大きな獣

2.1 目的を携える者達

 空の庭の長は、久々に地へ立った。

 以前来た覚えはおぼろげながらあるのだが、残念ながら彼女は、最後に降りたのはいつだったか、何のために降りたのかに関してを、どうしても思い出せない。

 天空から見れば腐敗に覆われて紫色に光っていた筈の大地も、こうして間近で見れば、別の色があった。

 正直に言えば、ウトゥピアは景色を眺める事で感銘を受けるような美的感覚を持ち合わせていない。だがそんな彼女といえど、天空の庭園に造られた花壇や、自室から見下ろす庭園そのものは美しいのだろうと理解できる。その程度には、見る目を持ち合わせているつもりだ。

 だから、そんな光景と比較すれば、至近距離で見る地上は、決して心が躍る印象を受けるものではないとわかる。空の色、土の色、緑の色。それらがただ、雑然と並べられているようにしか思えなかったのだ。

 天空の庭園に住まう民は、そんな地上へ好んで降りないだろう。とは言え、彼女が感じたように、地上が退屈な場所だという意味ではない。

 ”降りられない”のだ。

 天空の民の意識には、地上の民への差別意識と腐敗への恐怖が強固に根付いている。目に見えぬものの恐ろしさは、目に見えるものよりも大きいのだろうか。

 そう考えた彼女は、その途方もなく馬鹿馬鹿しい疑問を解決する事が、どんなに無意味であるかをすぐに悟り、思わず、汚れた空気を少しだけ吸い込んでから、フゥと小さく、静かに放った。


――尤も、空に住まう民の観念に関しては、歴史を振り返れば当たり前ともいえる。

 彼女が書物から学んだ事が正しければ、イリオスは今日に至る歴史の中で、腐敗を原因として多くの民を失い、あるいは、それによる混乱に起因して、貴重な人材や、時には王をも失ったのだ。罪深い話だと自覚している者もあるだろうが、今だって、忌むべき歴史の多くを作り出した腐敗に、劣る者達を選り分け、突き落とした。だから、天空の庭園で安楽を享受する民が地上に降りるという行為は、選り分けられ、腐敗に晒され続ける人々からどう思われるか考え付くのに容易であるし、そもそも、彼らが腐敗の只中に顔を出そうと思う事自体、愚かしく、あるいは、おぞましいのであろう――。


 しかし、地上に降りられない天空の民とは対照的に、腐敗に対するあらゆる背景を気にかけずに、彼女は地上へと降りた。彼女は、女王として成すべきならば、生命を手放すことをもいとわない。なぜそうであるのかは、彼女自身、真剣に考えた事もない。しかし彼女は、自分が何かに取りつかれているのかも知れないと思う程度には、行為に対する異常性をうっすらと見出しているところだ。




 ウトゥピアは、つい先ほどまでいた空を何の気なしに見上げて、不意に複雑な気分に駆られる。何しろ、今ここには、狂気を宿した人物が二人もいるのだ、イリオスでは考えられない狂気を宿した人物が。

 空から降りてきた軌跡を想像し、それをなぞるようにゆっくりと眼球を動かせば、ウトゥピアの瞳に、狂気の片割れが入り込む。

 老人だ。

 彼女の中には、多くの人々が抱く通念を無視して行動できる程に強固な観念体系がある訳だが、瞳の中で自らの存在を強烈に印象付けてくる彼もまた、イリオスの民中を捕えて離さない腐敗への厭忌に、容易く背を向けた。そうやって、イリオスの倫理観から容易く外れた異常者が二人も、地上へと降りてきたのだ。

 彼女自身の事はいざ知らず、異常な老人は、人の心を読み解けるからこそ、腐敗への知識を正しく理解できるのだろうか。近づかなければ――厳密には、体内に取り込まなければ問題がないという事実や、地上の民はどうあっても、天空の庭園に住まう民に歯向かえないという点について等だ。

 ともあれ、考えてもわからない事だと、彼女自身も理解している。どうしても知りたいのならば、彼に直接聞けばよい。


「考え事ですかな?」

「考え事なら、お見通しなのではありませんか?」

 ウトゥピアは、砂埃や土に埋もれかかった転送装置上で、老人にゆっくりと頭を向け、それからピクリとも動かずに閉口した。

 心を覗ける老人に、いちいち質問する必要はない。

「そうですな、随分難しい事を考えておられた」

 どうやら老人は、ウトゥピアの疑問に応じる気配がないらしい。彼は、あえて質問してくるのを待っているのだろうか。もしそうだとすればどんなに非合理な事だろうと思い、彼女にしては珍しく、疑うような目つきになってしまった。

 対する老人は、ウトゥピアの顔を見て、幾らか楽しそうな様子である。だから彼女は、ますます老人の心境を察する事が難しくなって、表にこそ出さないが、多少不機嫌になるのを実感してしまった。

 とは言え、彼もイリオスの民である事に違いはない。女王として彼に成すべきは、無駄な質問でなく、彼の帰還を考える事であろう。そんな彼は、一人で転送装置を動かせない。だから、老人と共に空へ帰ると考えれば、彼の目的と自分の目的の二つを達成しなければならない。つまり、ウトゥピアには雑多な事柄に思考を裂く時間など、どこにもないのである。

「日が落ちるまでしばらく時間はありますが、私が天空の庭園を留守にする時間は、短い方が良いです。探し人に心当たりがあるのなら、先にそちらを済ませましょう」

 それに気づいた彼女は言いながら、軽やかに、自然と同化しかかった転送装置から舞い降りる。転送装置の修復過程を老人に秘匿したかった彼女は、先に彼の用事を済ませてから空に戻る算段を立てたのだ。

 大地が汚れている事など意に介さない調子で、女王らしく堂々と歩みを進め、提案に応じず閉口している老人をせかすように、彼の真正面まで来て止まった。

 ウトゥピアは、時間が惜しい。

「どうしたのですか。早く行きましょう」

「……いや」

 老人は、気持ちが急くウトゥピアの心を読み取っている筈である。にもかかわらず、彼は意思に答えない。それどころか、遠くを見るような目をして、黙り込んでしまった。

 この老人の事であるから、ウトゥピアは、彼を無理に急かす事が出来なかった。何かを言えば、上手に言いくるめられてしまう。心を透かし見る力によるものか、彼の老練さによるものか。

 焦る気持ちを抑えつつ老人を見ていれば、彼はゆっくりと背を向けて、明後日の方向に向かって問う。

「女王は時間が惜しいのではないかね?」

「わかっているなら――」「ならば、ここで別れよう」

 ウトゥピアは、老人が当たり前の事をいうものだから、思わず一言告げようとした。だがそれは、予想の斜め上を行くと思える位に素っ頓狂な一言を前に、掻き消えてしまう。

 流石のウトゥピアも、全く想定していなかった提案に対して言葉を見失ってしまい、老人の小さな背中を、穴が開くくらいじーっと見つめて、完全に固まってしまった。

 勿論、彼の提案に同調するつもりはない。

 そんな彼女を背に、小さな老人は何を思ったのだろうか、大きく息を吸って少しだけ背伸びをしてから、ため込んだ息をゆっくり、静かに放つ。

「ここは空気が悪いですな。あなたはやることを終わらせて、帰りなさい」

 彼のいう『やること』は、細部まで見透かされているのだろうか。ウトゥピアは少しだけ気にかかったが、そんな些末な事はさておき、小さな老人はとんでもない事を言っている。

 彼と共に地上へ降りてきた時点で、すぐに空へと戻る事が難しいと、ウトゥピアはわかっていた。だからこそ、老人と共に降りると決めた時、彼女は最後まで、彼の面倒を見るとも決めていたのだ。何しろ彼女は、天空の庭園と、イリオスの民を総べる女王なのだ。たった一人の民といえども、地上に取り残す事は出来ない。

 彼を地上に連れてきてしまったのは、ウトゥピア自身でもあるので、ことさらである。

「私の仕事は、民の平和を維持することです。あなたもイリオスの民なのですから、天空の庭園よりもずっと危険の多い地上に残して帰る訳にはゆきません」

「平和、ですか」

 ウトゥピアは、何一つとして、間違った事を言ったつもりはない。しかし老人は、ウトゥピアに向き直るや否や、やれやれといった感じで、ため息交じりに呟く。彼の焦点は相変わらず遠くで固定されている上、ウトゥピアの視界に入る彼の何もかもが、彼女に寂れた印象を植えつけてくる。そんな調子だから、自分が変な事を言っているのではないかと思えてきて、彼女は二の句を継げずに黙っているしかなかった。

「平和とは、人の心が満たされなければやってこない。勿論、満たされすぎも良くないがね」

 静まる空気とウトゥピアに向けて、老人は続ける。

「満たされぬ誰かが一人でもいれば、それは募り、やがて平和は瓦解する。過去のイリオスのようにね。いわば、はりぼての平和だったと言う事だ。そして私の心は満たされていない。だから私はこの場所に残り、自らに残された使命を遂行するさ。あなたに平和を維持する使命があるようにね」

「しかし……」

 寂れた老人は、ウトゥピアに焦点を合わせたと思えば、柔和な表情になる。彼の意味深長な動作の意図を読み解く事は出来ないが、少なくともウトゥピアは、自分が言葉を続けるのには、もうしばらく時間がかかりそうだと感じた。

「では、こうしよう。私は今日をもって、イリオスの民でなくなろう。要するに私は、地上の民となった。地上の民が天空に戻るなど、イリオスの民が許さないのではないかね?」

 彼は終始身勝手で、女王たる自分をも振り回す人物なのかと、ウトゥピアは感心すら覚える。しかしだからこそ彼女は、そんな老人を駆り立てるものの正体を見たくなる。

 禁じられれば欲するようになるとは聞くが、そういった類の話なのだろうか。

「あなたは、なぜそこまで『誰か』にこだわるのですか?」

 老人の正体は、彼自身が隠し続ける限り、永久にわからないだろう。しかし、彼を駆り立てるものの正体は、問えば答えてくれるかも知れない。

 彼の望み通り地上に連れてきた自分にはそれを聞く権利位はあるだろうし、聞かねば話は進まない。そう考えたから彼女は、謎の老人の目を真正面から覗き込んで、実直な質問をぶつけたのだ。

「あなたにしては、いくらか簡単な質問をしますな。……あなたがここにいるのは、イリオスの為。イリオスの為に働き続ける事が、女王として生きてきたあなた自身の、存在意義の証明につながる。それと同じですな。私は探し人にこだわる事で、自分の存在意義、価値、そういったものを証明したいと思っている訳ですな」

 老人は、誰かにこだわる理由について、ウトゥピアと同じだと言う。その上で、続ける。

「だが問題となるのは、そこではない。こだわる対象ですな。あなたはイリオスの恒久の平和に、私は誰かにこだわっているが、その末路は恐らく悲惨だろう」

「平和は続かないと?」

「イリオスにも、前例はあったろう?」

 老人の言う事は、確かだった。だが、ウトゥピアは彼に同調する訳にはいかない。彼女は女王なのだ、彼に同調して良い立場ではない。

 それよりも、まるで自分の存在意義を否定しているかのような物言いに気分を悪くして、ウトゥピアは老人に敵意すら感じてしまった。

「老婆心から申し上げれば、イリオスを捨て、女王としてではなく、ウトゥピアとして生きなさいと言いたい所ではあるが、聞き入れるようなあなたではありませんな?」

 老人は、ウトゥピアの平成を乱す発言を、何の躊躇いも感じられぬ調子で、続けた。だがウトゥピアは、それに対して何も反応しなかった。

 怒っている訳でも、警戒心からそうしている訳でもない。ウトゥピアは、目の前の老人が文明のトップに君臨する者の不自由さをちゃんとわかっていて、尚且つ、行きどころのない虚無感を代弁している様な気もして、とても発言できなかったのだ。

 重苦しく、乾ききった時間。その中で、老人は自嘲気味に微笑みながら言う。

「さて。そろそろお話もおしまいだ。私は行くよ。お互いに、良い結果が出ると願ってね」


 彼は、少々名残惜しいのか、緩慢な動作でウトゥピアに背を向け、やっとと思える間を設けた後、歩み出す。

 同時に、汚れた空気がウトゥピアの長い髪をふわりと持ち上げ、きめ細かい肌をやんわりとなぞった。

 彼を止められる。

 不自由のない楽園から、進んで苦難へと旅立つ彼を、ウトゥピアは止める事が出来る。

 しかしどういう訳か、黙って見送ったほうが良いのではないかと思えてきて、彼女はただ、立ち尽くす事しか出来ない。だからせめて、雑然と並んだ味気のない色の中に彼の姿が溶け込んでしまう前に、なにか言わなければならないと感じ、随分小さくなってしまった老人の背に、彼女は一声投げかける。

「お元気で」、と。




 最後の声は届かなかったのだろうか。

 老人が何の反応も見せずに殺風景へ埋没してから、しばらくが過ぎた。しかし不思議な事に、先ほどまで急いていた気持ちにそぐわず、ウトゥピアの近くには、未だ砂に埋もれた転送装置があった。

 結局彼女は、自分が最後の最後まで老人にいわれるがままだったと、深く反省する。それでも、彼との会話で譲れなかった部分は、これからも貫くつもりではある。

 恒久の平和。

 イリオスを維持し続ける事こそが、ウトゥピアの人生なのだ。


 少しの間目を瞑り、黙って気持ちを切り替える。

 肌理の粗い風が、粗雑に体をすり抜けて行くと鋭敏に捉えたが、やがてそれらも集中が高まるにつれ、あらゆる雑念と共に、意識の片隅に消え去った。

 とにかく今は、目前の仕事を片付ける。そう決めた彼女は、手のひら大程の板状の機械を取り出し、ピカピカと規則的に明滅するそれに従い、水気のないカラリとした空気を押しのけて、着実に進みだした。

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