1.5 終末を告げる花

 とても心地が良かった。それは、裸足で草の上を駆け回る時のように。あるいは、暖かいとも冷たいとも取れる緩やかな風が、纏う布を透過して全身を優しく撫でてくるように。なんでも手に入ると噂される楽園よりも遥かに貧しい生活だからこそ、何気ない快感に対して、喜びを感じ、生を噛みしめられるのだろうか。

 兎角、ハラルトの心は満たされる。そして、ずっとこのままでいたいとも思った。

 でも、どこか遠くで自分の名前が何度も繰り返されるから、ずっとこのままではいられないのかと、ハラルトはちょっぴり残念に感じる。呼ばれているのだから、応じねばならない。

 ハラルトは、どこも見ていない。そして、何にも触っていない。それを自分でもわかっている。だから、どこで自分の名前が繰り返されるのか、一体なぜそうするのか、そんなことは当然わからない。そもそも、自分の名前を呼んでいるのは人なのだろうか。

 彼女は、名を呼ぶ何者かに応じようとして、しかし、何も出来ない。歯がゆい思いを味わっている内に、再びハラルトは、心地よさに沈んでゆく。

 応じる事を、諦めかけた。

 否。諦めかけた、だけだった――。




「ハラルト!」

 突然大きな声が頭の中身を揺さぶってきたから、大きな音に驚いた獣の如く短く体を震わせ、少しづつ、ゆっくりと目を見開く。すると、遥か遠くにべったりと塗り付けたような、一片の陰りもない青が広がっていた。

 この光景は見たことがある。そして、後頭部から踵にかけて何かが張り付いている感覚も、身に覚えがある。だからハラルトは、自分が背中から大地にぺったりと張り付いているのだとすぐに理解して、仄かで柔和な褐色の両腕をつっかえ棒に、上半身だけをピョンと起こした。不思議と彼女は、そう出来る位の元気があったのだ。

 どうやらハラルトは、深いまどろみの底で泳いでいたらしい。そして、自分の名を繰り返すことでまどろみから引っ張り上げてくれた何かは、スィルだった。姉の険しい表情を見れば、ハラルトが今まで何をしていたのか想像するのは、狩りの道具を磨く事よりも簡単である。だから、スィルに心配させてしまったことをきちんと謝罪し、同時に、心に生まれた罪悪感の芽を早急に刈り取ろうと思った。

 でも、それどころではない。

 なぜなら周囲の光景は、ハラルトの心に渦巻く複雑な感情を、まるで乱暴な砂嵐が何もかもを根こそぎ攫って行くように、全部消し去ってしまったからだ。

 彼女はただ茫然と”それ”を瞳に焼き付ける。右を見ても左を見ても、絶対に逃すまいと心を強力に惹きつける、無数の花を。


 数でも質でも、圧倒的だった。

 それらは、砂が降り注いで薄茶色に染まっているであろう大地を、完全に隠し尽くしていた。まるで集落から遥か遠く離れたオアシスを切り取って貼り付けたかのようで、ハラルトの心を激しく躍動させる。

 周囲を確認する為に、頭を持ち上げる。そこで彼女の気持ちは、更に逸る。

 紫の光の柱が、天を貫いていた。無数の花は、一つ一つが強力に発光する事で、一本の大きなそれを成していたのだ。

 空が明るいにも関わらず険しい顔をしたスィルの輪郭を下からくっきりと浮き上がらせる位に、強烈な閃光。まるで、世界の真ん中にいるような気がした。

 ハラルトは、自分を取り囲むように咲き乱れるそれらの名前を知っている。”セゴルの花”だ。だが、この花は、彼女の知識曰く、夜でないと確認できない程に弱々しい光を放つ筈である。故に、なぜ明るい時間帯なのにも関わらず、辺り一面が淡い紫色に染め上げられているのかが不思議で、ハラルトは首を傾げる。

 時を気にしてみれば、不思議な事はまだまだあった。

 太陽の位置から推測するに、恐らく昼間を少し過ぎた位の時間帯で、彼女が砂嵐に飲み込まれてから、さほど時間は経っていない筈である。なのに、あれほど大きかった砂嵐は、どれほど素早く過ぎ去ったと言うのだろうか。ハラルトは、遥か遠くを見る為に頭を伸ばしたり、キョロキョロと慌ただしく回転させたりするが、片鱗すら、どこにも見られなかった。

 だから彼女は、自分が目覚める以前、周囲がどんな状態であったのか見知っているであろう姉に問おうと口を動かすのだが、

「ねえスィル、どうして花が……」「何してるの!」

 妖美な空気に心を浸していたハラルトは、その印象と正反対の乱暴な一喝を前に、天敵に恐れる小動物の如く体をビクつかせ、いっぺんに現実に引き戻される。

 聞いたこともない声音は、彼女の質問を悉く打消し、その後すぐに、空気に溶け込んでいった。それでも、巨大な獣よりも遥かに恐ろしいといった心境を生み出す姉の一喝は、ずーっと鼓膜にへばり付いている様な気がしたので、ハラルトはこれ以上口を動かす事などとてもできずに、ただ目を丸くして姉の顔を見つめるしかなくなってしまった。

 ハラルトにとって、それはまるで、人々が生み出す無尽の欲を満たし続けて尚余りあると言われる空の桃源郷よりも、もっともっと高い所から降ってきた、いわば天罰と思える様なもの。幼い彼女がそれに抗うなど途方もない事だ。だから彼女は、重苦しいしじまを打ち消せずに、しばらく硬直していた。

 だが相変わらずそこにあるのは、太陽柱のようにくっきりと天に向かって立ち上がる紫色と、噴出しつつある激情を必死に堪えている調子が手に取るようにわかる、姉の表情だけだった。

 やがて姉は、芯のしっかりとした目でハラルトの顔に真正面から向き合って、風の音以外は一切静まり返っていたこの場所に、勢いよく吹き込む。

「砂嵐の中に飛び込むなんて……! 砂嵐は腐敗を運んでくる事もあるの! 体に入りでもしたらどうするの!!」

 耳をつんざく勢いの大声を、ハラルトは受け止めた。スィルの顔は今までにない程恐ろしいもので、その声からも、姉が激昂しているのが理解できる。だが、姉の思いの限りはそれだけでなかったらしい。叫び終えるや否や、姉の長い腕が大きく宙を泳いだのだ。その後に待ち受ける展開を想像しなくても、ハラルトは反射的にかたく目を瞑って――。


 チクリとする痛みが面で頬に押し寄せて、近くに落ちた雷の様な甲高い音が響くとばかり思っていた。だからハラルトは、目を開くつもりがなかったのにそうしてしまう。

 真っ先に飛び込んできたのは、一面の紫色。それは、先ほどと何ら変わりない光景。だとすれば、姉はどこへ行ったのか。

 しかし、スィルの存在を認識するまでに、そう時間はかからなかった。

 甘い香り。それは、姉の髪の毛から漂うものと同じだ。

 仄かな温かみ。それは、生き物――人の肌に触れた時に感じられるものと同じだ。

 痛くも心地よくもある、適度な圧力。それは、ハラルトの体に巻き付いており、どことなく安堵を感じる事ができるものだ。

 だからハラルトは、今までに起こった不可解な現象にスィルが巻き込まれてどこかへ消えてしまったのだ、と瞬時に脳裏によぎった馬鹿馬鹿しい妄想を確信せずに済んだ。そして、大切なものの想いに応じる為深く目を瞑り、なすがままにされるのだった。




 スィルの柔らかい抱擁に心まで包み込まれたハラルトは、ああでもないこうでもないと言いつつどこからともなくやって来た集落の人間達に囲まれるようにして、おんぼろの家に戻ってきた。彼らを誰が連れてきたのだろうと考えても、ハラルトにはわからない事だし、何よりも、彼らは何をするわけでもなくただその場に居ただけだったので、ハラルトにとって興味の対象とならない。

 とは言え、少しでも彼らに迷惑をかけてしまったかも知れないと思えば、ハラルトはちょっぴりいたたまれない気持ちになるのだった。

 ところでハラルトは、懸命だ。半裸で仰向けに寝かされている彼女を、マオテが覗き込んでくるからだ。だからハラルトは恥ずかしい気持ちを誤魔化す為に、彼の肩越しに天井のボロボロ具合を見つめながら、心を無にしようと努力している。そうしつつ、「痛くない?」とか「苦しくない?」だとか問うてくる医者の青年の声に、上の空で答え続けている。

 ハラルトは、彼の聞いてくる事の重大性を、何となくわかっている。何しろ彼は、集落でも貴重な医者なのだ。だから彼女は、ちゃんと答え続けているつもりだったのだが、突然に「聞いてる?」などと問われてしまえば、あたふたした調子で彼の顔を見る事になって、年頃の女の子らしく顔を赤らめてしまう。きっとマオテはそれに気づいたから、スィルに向きなおって「大丈夫そうだね」と言ったのだろう。

 ハラルトは余計に恥ずかしい気持ちを募らせつつ、ガバッと勢いよく起き上がり、乱暴に服を掴んで、そそくさと纏うのだった。

 しかし、姉は容赦をしない。

 いや、ハラルトを想うからこそと言えるだろうか。彼女は少しだけ怖い顔をしてハラルトを見るや、「ちゃんと言うことを聞きなさいって、いつも言ってたでしょう」と、声まで怖くして叱責して来た。

 怖い顔と声を見聞きしていれば、彼女が内に抱く想いがいかに大きいかをすぐに察せる。ハラルトは、素直に彼女の言いつけを聞くべきだと、真っ白な気持ちで受け入れた。尊敬する姉は自分よりも長く生きているし、そんな彼女の言いつけを無条件に聞き入れるべきなのは、当たり前だと思えるからだ。

 だからハラルトは、『わかった』と、愛する姉に伝えようとした。至極単純な事を言おうと思った。そうして、今回の衝動的な行動を悔いて、改めようと思った。

 でも、そんな純粋で真っ白な気持ちは、スィルに伝えられなかった。


「ハラルトは体が弱いんだから」


 付け足すように告げられた、たったの一言だった。

 きっと姉は、呼吸をするかの如く、小さく小さく呟いた程度だったのだろう。勿論、彼女が呟いた内容は事実だし、何気ない一言など、誰にでもある事だ。

 でも、それはハラルトに深く深く突き刺さってから、彼女の中を食い散らかした。やがて、ハラルトの頭を強力な一発が横殴りにして、挙句の果てに、真っ白な心をどす黒く淀めた。

 余りにも重厚な呟きは、体に対しても顕著に表れた。

 口は乾ききり、呼吸は荒くなり、視界は真っ黒に染まった。そんな中でもハラルトは、真っ黒な心が視界を埋めてしまったのかと、どうでも良い事を考えた。そうする事で、心をどす黒く淀めつつある『何か』を静めようとしたのだ。つまり彼女にとって、姉の何気ない呟きは、それ程までに大きな意味を持っていたのだ。

『何か』の正体は、見抜くなどと大仰に言う程のものでもない。誰にでも宿る感情の一端だ。それを必死に静めようとしているハラルト自身も、ちゃんとわかっている。

 怒りだった。

 ハラルトは、体が弱い。彼女が体力に自信を持てないのは、それに起因している。加えて、これは周知である。だからスィル以外の姉が――時にはスィルもだが――こうして狩りに出かけているのに、彼女は参加できない。なぜなら、させてもらえないからである。故に彼女は、自分と対照的な、屈強な存在に、憧れる。

 例えば、狩りが出来る屈強な人に。

 例えば、誰の助けを得ることもなく生きる、屈強な自然に。

 しかしハラルトは、憧れがどんなに儚いかを、知っている。憧れは、憧れでしかないのだ。当然の話であるが、それがあったところで、ハラルトの体が屈強になる道理はない。要するに、ハラルトにはどうしようもないのだ。

 だから彼女は憤る。それがどんなに愛しい人の一言であっても、何気ない一言であっても、憤慨する。どうしようもないと思って、諦観に自らを支配させなければならない程に強い体に羨望するからこそ、彼女の心は真っ赤に染まるのだ。それでも、彼女が抱く姉への愛も本物である。その気持ちを無視できないからこそ、こうして怒りを鎮めようと必死になっているのだ。

 だが、それすらも儚かった。

 一度波立てば、それは延々と広がり続ける。オアシスの水場のように、大きな溜まりとなっていればまだ良いのだが、ハラルトの心は、姉達に比べて小さく、脆い。だから、小さな胸の内で生まれた波紋は、壁にぶつかって新しい波紋を生み出し、やがていっぱいになる。そんな具合で、心の乱れは飽和状態を突破してしまった。肥大したどす黒い怒りが、みるみると心から溢れ出てきたのだ。

 とうとう、感情が零れ落ちる。

「強くなれるなら、初めからなってる! スィルなんか、嫌いだ!」

 乱暴に怒鳴って、歯をむき出しにする猛獣のような勢いで、スィルの顔を睨み付けた。おんぼろの家にはマオテもいるのだが、今は不思議と、全く気にかからなかった。例え自分の印象が悪くなったとしても、彼女の感情は、そんな事が些末に思えるほどに高ぶっている。

「ハラルト……」

 凛とした姉からはとても想像出来ない位に、か細い声を絞り出したスィルの顔は、生気が宿っていなかった。その真っ青な顔から読み取れる感情は、なんだろうか。

 ハラルトは、次に告げるべきを見失ってしまった。

 しかし後悔しても、遅い。

 言いつけを守るべきだと思ったのは事実だったが、こればかりはどうしようもない。ハラルトは感情に身を任せて、おんぼろの家のドアを暴状的に開け放ち、そのまま飛び出る。

 彼女は、こんな時にばかり自分の感情を真正直に受け止めて駆け続けられる弱い体が皮肉に思えて、憎くて憎くて仕方なかった。




 ハラルトは、大分長い事走り続けた。もしかしたら、今までで最も長く走ったのではないだろうかと思える位に。衝動に突き動かされたのか、あるいは、衝動から逃れたかったのか。それすらも忘れてしまう程、乱暴に四肢を動かし続けたのだ。

 砂嵐に飲まれて意識を失った地点――紫の花が咲き広がる方角へ向けて駆け始めて、集落から遠ざかろうと懸命だった彼女の体力は、いよいよ底を尽きた。呼吸は乱れ、腕や足は痛みをハラルトに伝える為、悲鳴を上げ続けている。

 いかに屈強な生き物でも、生命を持っていれば、それを無視など出来ない。体の弱いハラルトの事ならば、尚更である。だから彼女は、いっぺんに全身から力を奪い去られて、駆ける勢いで紫色の上に雑に転がった。

 吸い込み、吐き出す。

 また吸い込み、吐き出す。

 それを繰り返す度に、彼女の軟弱な体は大きく上下して、代わりに、元々底の浅い体力がどこからともなく蘇ってくる。

 そんな当たり前の事に精一杯だったから、たっぷりの時間をかけてようやく上体だけを起こすまで、ハラルトは疑問を忘れていた。

 紫光を放つ花。

 それらは集落を背にして、彼女の視界で捉えられる範囲全てを相も変わらず埋め尽くしている。余りにも現実離れしているから、ハラルトは恐ろしい何かが潜んでいるのではないかと感じてしまった。

 まるで、世界そのものを書き換える程に大きな力を持つ何かが、どこかに潜んでいるのではないかと。

 一体、何が起こったのか。

 どうして、遥か遠くの大地までもが、突然咲いた花に埋め尽くされてしまっているのか。

 姉に起こされた時のハラルトに熟考する時間はほとんどなかったが、今の彼女にはそれがある。だから彼女は、恐怖すら覚えてしまう一色だけの世界を見て、考える。

 そして直後に、考えるまでもない事だと知った。

(あの獣だ!)

 花は、紫の残光だけを取り残して去った獣が、まるで亡霊のようにうろついていた直後に咲き乱れている。ハラルトは獣の正体を知らない事であるし、どういった経緯で花が咲いたのかを理解出来ないが、だからこそ、今までに見たことのない獣が宿す、正体不明の力によってそうなったと考えた。

(あの獣は、大きくて白い獣なのかな。でも、でっかいだけで、白くはなかったしな……)

 最近集落で頻繁に語られる”巨大な白い獣”と、先に目撃した獣の相違点について、彼女は一生懸命に頭をひねる。

 でも、だからと言ってハラルトに何かを解明できる筈もない。母の様な底なしの知識はもとより、姉の知力にすら及ばないのだ、加えて彼女は体が弱い事だし、不思議をひも解こうと歩き回れる自信すらも、ない。

 底なしの好奇心を満たす為に、獣の正体について延々考察しそれを暴きたかったのだが、無力な自分ではどうする事も出来ないと知った彼女は、残念に思う。

 尤も、花に関しての謎を解明した所で、集落が豊かになるとは思えないので、そうする必要はなさそうでもある。それに、原因が獣であるならば、光だけを取り残して消える位に素早い、未知の塊を見つけなければならない事になる。そちらの方が無理難題というものだろう。

 だからハラルトは不可思議な現象を目前として、それを知る事を諦めた。

 それでも彼女にとっては、夜に仄かに輝き、微弱な腐敗を宿しているらしいそれが、素晴らしい光景を演出してくれるだけで十分だった。




 真下から世界を覆い尽くす紫色の中心で、ハラルトは立ち上がる。天を丸ごと抱擁するように両腕を大きく広げつつ空に顔を向けてみれば、僅かに朱色が滲んでいた。彼女は、美しくも恐ろしい光景の中にいると思うだけで、得も言えぬ満足感を味わえて、思わず笑う。同時に先の怒りは、あっという間に過ぎ去った砂嵐と同じく、見失ってしまった。それでも原因は覚えているのだから、スィルの顔を見れば再びギクシャクするかもしれない。それをわかっていながらにして、彼女は一抹も悄然しなかった。

 何か特別な力が、紫色の光に宿っているのだろうか。

 ハラルトはそう考えたが、当然答えは出ない。世界は、わからない事だらけなのだ。とにかく彼女は、やがて沈みきる太陽も、自分の体が弱い事も、丸ごと全て、気にすることなく立っている。彼女はただ、満足だった。

 どこまでも明朗な気持ちを噛みしめてしばらく棒立ちしていた。そうしていると、紫一色の世界の中に、かすかな黒点がある事に気付く。遠くに見える黒点は、ゆっくりゆっくり大きくなり、こちらに近づいているとわかる。体の弱いハラルトは幸い、目や耳や鼻には恵まれている。だから、黒点の正体が何であるのか、ある程度まで近づいた段階で見抜けた。

 彼女は大きな口を開けて、たっぷりの空気で肺を満たす。

 

「コア!!!!」

 黒点は既に、黒点でなくなっている。ハラルトの数十メートル先には、紫光に照らし上げられた姉、コアの姿があったのだ。

 彼女はハラルトが大声を放つなり、いつものようにニヤニヤしながらゆっくりと近づきつつ、「おーぅ!」と、適当な印象を受ける挨拶をしてきた。ハラルトは、砂嵐で予定よりも遅れて帰ってきたコアがいつも通りで良かったと思う。

 しかし、気分は浮かなかった。

 否。寧ろ彼女は、先の恍惚から一転、壊れそうになった。なぜなら、狩りに出かけた筈の集落民数名と、大切な姉二人の姿が見えないのだから。

 不安は精神を容易く捻りつぶす勢いで膨張し、また、ハラルトの体を締め付けて窮屈にしてくる。嫌な予感が拭えないのだ。

 マオテの言う、巨大な白い獣の恐ろしさを聞けば、殊更である。

 大きな獣と遭遇した人々は、マオテの尽力虚しく、死んでしまう。そして、狩りに出かけた筈の家族が、数を揃えて帰ってこないのだ。これだけの要素が揃えば、ハラルトは、怖気を感じずにはいられない。

 彼女は、不謹慎だとわかりつつも、他の集落民の代わりに姉を返して欲しいと、大地に祈りたい気持ちに駆られてしまった。

 そんな思いから、ハラルトは数メートル先にまで迫っているコアの下に慌ただしく駆けつけて、勢いを殺さずに胸に飛び込む。コアの纏う薄茶けた外套の胸元に小さな頭を押し付けてから、見上げるようにして彼女の瞳の奥を覗き込みつつ、「ねぇ……」と、正体不明の抽象概念に縛り上げられた声帯を必死にこじ開けると、コアはニヤニヤしたまま口を動かした。

「なんだ、アンタ、また泣くのか?」

「ハラルトは泣いてないよ」

「そうかそうかー」と、コアは随分嬉しそうに笑うから、ハラルトは頬を膨らませて、心外だと無言で主張する。それでも、姉の調子は普段と少しも変わらない。そんな様子を見ていると、ハラルトは少しだけ心に余裕が生まれた。一部始終を目の前で見ていた姉は、何を思ったのか、ハラルトの頭をちょっぴり乱暴に掴んで、髪の毛を右へ左へ、ぐしゃぐしゃに丸め始めた。

「心配するなよ、でっかい獲物が多くて持ち帰れなかったんだ。もっと男手が必要なんだよ」

 事情を聞いてみて、ハラルトの心は強烈な不安から瞬時に開放された。なぜコアがたった一人で帰ってきたのか知ったからと言えば間違いないのだが、それ以上に、いつもは鬱陶しく感じるコアの粗雑な雰囲気に、今回ばかりは励まされたのだろう。




 良い皮肉もあるのかと思っていれば、突然コアがハラルトの華奢な上腕を乱暴に掴んで「帰るぞ」というものだから、ハラルトはスィルに怒鳴りつけておんぼろ家を飛び出た事だとか、周囲を埋め尽くす花の事だとかを言うべきか迷う。

 でもコアは、「すっげーな、どうなってんだ、これ」などと口走って頭をキョロキョロとさせ、ずいぶんとせわしなく、また、楽しそうな様子だったので、ハラルトは口をはさむ事を躊躇って、結局、家の近くに着くまで黙って様子を見てからにしようと決心するのだった。

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