第45話
イズとロディナの話
「新月様」
風を切って翡翠宮を歩いていたイズは、少し驚いて立ちどまった。イズが誰かに声をかける、というのはよくあることだが、その逆、つまり、誰かがイズに声をかける、というのはめったにはない珍事である。
「なんだい?」
「突然お声掛けした御無礼、重々お詫び申し上げる」
声の主は、慣れた仕草でひざまずいた。正式な、つまり、貴族としての礼儀作法をごく幼い子供の頃から、いや、生まれ落ちたその瞬間からずっと、仕込まれ続けてきたということが一目でわかる身のこなしである。
「わたしは、ソルレンカ大使タニア・トゥカ・ベクトゥカの娘、ロディナ・トゥカ・ベクトゥカ」
ロディナが一礼するのと同時に若葉色の髪が揺れる。イズはわずかに目を細めた。
「ソルレンカ大使の娘がわたしに何用だ?」
「母は関係ない。ソルレンカとも関係がない。私個人の用件で、新月様にお声掛けいたした」
ロディナは淡々とそう言った。イズは改めてロディナを見直した。イズと面と向かい、あからさまに動揺した様子を見せない者は、ただそれだけで珍しい存在と成り得る。
「さっそくだが、これを買っていただきたい」
ロディナは、背中に背負っていた頑丈一点張りの布の袋をドサリと足元に落とした。イズはわずかにあごを引いた。ロディナの表情にはいささかの変化もない。
イズはまじまじとロディナの顔を見つめた。ロディナの顔は、様々な人種の特徴の無作為な混合だった。ソルレンカの榊神がたなびく下には、リセルティンの先住民族、地の民達特有の平たい顔つきがあり、その顔の中でリセルティンの王族や貴族が持つリセルティンの玉眼が銀色に輝いている。すべすべとなめらかな肌は、ギザインの者達が雪肌と自慢するまばゆいばかりの白さを誇っている。ロディナは女にしては低い、張りのある声を持っているが、そののどからはひょっとしたら、失われたと言われているメレディスの恋唄がこぼれ出てきたりはしないだろうか。
「――それは、いったいなんだい?」
「石だ」
ロディナは、実に簡潔にこたえた。
「石?」
「石だ」
ロディナはなんの気負いもなく、あっさりと袋の口を開けた。
「石……だね」
イズは、わずかな躊躇いや戸惑いと共にそうつぶやいた。ロディナはコクリとうなずいた。
「買って欲しい」
「買って欲しい、って――相場がわからないな。それにだいたい、これはいったいどうやって使えばいいんだい?」
「おほほほほ、検索けぇんさく、っと」
イズにつき従っていたナタリーが、粘ついた笑い声をあげながらキロキロとその両眼をうごめかせる。程もなく、ナタリーは納得したように軽くうなずいた。
「ああ、おん嬢様、このかわい子ちゃんが持ってきた石ってば、ぜぇんぶ顔料の材料として使える石でござぁますことよ」
「顔料の原料?」
イズの眉が小さく跳ねあがった。
「そんなもの、どこから持ってきたんだい?」
「別に、盗んだり不正に手に入れたりしたわけじゃない。あるところにはあるんだ」
ロディナはそう言いながら、袋の中から手ごろな大きさの石を一つつかみ出した。
「ばらで買ってくださってもいいが、全部まとめて買っていただけたらなおありがたいな」
「そういうのって、絵描きの工房とかに持って行ったほうがさばけるんじゃないのかい?」
イズはからかうようにそう言った。
「それが、だめなんだ」
ロディナは小さくため息をつきながら、手の中の石をもてあそんだ。
「そういう工房では、もう出入りの商人だのなんだのが全部決まってしまっているから、わたしが割り込む隙なんて全然ないんだ」
「へえ、そうなんだ」
イズは小さく肩をすくめた。
「不便なもんなんだね。臨機応変にやればいいのに」
「わたしもそう思うんだが、どうもそういうわけにもいかないらしい。――と、いうわけで、石を買ってはもらえないだろうか?」
ロディナは無造作に、むんずと握っている石をイズの眼前に突き出した。
「そうだね、別に、買ってやってもいいけど」
イズは少し言葉を切った。
「――けど?」
「その代わりに教えてくれないか?」
「何を?」
「ソルレンカ大使の一人娘が、どうしてこんな行商人の真似事なんかやってるんだ?」
「金が欲しいんだ」
ロディナはこともなげにそうこたえた。
「ああ、まあ、そりゃそうだろうね。でもさ、どうして金が欲しいの?」
「地図をつくるんだ」
「……地図?」
「地図だ」
ロディナは、あっけにとられているイズに、いったい何を驚いているのだろうこの人は、とでも言いたげな顔でうなずきかけた。
「地図って……どこの地図?」
「わたしが行くことが出来るところならばどこでも」
「地図なんかつくってどうするんだい?」
「別にどうもしない。わたしはただ、地図がつくりたいだけだ」
「…………」
イズはまじまじとロディナを見つめた。ソルレンカ大使の一人娘が地図をつくりたがっている。これだけなら別に、あり得ない話ではない。だがしかし、その理由が、ただ純粋につくりたいからつくるのだ、などということは、全く持ってあり得べからざることだ。
イズはひたとロディナに目を据えた。だが、イズの、物事の影も裏も闇も、あきるほどに見つめ尽くしてきた、黒曜石のごとき両眼がいくら見つめても、どうしてもロディナが嘘をついているようにも何かを誤魔化しているようにも見えなかった。
「と、いうわけでわたしは金が欲しい。いい地図をつくるためには金がいくらあっても足りないからな。だから、ここにある石を買ってくれないか? もしも駄目だというならしかたないから他へ行くことにするが」
ロディナの銀の瞳がイズの黒曜石の瞳を捕える。イズはふと口元を緩めた。無礼と紙一重ともいうべきロディナの直截な態度が、なぜだかイズの気に入ったのだ。
「そうだな、買ってやってもいいけど」
イズは小さく首をかしげた。
「でも、ロディナはどうしてよりにもよって、わたしに声をかけたりなんかしたんだい? 翡翠宮にはわたしより金を持っていそうなやつなんて、それこそ掃いて捨てるほどいるじゃないか」
「どうして――って」
ロディナは、まるでイズに「なぜ人に会うたびにいちいち挨拶をしなければならないんだ?」とでもたずねられたかのような戸惑いを見せた。
「それは、だって――新月様なら、買ってくださるような気がしたから」
「わたしが、おまえから石を買いそうな気がした?」
「そんな気がした。それが理由だ。――石を買ってはいただけないだろうか?」
「買ってやってもいいけど、わたしにはそういうものの相場がよくわからないな」
「おほほほほ、おん嬢様、だったらあたくしが、鑑定やら査定やらその他諸々やらをぜぇんぶやってさしあげますことよ」
「なるほど、それじゃ、任せるよナタリー。――さて」
イズは軽くロディナにうなずきかけた。
「こんなところで立ち話もなんだ。一緒においで。ゆっくり話を聞こうじゃないか」
「と、言われても、わたしのほうにはあまり話すこともないのだが」
ロディナは淡々とそう言い放った。
「……へえ」
イズは楽しげな笑い声をあげた。
「おまえ、面白いな」
「…………?」
ロディナは無言で、『きょとんと』と表現するにはいささか愛嬌に欠ける顔で小首をかしげた。そんなロディナの様子に、イズはもうひとしきり笑い声を響かせた。
「いいからおいで。おまえのいいだけ買ってあげる。――ところで」
「ん?」
「こういう取引は――これ一度きりかな?」
「と、いうと?」
「わたしには、いろいろと、欲しいものがあるんだよね」
イズは、いかにも冗談めかした笑い声をあげた。だがその声は、いつもよりわずかに、ほんのわずかに低く、そして、剣呑な色を帯びていた。
「わたしが欲しいものをおまえが手に入れてきてくれたら、わたしも悪いようにはしないよ」
「何が欲しいのかおっしゃっていただければ、なんとか出来ることもあるかもしれない。まあ、わたしにも出来ないことや手に入れられないものは、とてもたくさんあるのだが」
「そりゃそうだ」
イズは笑いながらうなずいた。
「それじゃ、行こうか、ロディナにナタリー」
「それでは御一緒しよう」
「かしこまりましたわん、おん嬢様。ほほほほほ、おっほほほほほほ」
「…………」
ロディナは不意に、何か嗅ぎなれぬにおいを嗅ぎつけたかのようにクシャリと顔をしかめた。
ねとねととした笑い声を無遠慮に辺りにまき散らしながら、ナタリーの粘っこい視線は、確かにロディナを捕えていた。
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