清浄で育った女王と、腐敗で生まれた少女

1.1 少女ハラルト

 少女の見上げた空。そこには、濃い青色と、ポツンと浮かぶ『大地』があった。

 余りにも無欠な光景は、少女の心を掴み、そして、視線を外す事も許さない。

 天に浮かぶ大地は、『天空の庭園』と呼ばれている。話によれば、地上よりもずっと満たされており、願えば何でも手に入るらしい。だけど、少女は地上に満足しているから、もし行けるものなら、行ってみたい程度にしか考えていない。

 しかし、天空の庭園に行く事は、絶対に叶わないだろうと、少女は思う。なぜなら、天空の庭園に行く手段がない。そして何より、そこに住む者達は腐敗した地上を嫌い、地上に生きる人々を嫌うからだ。


 腐敗していると言っても、地上から湧き出す『腐敗の力』の濃度が高いと人体に問題があるらしいというだけで、大地のそこかしこに散見する、腐敗の力が湧き出す『腐敗の泉』に近づかなければ大丈夫だと、少女は母から教わっている。

 詰まる所、少女は腐敗について詳しくない。とにかく、母からはその様に教わっていた。


 少女の母は色々な事に詳しい。例えば、イリオスの民は、彼女の見上げた空に浮かぶ『天空の庭園』に住んでいて、遥か昔から『太古の力』を扱う者達である事だったり、それと相反する力が『腐敗の力』である事だったりを、知っている。

 難しい事は少女にはわからないし、そもそも気にしていないけど、とにかく母は色々な事に詳しいのだった。


 少女は、母からハラルトという名を授かった。ハラルトには上に姉妹が四人いる。つまり、ハラルトは全部で五人兄弟である。

 ハラルトの姉妹は上から順番に、スィル、トゥァカシーヴ、スィーン、コアと、母から名を授かっている。彼女らもまた母親から色々な事を教わっているから、ハラルトよりもずっと賢くてたくましい。

 それがなくとも、ハラルトは姉妹の事を無償で尊敬しているし、無償で愛している。


 そんなたくましい姉達は、ハラルト同様に、太古の力を体に宿している。ハラルトの姉妹以外もみんな、太古の力を宿している。そんな事からハラルトは、特別な力は人類に必ず宿るのだと考えている。イリオスの民達と同じように。

 ならば、どうして自分達は腐敗した大地に生まれ、イリオスの民達は清浄な天空の庭園に住んでいるのか。どうして同じ人間に、そうした違いがあるのか。

 それを母に質問しても、母は良く教えてくれなかった。

 しかし、ハラルトはもう、母にそれを聞く事は出来ない。数年前に、母はどこかに旅立って行ってしまったからだ。

 それでもハラルトは寂しくなかった。きっと旅先でも、なんでも知っている母は元気にしていると信じている。そんな母は旅立ちの前に、『命はやがて尽きますが、命を宿した事に感謝しなさい』と、ハラルトに説いてくれた。

 その通りハラルトは、毎日毎日を、自分に宿る命に感謝して生きているのであった。




「ハラルト、何してる?」

「何も。空を見上げてた」

 ハラルトの後ろから、聞き慣れた爽やかな声が飛んでくる。その声の主は、彼女よりも五つ程上で、青年だ。声を受けて相手の正体を看過したので、わざわざそちらを見る事なく、ハラルトは空を見上げて口を開けたまんまに応えた。

「そうかい」 

 青年は口にしながら、ハラルト真横、彼女の立つ草の大地の上に腰かけた。


 青年の名前はマオテ。医者である。

 ハラルトとマオテは同じ集落に所属している。地上には沢山の集落が存在するが、誰かが『大地の残滓』と名付けてから、それらは全てその名前で呼ばれる。ハラルトやマオテのいる集落は、割合大きい規模を誇る。

 そんな大きい規模を誇る集落には多くの人々が生活しているが、その中でも、医者という存在は極めて希有である。

 マオテには、微弱であると彼自身認めているのだが、治癒の力が宿っている。力の性質の希少性から、彼は必然的に医者になったのだろうか。


「でっかい獣に襲われたって話、解決したの?」

 マオテが横に座って来た為に、気まずい空気の流れを感じてしまったから、ハラルトは彼に関係のある話題を口にした。すると彼は、最後の辺りを濁しつつ言う。

「いいや、まだなんだ。傷口から腐敗が入って、どうしても……」


 現在集落は、巨大な白い獣の話題で持ち切りである。集落は草原の上にあるのだが、そこから少し離れれば砂漠が広がっている。砂漠は、集落の人々にとって食糧となる生き物の生息地であるのだが、そこで大きな白い獣によって襲われる人が後を絶たないのだ。

 白い獣は腐敗の力を宿しているらしく、傷をつけられれば、人はそこから蝕まれて行く。

 そうなればマオテの仕事なのであるが、彼の微弱な治癒の力では、強力な腐敗の力には対抗できない。彼の言う通り、結果として多くの人は土に還っていった。彼はそのことに口を濁したのだろう。


「マオテのせいじゃないよ。獣のせいでもない」

「お前は優しいな」

 ハラルトはこの話を持ち出した事を若干後悔して、世界の摂理の歴然性について説いた。するとマオテの声色は良いものになって、それから彼は立ち上がって、ハラルトの頭を撫でてくれた。


 撫でられるのがくすぐったくて、恥ずかしくて、ハラルトは「じゃーね」と言いつつ乱暴に頭を振るってから、駆けだした。

 ハラルトは温暖な空気を受けて、天空から降り注ぐ光を浴びて輝く草原を走って行く。集落は決して豊かであるとは言えないが、ハラルトにとっては、この様な素晴らしい大地の存在だけで十分に満足であった。故に彼女は、どうして天空の庭園は大地に人を残したまま旅立って行ってしまったのか、不思議でしょうがない。大地には、この様な美しさがまだまだ残っているのだ。




 やがてハラルトの呼吸は乱れ始めた。ハラルトはこうして駆け抜ける事が好きなのだが、華奢な彼女はどうしても、体力に自信が無い。それこそ、生活の為に砂漠に狩りに行く人々を見て、彼らの底知れない体力を渇望する位だ。

 ハラルトは、駆ける速度を徐々に低下させてゆく。そうして、とうとう草の大地に仰向けに転がった。

 彼女はどうしてか、心の底から湧き上がって来た嬉しさを抑える事が出来なくなって、笑う。乱れる呼吸も、草の香りやどこまでも高くて青い空を見ているだけで、気にならなくなった。

 そうしていると、彼女の頭の上から草をガサガサと踏みつつこちらにやってくる気配を感じる。それを受けたハラルトは、少々ばかり無精であると思いつつ、寝転んだまま頭を上に向けて、やって来たであろう人を見た。


「ハラルト。遊んでないで手伝いなさい」

 その声は、流麗で、心地よい。でも、ハラルトはちょっと苦手である。それは、一番上の姉、スィルの声だ。

 ハラルトは働き者の姉の事は好きである。しかし、重い荷物を運んだり、細かい片づけを強要してくる姉の事は苦手だ。だとしてもハラルトがスィルの事を嫌いになる事は絶対にない。ハラルトにとって彼女は理想の姉なのだ。


「スィルは、何してたの?」

「古くなった弓と槍を磨く仕事。はやくきなさい」

 ハラルトは姉の手伝いを行う為に、まずは作業内容を確認する事にした。するとスィルは、今やっているだろう仕事の内容を説明しつつ、ハラルトを急かしてくる。どうやら自分は、何をしていたのか確認する前に立ち上がった方が良かったらしい。


「はーい」

 命令を受けたハラルトは、間延びした返事をしつつ、勢い良く立ち上がった。すぐに振り向いて、スィルに追従しようと思う頃には、既に姉は後ろを向いて歩き出していた。




 土を固めて作った、砂色で真四角の、おんぼろの家。集落にはそんな家しかない。一番立派な家でも、おんぼろの家を大きくしただけであり、外観や意匠は全く変わらない。ハラルトがおんぼろと呼ぶそれらは、やんちゃな彼女がほんのちょっと小突くだけで壁を剥離させてしまうので、実際にはおんぼろでないのかも知れない。

 少なくともハラルトだけは、木を削り出して作ったピカピカな弓や槍と比較してそう呼んでいる。と言っても、集落の中で木は希少だから、それから作られた狩りの道具と、どこにでもある土から作られた家を比較するのはお門違いかも知れない。


 おんぼろの家に入るや否や、ハラルトの前には無数の弓や槍が並んでいた。一足先にそこにいたスィルは、道具の種別毎に分別をして、丁寧に磨いている。


「誰もいないの?」

「トゥァカシーヴもスィーンもコアも、狩りの手伝いに行ってるよ」

 普段なら、スィル以外の姉も同じ仕事を手伝っている筈なので、スィルの回答を受けて、恐らく人手が足りなくて皆駆り出されているのだろうとハラルトは思った。

 いつまでも棒立ちしていたら、姉は怒り出すに決まっている。すかさずハラルトは彼女の正面に座って道具を囲んで、その内の一本の槍を掴んでから、汚い布きれでゴシゴシと磨き始めた。


「やけにやる気じゃない」

 やる気じゃない。怒られたくないだけだ。

 そんな事を言えば、スィルが現在丹念に磨いている弓の先で頭を叩かれるだろう。だからハラルトは、思ってもない立派な事を口にして、姉に更に褒めてもらおうとする。

「そうかな。ハラルトはいつも気合入れて仕事してるよ。今日は体調が良いから、きっとやる気に見えるんだよ」

「……そう」


 静寂の後に、小さな声。

 ハラルトの計画は、どうやら失敗したらしい。スィルは姉の内、最も謙虚であるので、ハラルトの姿勢を見ればきっと褒めてくれると思ったのに。

 これ以上お喋りしても何も生まないどころか怒られるだけになってしまうので、ハラルトは退屈であったが仕方なく、スィルの様に黙って磨く作業を進める事にした。


 それにしても、一体いつまでかかるのだろう。

 山の様な道具を前にして、ハラルトはちょっとだけ怖気づいてしまうのだった。




 意外にも、ハラルトはあっさり仕事を終えた。山の様に見えた道具達は、ハラルトを脅かしていただけであり、実際は山と言う程でもなかったのだ。

 しかしハラルトは、汗を沢山かいた。若干褐色味を帯びた彼女の皮膚は、滲みだしてきた汗でべっとりとまでは行かないが、それなりに湿り気を帯びていた。にも関わらず、目の前に座っているスィルは全く汗をかいていない。まるで平気といった調子で姉は立ち上がって、おんぼろの家から外に出つつ言う。

「砂漠から砂嵐が来るみたい。聞いた?」

「ううん」

「そう。この調子だと明日には集落に来るらしいから、外に出ないで、また仕事を手伝いなさい」

 砂嵐がやってくれば、ハラルトは外で風を浴びる事も、景色を楽しむ事も出来ない。そして、砂嵐が通り過ぎた後に集落に残留するであろう砂が、緩やかな風によって再び砂漠に帰されるまで、草原の生き生きとした感触を素足で直接味わう事はお預けらしい。

 こんな時、太古の力で砂嵐を吹き飛ばせたらどんなに良いかとハラルトは思うが、生憎、彼女の宿す太古の力は目に見えない程に微弱で、それ故性質の正体もわからない。尤も、マオテの様に目に見える力を持つ者は、それ自体が希少であるのだが。

 それよりも――。


 スィル曰く、どうやらハラルトは明日も汗を滲ませねばならないらしい。彼女は、相変わらず容赦のないスィルに思わず「えー」と不平を口にしてしまう。

 すると直後に、木弓の比較的かたい部分で頭をコツン!

 ハラルトは、手痛い仕置きをされてしまった。仕置きをして満足したのか、にこやかにスィルは家から外に出て行った。

 こうして、ハラルトの頭は晩までズキズキ痛む事になるのだった。

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