1.3 砂に揺らめく紫の尾

 それは、ハラルトが思うより早い段階で到来していた。彼女が目を覚ました時には、既にやってきていたのだ。

 正体は、砂漠で生まれて定期的に周辺を闊歩する、砂嵐だ。時にはこうして集落に遠征し我が物顔でいるから、全てを飲み込み体内でなぶる巨大な砂嵐の只中に取り残された人々は為す術無く、誰もが家から出られない。ハラルトも他と同じく、おんぼろの家でスィルと共に引きこもっている最中なので、昨日姉が宣言した通り、今日一日仕事の手伝いをさせられるのだろう。

 しかしハラルトは、砂嵐によって家に閉じ込められたとしても、自然に対する気持ちに変節がなかった。何者にも媚びないありのままの自然が、大好きだ。


 ハラルトが起床してから、しばらくの時間が経っていた。彼女の感覚は、太陽が丁度頭のてっぺんに来る頃だろうと言っている。ところが現状はこの通りであるから、ハラルトは外で遊ぶ事も出来ずに、おんぼろの家で退屈に耐え兼ね、足をブラブラさせたり家の隙間から外の様子を見ていたりする。

「ボーっとしてないで、手を動かしなさい」

 スィルは厳しい。この時間がどんなにつまらないものか、姉は理解していない。そう思ったハラルトは、しかし、それを姉に言う事を絶対にしない。そんなことをすれば、姉の手に握られている黒ずんだ布が、凶器に変貌してしまう。

「狩りの道具、昨日全部片付けたよ」

「家の掃除が残ってる!」

 ちょっぴり怖い顔でそう言ったスィルの手には、土に強い火をいれて作られた、食器類が握られている。どうやら姉は、黒ずんだ布で食器やら土の壁やらを磨いて、ピカピカにしたいらしい。

 大変素晴らしい心意気であるが、生憎、ハラルトはそれに価値を見いだせない。それが何となく高尚であると理解した所で、ハラルトが手伝いたいか否かとは、別の問題である。それに、彼女は外に出られないという欲求不満が募っているのだから、尚更に気が乗らない。

 そんな理由で、本当は手伝いなんてしたくないのだけれど、黒い布切れで叩かれたくもないので、ハラルトは見るも渋々と、小さな手をスィルに差し出した。すると姉は、いつの間に忍ばせていたのか、服のどこかしらから汚れた布切れを取り出して、手の上にのせてくる。

 要するに、姉の思惑通りの展開という訳だ。


「ハラルト、窓際にいるならそこ拭いて」

 ぼろきれを手に収まるように小さく畳んで、ハラルトはどんくさい動きで言われた所をこすりだす。砂嵐に備えて姉が土を盛ったのか、窓は少しの隙間を残して塞がっていた。時折砂嵐に見舞われる集落では良くやる手法で、猛威が過ぎ去れば再び穴をあけるのだ。

 そんな窓は、強く拭けば壁がボロボロと剥離してしまうので、ハラルトが手に込める力は慎重そのものである。彼女はそうしつつ、小さな小さな窓の隙間から吹き込んでくる大自然のかけら達を片手で払って、外への渇望からか、相変わらず表の様子を伺っていたのだった。




 何度外の様子を見ても、一面を埋め尽くす灰色は、一向に収まる気配がない。この調子だと、狩りの手伝いに出かけた姉達は、しばらく集落に帰って来られないだろう。ふとそう考えだしたハラルトの心中で、自分の退屈や窓を拭く作業の重要性よりも、彼女らへの心配が膨れ上がってきた。なぜならハラルトの母が、集落の外に長くいる事が危険だと、彼女に教えてくれたのだから。

『住を確保する事は、難しい』

 そんな母の言葉が、くっきりと浮かび上がってくる――。


 集落の外には、ハラルトの愛する自然が広がっているが、砂嵐がそうであるように、それらは人間に容赦をしない。また、過酷な自然を生き抜く命はそれを知っているから、他の命を糧として自分の歴史を紡ぐ事に必死だ。つまりそれらの生き物も、人間に容赦をしない。だからこそ人間は、集って一つの大きい力を成し、ようやく暮らしてゆける。

 教わった事から、ハラルトが集落の外に対して抱くイメージは、燦然とした自然の、冷たい側面。愛するものの、どこまでも媚びない姿勢。今もその中にいて集落に戻る事を遮られている姉達は、きっと大変な思いをしているのだろう。


「外に何かあるの?」

 いつの間にそこにいたのか、振り返ればスィルが目の前にいた。姉の手に握られていた食器はどこかにいってしまい、黒ずんでくたびれた布だけがそこにあった。どうやらスィルは、ハラルトが心配事に苛まれている間に、抱えた仕事を終わらせてしまったのだろう。

「ううん。何も。 ……いつ止むかな?」

 ハラルトが呟くと、スィルは小さな隙間に顔をずいっと近づけて、ハラルトがそうしていたように、慎重な調子で壁に手をかけ、外を覗く。

「みんなが心配?」

 少しの間、窓の隙間に顔を密着させていた姉は、頭を遠ざけつつそう言った。どうやらスィルには、ハラルトの気持ちがお見通しだったらしい。

 スィルには嘘をつけない。姉は、複雑な心の機微を見抜く素質がある。だからハラルトは正直に「うん」と、全てを包み込んでくれる姉に向かって頷く。すると姉は、「みんなが帰ってきたら、ちゃんとお礼を言ってね」と微笑みかけてきた。そんな顔を見ていたら、なんだか心が和んで、ハラルトはみんなの帰宅に前向きになれるのだった――。




 それからスィルはどうしてか、ハラルトに与えた仕事を急かさなかった。だからハラルトは、姉の言葉によって前向きになった心持で一面の灰色をじーっと見つめ、早くおさまるようにと大地に祈る。そうしながら、長い事窓に張り付いて、上下左右にうねり荒ぶる光景を黙って見ていた。

 それは時たま人になり、獣になり、あるいは天空の庭園や、空を漂う大きな雲の様な、命を持たないものにも変貌する。まるで、意思が宿っているかの如く。

 ハラルトは、抽象的でもあり具体的でもある自然の矛盾した姿を体現している有ように、いつまでも飽きない。自然と共に育ち、それをこよなく愛する彼女は、温かさや冷たさを包含する大きな存在に魅せられているのだから。


 そんな自然の厳しい一面の中で、ハラルトは新しい発見をする。それは彼女の好奇心に抱き付いて離れないので、ハラルトは釘づけになってしまう。

 大きな大きな自然の、不可解な一面。彼女はそれをみて、祈る事も忘れてしまう位に衝撃を受けた。

 灰色のずーっと奥。どれだけ離れているのかハラルトにはわからないが、遥か彼方にポツリと、確かに光を見た。その光は紫で、セゴルの花が夜に放つ光と全く同じ色をしていた。

 砂嵐は激しくとぐろを巻いている。しかし紫色の点は、そのど真ん中にいる筈なのに、一定の調子を維持しつつ揺らめいている。つまり、砂嵐と光の動きは明らかに食い違っているのだ。

 ハラルトはそれを瞳に焼き付けて、やがて二つの事に気付く。

 一つは、その光が揺らめきながら、少しづつ小さくなっている事。それはつまり、ハラルトから遠ざかっている証左だ。

 もう一つは、その光が意志をもって動いているであろう事。そうでなければ、初めは大きくなりつつあった光が、まるで集落の存在に気付いたかのようにぴたりと止まって、今度は遠ざかってゆく事など考えられない。

(あの光は、きっと生きてるんだ――。)

 ハラルトはそう確信した途端に、心の奥底で眠っていた禁忌を抑えつけられず、いてもたってもいられなくなる。砂嵐の中に飛び込むなど、考えられない事なのだが、なぜかそうしなければいけない気持ちになってしまったのだ。


 遂にハラルトは、おんぼろの窓から素早く離れて、華奢な体をがむしゃらに動かし、ドアから体を放り出した。後ろから姉の叫びが聞こえて来たが、たいして気にならない。彼女は全部を置き去りにして、何かに引っ張られるようにして猛威へと溶け込んでゆく。

 一瞬だけ、まるで虫が火に命をくべるみたいだとハラルトは思ったが、それは直後に、何かに掻き立てられた心の中に沈んでしまった。




 想像通りの過酷が、そこにあった。砂の粒を含んだ暴風は、華奢な体を吹き飛ばす勢いで上から下から、ハラルトの体を連れ去ろうとする。しかし、目に見えぬ何かに扇動された彼女の心は、細い体躯を強引に動かして、一歩ずつ、確実に前進させた。

 ハラルトは夢中だった。自分がここまで没頭する必要があるのかなど、全くと言って良い程わからないし、どうでも良かった。何しろ、そうしなければいけない気がするし、こうして少しづつ近づいているのだから、目的を達した後にでも考えれば良い位にしか思わない。それ程までに、直近に迫った正体不明の何かが気になる。

 近づいている証拠に、紫の点はゆっくりと遠ざかりつつあるが、必死に前進する自分の速度より遅いらしく、徐々に視界でそれの面積が広がる。

 ハラルトはふと、時間の概念が曖昧となっている事に気付く。どれだけ自分が前進してきたかなど、とうに忘れていたのだ。だからこそ、ハラルトは無我夢中となれるのかもしれない。

 自ら飛び込んだ苦境の中で、前に進むという単調な作業に、集中できる――。

 そうして、恐らくあと数歩の所まで近づく。眼前には、紫色の光が、これでもかと言う位に大きく、堂々と、ただある。しかし、輪郭までははっきりと見えないので、ハラルトはもっともっと、前に踏みでて確認したいと思った。得体の知れないそれに手を伸ばして、触れてみたいとさえ思った。そして、その気持ちに抗う事は、彼女にとってはどんな事よりも難しい。

 直後、強く瞼を閉じて、地に落ちた砂を踏みにじり、今まで以上に力強い一歩で細い体を前に突き出す。そしてハラルトは願い通り、それを見た。

 砂嵐がすべてを飲み込む中、そこだけは、吹き荒れる灰色が丸ごと切り取られていたのだ。今までハラルトの体にぶつかって来た砂の粒子は、一粒さえもみあたらない。つまりそこには、全く何もない。

――但し、たった一つを除いて。


 たった一つ。それは、ハラルトの体を丸ごと包める位に大きな、紫の光源。宙にぽっかりとあいた、紫色の穴。言及すれば、紫の光を放つ、『何か』。見上げてみれば、どうやらハラルトを三人程肩車させて、ようやくてっぺんに触れられる位の高さで、横幅も、三人並んでようやく同じか、それ以上の太さ。

 あと数歩前に出れば、触る事だって出来る距離にいるにも関わらず、その正体は相変わらず光に包まれているだけの何かなのだ、一体それが何であるのかなど、初めて逢着したハラルトには表現が出来ない。つまり、余りに紫色の密度が高くて、何が光に包まれているのか、彼女の目で詳細を把握する事は出来ないのだ。

 ただ、その光は、遠くで見ていた際に丸っこいとばかり思っていたが、間違いだった。近くで良く見てみれば、所々が鋭角で、ハラルトの知る多くの獣同様に、四本の脚の様なものが大地を捉えている。更には長い長いしっぽまでもがくっ付いているらしいので、ハラルトの中で、それが何かの獣なのだろうと思えてきた。

 もしそれが獣であったならば、何も持たずにフラリと現れたハラルトは、非常に危険だ。彼女自身もそれを十分に理解している。だが、不思議と恐怖心は湧いてこない。心を支配しているのは、更に強く湧き出してきた好奇心だ。

 何しろ、砂嵐の中を堂々と歩く獣など聞いた事もないし、勿論初めて見た。周辺一帯を埋め尽くす灰色にぽっかりと穴をあける、不思議な力だって同じだ。それに、大きい。ハラルトが見てきたどんな生き物と比べても、段違いに巨大だ。加えて、光る生き物など、セゴルの花以外に知らない。セゴルの花だって、夜にならなければ観測出来ない位に仄かな光を放つ程度なのだ。

 そんな数々の不可思議から、光る何かに負けないくらいに瞳の奥を輝かせ、正体を見抜いてやとうと、ハラルトはそれをじーっと見つめる。恐らくは、相手の顔の辺りを。光る何かはそれに気付いているのかいないのか、遠くで見た時は揺らめいていたのに、今はピタリと停止して、自然の一部であるかのように、空気と同化している。


 しばらく獣らしき何かと見つめ合っていたハラルトの中で、触ってみたいという危険な欲求が芽を出し、急激に成長して来る。彼女にはわかっている。それが抑えられない気持ちだという事を。だからハラルトは、それに抗う事が無駄であると自身に説いて、何の躊躇いも見せずに手を前にかざして、顔らしき部位から目をそらさずに、ゆっくりと近づく。

 その直後の事。

 本当に、一瞬。ハラルト自身が、それを認識出来た事が奇跡だと思ってしまう位に、短い合間。獣の顔辺りを覆う紫色が、煙を乱暴に吹いた時のように揺らめく。そして、そのずーっと奥深くに、真っ黒い点が見えた。これでハラルトの確信は、より強固なものとなる。


 黒い点は、明らかに獣の瞳だった。


 それを目撃した数瞬の後、獣の頭部は大きく旋回するように、ハラルトの向こう側に行ってしまった。そして代わりに、鋭くて長いしっぽが彼女の眼前に現れた。


「まって!」

 気づけば、ハラルトは叫んでいた。しかし、砂嵐さえ物ともしない大きな獣の意志は、たった一人の華奢な少女の声で揺らぐ筈がない。

 やがてその紫は、その場にくっきりと光の尾っぽだけを残して、ハラルトを置き去りにした。だから、その場でぺたりと張り付く紫色の痕跡だけが瞳の奥深くに焼き付いて、それは彼女の心で、不思議な何かの正体へ抱く好奇心や恐れ、更には疑問を次々に生み出していった。

 茫然とした調子で、自分の中に生まれた数々の感情を見つめていると、すぐに灰色の嵐がハラルトを取り巻いて、舞う粒子が体を削るようにぶつかってくる。彼女は、大好きな自然の激しい一面に抵抗しようと、体を動かそうとして――。


(動けない――!)

 ハラルトは、自分の体が考えられない事になってしまったと、突然にして焦りだす。先程まで好奇心に埋もれていた恐怖が、いっぺんに噴出してきたのだ。そこから彼女は、必死になんとかしようと、華奢な体躯に渾身の力を込めたり、逆に力を抜いてみたりするが、石のように固まってしまった体を動かす事が叶わずに、長い事砂粒に晒され、体力を消耗していった。

 そして限界がやってくる。

 ハラルトは、不思議と動かなくなってしまった体をストンと大地に落とすと、薄れる意識の先に優しい姉の声を聞きながら、とうとう目を瞑ってしまった。

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