ててしまっていた姉の顔が、呆気に塗りつぶされている事に気が付いた。

 当然の反応だろう。

 ネジが外れてしまった妹を見る姉の気持ちに同情しつつ、大きく深呼吸をして、コアは自分を落ち着かせる。それでも、顔と腹の筋肉に、僅かばかり引き攣りが残ってしまう。


 平常心は、戻ってきただろうか。

 そうでなくとも、姉の目に映る自分の表情がおかしな事になっていないだろうか。


 そんな心配をしたのだが、心持ち程度の心配は、どうやら不要だったらしい。

 涙で霞んだ視界越しに、スィルの表情が変化する。

 暖気を生み出し続ける灯りで柔和なオレンジ色に染まった姉の顔には、黒だの赤だのといった、直感的に悪い連想をさせる色も潜んでいた。

「ふざけないで、コア」

 相変わらずスィルは静かだった。だが、長いこと共に生活をしてきたから、些細な節々から漏れ出す怒りを、コアは簡単に読み取れる。

 重い。

 鬱陶しい。

 正の感情も負の感情も、一度速度がつけば、行くところまで行ってしまう。だから一度、落ち着かなければならない。

 そう思って、彼女は再び、緩やかに息を吸う――――。


 部屋全体に広がるしじまと温色、それから、薄灰色の影。気が付いたら、周囲に目配せできる程度の落ち着きを取り戻していた。

 反面、急速に平坦化しつつある情緒が目まぐるしくて恐ろしくもあった。先ほどの乾いた笑いと比べ、自分の感情が抑制できないという点で、本質は全く同じなのに。

 静まりかえった家の中よりもずっと不気味な心は、どこまでもなだらかになってゆく。

 そこには、風も吹かず、音もなければ、色もない。

 形は、点でもなく、面でもない。

 ただの真っ新なのだ。

 これ以上なく奇妙な感情を、コアには正しく表現できない。

「……。…………」

 姉が何かを言っている。

 それは真っ新な心には届かない。いや、届いてから、意味を理解する暇なく、瞬時に埋没してしまったのかもしれない。とにかく、完全無欠な空間には、何も存在できない事だけは理解できた。

 その直後だった。

 何の起伏もない真っ新な心が、目の前に『広がる』。不可解な自身の内面が、まるで現実を見ているかのような鮮明さで浮かび上がって来たのだ。

 だが、変化はそれだけに止まらない。真っ新な心の中心が、仄かに光った。どこかで見たことのある色だったが、そんな事は、今成すべき事の比重が大きすぎるから、気にするまでもない。


――今、成すべきは。




「――っと! 聞いてるの? ねえ!」

「聞いてるさ」

 コアは、短く静かに嘯いた。

 スィルの言葉は、たった一つの重厚な姉の感情の塊を除けば、雑音としてしか聞き取れていない。それでもコアにとっては、その感情の塊を嗅ぎ取るだけで十分だった。

 だからこそ、ハラルトの想いもスィルの想いも等しく尊いと知っているコアは、姉の愛を正しい形でハラルトへ届ける必要がある。それが彼女にとって唯一の成すべき、成せるべき事なのだ。

 纏う外套の肩口をそっと掴んで軽く引っ張ると、外套の襟が首に触れて、少しばかりの冷たさを感じる。だが、それと対照的な熱を帯びているのは、自身の使命感なのかどうかまでは、コアには判断できなかった。

「アイツはこれからも、生きていかなきゃいけない。どんなに体が弱くても、ガキでも、生きていかなきゃいけない」

 姉から視線を逸らさず、肋骨が大きく開く位に息を吸い込んでから、狩の時程の慎重さで、それに言葉を乗せて吐き出し続ける。

「ここは空の庭とは違うんだ、なんでも自分達でやらなきゃ生きていけない。それはアイツだって、ちゃんとわかってる。だからアタシは、アイツの好きなようにやらせるべきだと思う。いつまでも手取り足取りやったって、一人前になんかなれるものか」

「で、でも!」

 スィルは、自身の腰に纏わりつく布を掴む。酷く皺が寄ったから、力一杯に握りしめたのだろう。

 つい先ほどまではこんな姉を見たくないと思っていたのだが、今は不思議と、気後れがなくなっていた。深呼吸の一つでもすれば、気持ちがどれほど落ち着く事か、コアは狩りを通して知っている。

「でも、どうしたんだよ。アイツは体が弱くて一生かかっても一人前になれる見込みがないから、何にも期待せずに慎ましく、スィル姉の言うことを聞きづつけて生きろっていうのか?」

「それは……」

 スィルが唾を嚥下した音が、姉の現在の心境を如実に表しているようにさえ感じる。それでもコアは、止めるつもりはない。

 こうして相手の気持ちを量ったり、自身の心を落ち着かせたりする術は、多くの人や自然に触れて養ったのだ。ハラルトからそれらを養うチャンスは、奪われてはいけない。ましてや、愛し、愛された為にそうなっては、姉妹のどちらも浮かばれない。

「言えるのか、アイツに。絶対に虚弱が治らないアイツに」

 少しの凹凸もない、真っ直ぐな意思と意志。不穏は、一切が彼方へと消えていた。それはコアの心中だけでなく、温い部屋の中でさえもだ。

 対するスィルは、あらゆる感情を、見開かれた瞳に宿す様相で黙り込み、一切の動きさえも止めてしまっている。

 だが、コアは続ける。自身に無慈悲や邪気は、決して宿ってなどいないと確信している。

「人と比べて劣ってる事は、アイツが誰よりわかってる。それでも人並みに色々な事を見知ろうとしてるアイツの努力とか好奇心とかは、無視していいものじゃない。これからのアイツに必要なのは、過保護じゃない。アイツ自身の人生――自由だ」

 少しばかりの沈黙の後、スィルは顔を真下に向けてから、フッと息を吐く。

「わかってる」

 たったの一言を、絞るように呟いてから、スィルは顔を上げる。姉は、目を隠す前髪の隙間から、濃く、深い感情の片鱗を覗かせた。

 一筋の美しいそれを二本、するりとこぼして、姉は静かに言う。

「あの子の好きにさせてあげたい気持ちは、私も同じ。でも、あの子がどこかへ行ってしまうんじゃないかって思うと……」

「母さんの事か?」

 コアにとって、持て余した感情の欠片を頬に残す姉が、何を考えているのか想像する事は難しくない。母が消えた事は、コアにとってみても非常に重い出来事だったのだ。だから、姉がハラルトに対して悪い結末を重ねてしまう気持ちは、すぐに理解できた。

「こんな事を考えるのは、嫌な姉だってわかってる。でも、私はもう、家族を失いたくない」

 スィルのすらりとした指が、自身の腰巻を巻き込んで、力強く握られた。

 慈愛が誰よりも大きく、悲哀を誰よりも重く受け止める姉だからこそ、いつか失われるという合理と、残された者の心に生まれる不条理さを背負い込んでいるのだろう。コア自身も、『失う』と聞けば改めて、事実の重さに心臓が締め付けられそうになるのを感じる。

 だが母は、合理を受け入れ、それに寄り添って生きてきた様な人物だった筈だ。母の想いを継ぐ者として、説かれた事を反故には出来ない。

「スィル姉の気持ちはわかる。でも、母さんも言ってたろ? 大地に生まれて、大地に死ぬって。人も獣も、いつか死ぬさ。それまでに、どれだけ生きる事を、命を繋げるかが大事なんだと思わないか? それに母さんは、いなくなったんじゃないさ。世界中の大地の残滓に、生きる術を教えに行ったんだってアタシは信じてる。人々がこれからも命を繋げるように」

 コアは、穏やかにほほ笑むと、自身の外套の裾を指で優しくなぞる。外套は、生ぬるい部屋と同じ位まで温まっていると気づいた。

「人々を生かすのは、人々しかできない。自分を生かすのは、自分にしかできない。アイツの命は、アイツが守って、磨いて、楽しむものなんじゃないか?」

 コアが聞いた自身の声は、母のそれのように穏やかだった。

 コアには、姉の握られた指をほどいたのは、母の声だったのではないかとさえ思えた。

「そう……だね」

 かすかにつまりながら、スィルは言った。それだけを聞けば十分に、特徴のある柔らかみが姉に戻ったと、コアには理解できる。

 スィルはやっと、瞳を隠す邪魔な前髪をどかして、瞳を見せた。

「コアの気持ちも、いつかあの子が立派になる為に、色々経験をしなきゃいけないって事も、わかった。だけど、私の心配も、あの子の体が弱いって事も、消える訳じゃない。だから――」

 幾許か、時間が伸びた気がする。狩りの時のような、張り詰めた空気でそのように感じる事はあるが、スィルが作った暇は決して、無機質なものではない。

「だから、あの子の事は、くれぐれも任せましたよ」

 コアは、姉の瞳の奥底から目を逸らすことなく、ゆっくりと頷く。そして、外套の襟を素早く立ち上げて、それと対照的にゆっくり立ち上がって、軋む扉を開け放った。


 一歩外へと踏み出せば、茶色の外套がよく似合う、か弱く愛おしい末っ子の姿があった。何故だかムッとした顔でプイっと素早く頭を動かしてそっぽを向いてしまったが、コアにはわかる。

 彼女がこの瞬間を待望していたのだろうと。

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