第46話

悪魔達と人間達の話




 イズと別れた後、ロディナは一人、翡翠宮の廊下を歩いていた。

 誰にも会わない。

 それが、楽しい。

 どこへ行くという当てもない。

 何をするという目的もない。

 誰にも見とがめられずに歩き回ることが出来るのが、ただただ楽しくて仕方がないだけだ。

 歩き回る。

 覚え込む。

 地図をつくる。

 自分の、中に。

 つくって、どうするのか。

 当てはない。

 ただ、そうしたいからそうするだけ。

 ロディナは、不意に立ち止まり、片手をあげ――。

『見えない壁に触れた』

 銀の瞳を見開き――。

『見えないものを見据えた』

 何もない虚空を、指先でまさぐった。

 その指は、恐ろしく複雑な形をなぞって踊るように動いた。

 そして。

『ロディナは何かを引き抜いた』

 目に見えぬものを引き抜いた、その中に――。

『自らを差し入れた』

 ロディナはそのまま足を踏み出しかけ、一度だけ振り返った。心持ち首を傾げ、だが、表情を変えずに再び前へと向き直る。

 そして、ロディナは平然と歩み去った。







「面白いわね」

「おほほ、確かに、面白いですわねえ」

「そっけない子ね、ちょっと触ろうとしただけなのに」

「おっほほほ、カンナさん、下心がバレたんじゃござぁませんこと?」

「あたし、ファニー・フェイスは趣味じゃないわ」

「ほっほっほ、お好みがおうるさいこと」

「あたしの好みはともかく、あの『素材』、使えるわね」

「左様でござぁますわねえ。ただ、ねえ――」

「ただ、何よ?」

「あたくしの見たところ、中に入れるのは、あのかわい子ちゃん御一人様だけみたいですことよ?」

「でも、ほころびは出来るわよ、確実に」

「ほほほ、確かに。その分楽が出来ますわね」

「そうね。それにしても――」

「それにしてもぉ?」

「あいつ、変わってるわ」

「確かにねえ。普通の人が欲しがるものには目もくれず、普通の人が見向きもしないものに目の色を変える、っていうタイプですわねえ、あのかわい子ちゃんは」

「へーんな、やつ」

「まあまあ、ああいうかたも少しはいらっしゃらなくっちゃ、ね~え?」

「まあね、そうかもね。――さて、と。これからどうする、ナタリー?」

「カンナさんの御予定は?」

「あたし? そうねえ――」

 カンナの薄い唇が、ふと酷薄な笑みを浮かべる。

「チビ姫、っているでしょ、ここに」

「カンナさん、チビ姫、じゃなくて、ちい姫様でござぁますことよ?」

「どっちにしろ、意味は同じじゃない」

「ほほほ、まあ、そうかもしれませんけどねえ」

「そのチビ姫に、接触した雑魚がいるのよ」

「あらあら、まあまあ、道ならぬ恋がそっちでも始まりそうなんでござぁますかしらん?」

「さあね、どうだかね。それはまだわからないわ。でも――」

「でもぉ?」

「まあ、ちょっとくらい粉をかけておいてもいいかな、って思って」

 妖鳥(ハルピュイア)カンナの鉤爪が、ギラリと鋭い光を放った。







「モルー、ごめんなー。ちょっと飲ませすぎたなー」

 ライルは申し訳なさそうな顔で、赤い顔で荒い息をつくモル――正式名モルディニウスの背中をさすった。

「おまえ、酒弱いのに、俺調子乗っちまってごめんな?」

「き、気にすんなよ、ライル」

 モルはフニャリと優しい笑みを浮かべた。

「おまえ、最近仕事で調子いいんだから。そりゃ、酒もうまくてどんどん飲めちまうって」

「ほんとごめん。おまえに勧めすぎちまったな」

「き、気にすんなってば。お、俺なら別に、平気だからさあ」

「うん、ありがと。おまえって、ほんといいやつだよな、モル」

 ライルもまた、優しい笑みを浮かべながら、モルの前に陶器のカップをコトリと置いた。

「ほら、キッカ水。グッといけ。たぶん、ちょっとは酔いがさめると思うから」

「あ、ありがとな、ライル」

 モルは再びフニャリとした笑みを浮かべ、カップの中身をグイと干した。

「――あら、まあ、麗しい男同士の友情ってやつなのかしらね、これってば?」

「……カンナ」

 どもりもせずに目を丸くするモルを見て、ライルもまた、幾分驚いたように目を見開いた。

「なんだ、おまえ、確かえっと、新月様の道化、だったよな?」

「そうよ。あんたは雑魚で、あんたはちんくしゃだったわね」

 と、カンナがライルとモルをヒョイヒョイと指さす。

「ライルとモル――モルディニウスだって教えてやっても、どうせまともに呼びゃあしねえんだろうな、おまえは」

 ライルがうんざりしたようにフルフルとかぶりをふる。

「当然。あたしの記憶領域は、有限にして貴重なの」

 と、カンナがあっさりと言い放つ。

「道化の言うことはわけがわかんねえな」

 ライルはヒョイと肩をすくめた。

「カ、カンナ、し、新月様は?」

 と、モルが首をかしげる。

「なによ、あたしにだって一人で飲みたい時くらいあるわよ」

「って言いながら、俺達に声なんかかけたら『一人』じゃなくなっちまうじゃねえかよ」

 と、ライルが茶々を入れる。

「あらぁ? あんたってばやっぱり、そこのちんくしゃと男同士の関係ってやつを、しっぽりゆっくりたっぷりねっとり深めたかったりしてたわけぇ? ああ、それであたしがお邪魔虫だからそんなにカリカリしてるのねぇ?」

「だーかーら! そーいうわけわかんねーこと言うなってば!」

「いちゃもんつけてきたのはあんたのほうからじゃない」

「いや、いちゃもんっていうか単なる事実だろありゃ」

「普通、あたしみたいな綺麗で若い女が呼びもしないのにやってきたら、あんたらみたいな童貞は、地にひれ伏してその幸運を喜ぶものよぉ?」

「おめーは性格最悪だし、それにだいたい、俺はもっとぽっちゃりした子のほうが好みだよ!」

「ああ、だからそこのちんくしゃみたいなデブを可愛がってるわけね?」

「だーもうてめえいい加減にしろ!!」

「や、や、や、やめろよぉ、二人とも。け、け、け、喧嘩するなよぉ、頼むからさぁ」

 モルはおろおろとカンナとライルの掛け合いに口をはさんだ。

「なぁによぉ、なにビクビクしてんのよちんくしゃ。誰も取って食いやしないわよ、あんたみたいな食ってもうまくなさそうなデブチビなんて」

「ひ、ひ、ひ、ひでえこと言うなよぉ。た、確かに俺、デブでチビだけどさあ」

 モルは深々とため息をついた。

「カ、カンナはいいよなあ。スラッとしてて、しかもでかくて」

「なによ、悪かったわね、でかくて」

「だ、だ、誰も悪いだなんて言ってねえよぉ。い、いいじゃんでかくて。か、カッコいいじゃん」

「あら、そう?」

 カンナは苦笑めいた笑みを浮かべた。

「あんた、そういうのが好きなの?」

「そ、そういうのって?」

「さあ、どういうのかしらね」

 カンナはそっけなく肩をすくめた。

「おまえ、新月様の前でもそんな感じなのかよ?」

 と、ライルがあきれたようにつぶやく。

「はぁ? 何馬鹿言ってんのよ。あんた達みたいな雑魚だのちんくしゃに対する態度と、あたしのダーリンに対する態度がおんなじわけないでしょ? ちょっとは頭使いなさいよ、せっかく首の上にくっついてるんだから」

「おまえ、ほんっと性格悪いな」

 ライルは幾分わざとらしく、深々とため息をついた。

「あんた達は、頭が悪くてお気の毒ね」

 カンナは平然とそう言い放った。

「失礼なやつだな、ったく」

「だって、ほんとにそうじゃない」

 カンナの唇に、不意にどこか獰猛な色を帯びた笑みが浮かんだ。

「だって、『あんた達』みんな、『新月様』っていうのが本当はどういう『存在』なのか、って、そんなことすら知らずにのうのうと生きているじゃない」

「……おまえ」

 ライルの顔色がふと変わった。一瞬遅れて、モルの顔からもスッと血の気が引く。

「なんで――いきなり、そんな話するんだよ――?」

「あんた達があんまり馬鹿だから、あたし気の毒になっちゃったのよ。それだけ」

 カンナは平然とそううそぶいた。

「それに、そこの雑魚、あんたってば――」

 動揺するライルの目を捕えたカンナの瞳がチカリと光った。

「あんたが偶然出くわしちゃった『お姫様』が、本当はどういう代物なのか、それもきちんとわかってなかったりするんじゃないのぉ?」

「……告げ口でも、する気かよ?」

 ライルは青い顔でそううめいた。

「あんたって、ほんと馬鹿ね。『道化』はそんなことしないのよ。それが道化のお約束」

 カンナはあきれたように、チッチッチ、と人差し指をふった。

「でも、そうねえ――」

 カンナの桃色の舌が、薄い唇をチロリと舐めた。

「あたし達道化は――気づかせることが出来るのよ、いろいろと――」

「…………」

「…………」

「――なーんてね。やだ、あんた達ってばまさか本気にしたわけ? ああ、もう、これだからおバカな素人を相手にするのってすっごく疲れるのよね」

「うっせー、ばーか! おまえが意味もなく意味ありげなこと言ったりするからだろぉ!?」

「だってあたしは道化だもん。道化って、そういうことをするものなのよ」

「ああ言えばこう言う」

「そうしてあんたはキャンキャン吠える」

「あ、ああもう、や、やめろってばあ、二人ともぉ」

 再び掛け合いを始めたカンナとライルをなだめようと両手を振り回しながら、モルの顔には、どこかホッとしたような笑みが浮かんでいた。

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