第36話

イズとティリカの話




「――もしも」

 イズは、その黒曜石のような瞳を怪しく輝かせ、そっとティリカにささやきかけた。

「もしも、女王陛下が、誰かに、『リセルティンについてどう思われますか?』とたずねられたら、陛下はいったい、どのようにお答えになられるでしょうか?」

「――さて、のう」

 ティリカは、小さく笑みを浮かべた。

「ソルレンカの友好国じゃ――とでも、答えるかのう」

「それでは」

 イズは、滑らかに続けた。

「もしも誰かに、『リセルティンが好きですか?』と、たずねられたら?」

「下らん質問じゃの」

 ティリカは肩をすくめた。

「わしがリセルティンを好こうと嫌おうと、そんなことはどうでもええ。肝心なのは、リセルティンとのつきあいに、利があるかないかだけじゃ。――と、わしなら答えるじゃろうのう」

「なるほど」

 イズは、スイと目を細めた。

「リセルティンがお好きではない、と」

「そう思うのはそちらの勝手じゃ。わしゃ何も言うてはおらんぞ」

「ええ、わかっております。では、もしも――」

 イズの唇を、笑みがかすめた。

「どこかの誰かが、リセルティンに一泡吹かせる方法を知っているとしたら?」

「――ほう」

 ティリカの唇にも、笑みが宿った。

「なかなかに物騒な話じゃの。そうじゃのう、話だけなら、もしかしたら聞いてみる気になるかもしれんのう。実際に手を出すかどうかはともかくとして、話を聞くだけならば、なかなか面白いやも知れん」

「――わたしが」

 イズは、ねっとりとティリカを見つめた。

「その方法を、存じております――と、申し上げましたら?」

「――さあて」

 ティリカは短く笑った。

「わしゃ、ものぐさでの。誰ぞがわしの前で益体もないことをほざいておったとしても、別にいちいちとめやせん。そんなの面倒くさいからの。そうすれば、そうじゃのう、話が耳に届いてしまうかもしれんのう。耳にふたをするわけにもいかんから、そうしたらわしは、その話とやらを、聞いてしまうじゃろうのう」

「そうですか」

 イズは優雅に一礼した。

「ティリカ女王陛下、わたしには、ひとりごとを言う癖がありまして」

「おお、そうか。かまわんかまわん。わしゃ気にせんよ」

「おそれいります。そう――リセルティンとは、奇妙な国です。王は両宰相家に勝てず、両宰相家は貴族達に勝てず、そして貴族は平民に勝てない。王は、自分が比翼の――琥珀と瑠璃の宰相家によって創り上げられた、両宰相家の力なくしては王であり続けることの出来ない存在だということを知っている。両宰相家は、自分達と同じ、玉眼の血をひく貴族達より、いにしえよりこの地――リセルティンがまだ、ヨルディニアと呼ばれていたいにしえより脈々と血脈をつなぎ続けている、平民達と同じ血を分かち持つ貴族達のほうが、ずっと多いことを知っている。貴族達は、平民達が、地の民達が、いざとなったら自分達を見捨て、新たなかしらをいただくであろうことをよく知っている。そう――」

 イズの瞳が、流れる血の色に輝いた。

「かつて彼らがヨルディニアの王家を――ディン家の者たちを見捨て、リセルティンの玉眼の血をひく者達を、新たにかしらにいただいたように。そして、地の民――平民達は」

 イズは、鋭く笑った。

「翡翠の瞳の、とりこになっている」

「翡翠――そう、そうなんじゃよ」

 ティリカは、ふと嘆息した。

「同じ緑と、言えば言えるが――あやつらの瞳は、翡翠の色。――石の色、じゃ。わしらの髪は、木々の葉の、草の葉の、森の苔の、水草の――そんな、緑色、なんじゃ。あやつらとわしらとは、違う――違うんじゃ」

「――月の光と、宝石の輝き」

 イズは、わずかに声を低めた。

「どちらが美しいとも、どちらが優れているとも申しません。ただ、月は沈み、宝石は輝き続けている。――それだけのこと、です」

 イズは、笑みに似た形に唇を動かした。

「再び月がのぼるとしても、もはやそれは、輝きはいたしますまい」

 イズの唇に浮かぶもの、それは――やはり、笑い、か。

「輝かず、姿を見せず、ただひっそりと、空を渡ってゆくことでしょう」

「月は、一つしかないから、月なのじゃ」

 ティリカは小さくつぶやいた。

「じゃが――人は、そうはいかん。ごちゃごちゃと、交わり、まぐわい、もつれあい、からみあい――そうしなければ、生きてはゆけん。外の血を入れない家なんぞ、水をやらん鉢植えと同じこと。いつかは枯れて、しぼむしかないじゃろうよ」

「けれども鉢を割ったりしたら、その中の血は、全て流れ出してしまいます」

「流れておしい血なんかの?」

「――さあ? 鉢を守っていたのは、わたしではありませんので。そう――」

 イズは、深く笑った。

「翡翠の鉢は、とても大切に守られていますね」

「――綺麗、じゃからの」

 ティリカはささやくように言った。

「綺麗なもんは、自分のものにしとうなる。閉じこめて、鍵をかけて、ずっと手元に置いておきとうなる」

「ええ――とても、綺麗ですね」

 イズは、ゆっくりと、つややかな黒髪をかき上げた。

「地の民達は、綺麗なものが大好きなんですよ。――自分達が綺麗じゃないからかな?」

「ああ、あの、のっぺら顔なあ」

 ティリカはおかしそうに笑った。

「そうそう何度も見たわけじゃないがの。リセルティンの平民――地の民とやらには、どはずれた美形、というやつは、どうもおらんようじゃったのう。そのかわりに、どはずれた不細工、というもの、おらんかったような気がするがの」

 ティリカは、ふと笑みを消して小首を傾げた。

「もしかしたら、地の民達の中には、どはずれたやつ、というのが、おらんかったりするんかのう?」

「――だから、わたし達が――ディンの月達がいたのに」

 イズは、声に出さずにそうつぶやき、ティリカに向けたあでやかな笑みを大きくした。

「だから地の民達は、玉眼の血をひく者達に従うんですよ。だって、あれは――とっても、綺麗だから」

「ほーう。そりゃあよかったのう。どっこもまぁるくおさまって、まことにまことに、めでたいこっちゃ」

「そう――そうなのでしょうね、たぶん」

 イズは、細めた目でティリカを見やった。

「地の民達は、玉眼の民に、翡翠の王に従う。だけど、本当の翡翠は、王じゃ、ない。本当の、翡翠は――」

「――」

「――はてみ」

 イズは、わずかのあいだティリカの言葉を待ってから、ゆっくりと自らの語を継いだ。

「そしてはてみは、地の民なしで、結界師達なしではいられない。そう、リセルティンの――元はといえば、ヨルディニアの結界。あれは、玉眼や榊髪とは、違う。そう――はてみの君や、ティリカ女王陛下が生まれつきお持ちの、異能の力とはわけが違う。結界師達の結界は、しかるべき学習をして、しかるべき修行を積み、しかるべき手順をふめば、誰でもつくることが出来る。しかし――それでも、なお――」

「――」

「一番強い結界を、一番少ない力で、一番長い間はり続けることが出来るのは、地の民達――なんですよ。――おかしいですよね」

 イズは、低く含み笑った。

「そんなにも互いを必要としあっているというのに、翡翠と――はてみの地の民とは、いまだに交わりあったことがないんです」

「月と翡翠も、の」

 ティリカは静かに言った。

「交わるのを拒んだのは、翡翠の方ではないと聞いておるが?」

「愚かなことでした」

 イズは苦笑した。

「もう、同じ過ちは繰り返しません」

「――ほう」

 ティリカの目が光った。

「おぬし――ナルガと?」

「ええ」

 イズは、いささかも動ずることなくうなずいた。

「ですが、わたしが申し上げたかったのは、そのことではございません。まあ――確かにそれも、あるといえばありますが。そう――ティリカ女王陛下」

 イズは、三日月のような笑みを浮かべた。

「また――もしも、の話をいたしましょう」

 イズの双眸は、真黒に輝いていた。

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