第35話
ティリカの話
ソルレンカ女王、ティリカ・レンカ・ソルレンカは夢を見ていた。
何度も何度も、繰り返し繰り返し見る夢を。
幼かりし日々の夢を。
兄がいた――優しい兄が自分のかたわらで微笑んでいた、あの、幸せな日々の夢を。
王冠の重みも、玉座の冷たさも知らなかった幼い自分。
そして、優しく微笑み、小さな自分の頭をなでてくれる、兄、ザレス。
夢の中の自分は、幼い少女であり、子を持つ母であり、ソルレンカの王女であり、ソルレンカの女王である。
夢の中の幼い自分を、今現在の、大人になったティリカが眺めている。
夢の中の幼い自分は、自分が見られているという事に気づいていない。
(兄者!)
ティリカの耳に、昔の声が届くのか。それともそれは、頭の中でこだましているものなのか。
(ティリカ、大きくなったら兄者のお嫁さんになる!)
(兄弟は、つれあいになることは出来ないんだよ、ティリカ)
生真面目に、優しく答えながら、自分の頭をなでる兄。
ザレス・レンカ・ソルレンカ。
ザレス・リィン・セルティニクシア。
ザレス・ディン・イェリアーニア。
(どーして?)
(どうしてでも)
(へんなのー。ティリカ、兄者のことが大好きなのに!)
(私も、ティリカのことが大好きだよ)
笑う自分。
笑う兄。
花が、咲いていた。
何の花だったろうか。
葛宮は、一年中花の絶えることがない。
甘い、甘い香り。
(兄者)
(ん?)
(兄者が王様になるんだよね!)
(さあ、それはどうかな?)
笑う、兄。
(兄者が王様になったらね、ティリカ、いっぱい兄者のお手伝いをしてあげる! ねえ兄者、つれあいにはなれなくっても、お手伝いなら、出来るよね?)
(――ああ、そうだね)
静かに優しく、微笑む、兄。
――あ。
変わるな。
このままで。
どうか、このままで。
二人で無邪気に笑っていられた、二人がいつも一緒にいられた、あの幸せな日々のままで。
そう、願うのに。
心の底から、願うのに。
あの時だって――心の底から、願ったのに。
なのに。
場面は、変わる。
なのに。
願いは、叶わなかった。
(兄者!)
(――どうしたんだい、ティリカ?)
(どうして兄者がリセルティンなんぞに行かなくちゃならんのじゃ!?)
(――あの国は、おまえにはあわないよ、ティリカ)
(そんな事を言うておるのではない! ど、どうなっておるんじゃ? わ、わしらは戦に勝ったんではないのか!?)
(勝ったさ。――勝った。けどな、ティリカ、『勝つ』ということと、『勝ち続ける』ということとは、全然別の話なんだ。わかるか?)
(わからん! わしゃ、謎かけは嫌いじゃ。兄者、兄者がおらんではみんな困ってしまうではないか。『神樹の座』を守る者がいなくなってしまうではないか!)
(ティリカ)
肩におかれた、熱く燃える手。
(おまえが――おまえが、女王になるんだ。ソルレンカの、『紅華旗』の守り手に、おまえがなるんだ、ティリカ)
(――わし、が?)
(そう。おまえが)
(――兄者は、どうするんじゃ?)
(私は)
静かな微笑み。
(リセルティンの、『宝玉』になる)
そんなものになんて、なって欲しくなかった。
ティリカはそんなこと、ちっとも望んでいなかった。
ティリカが望んだのは、ただ。
ただ――兄がいつも、自分のかたわらにいてくれること――。
――あ。
また。
滑るように、場面が移り変わる。
(どういうことじゃ!!)
テーブルに叩きつけた、こぶし。
こゆるぎもしない、二対の瞳。
琥珀の瞳。
瑠璃の瞳。
(当方といたしましても、まことに遺憾なことではございますが)
(翡翠様、はてみの君、双方いまだ御幼少の身でありますれば)
滑らかに紡ぎだされる、聞きたくもない、言葉、言葉、言葉――。
(ザレス様は、すでにソルレンカの王子ではなく、リセルティンの宝玉様にあられますゆえ)
(翡翠様、及びはてみの君の御父君という事実はいかんともしがたく)
(まことに申し訳のない次第ではございまするが)
(リセルティンの外に足をお運びになられるというのは――)
(ましてや、ソルレンカは大国)
(フィリア陛下の御崩御から、まだ間もないこの時期に、ザレス様がソルレンカにおいでになられるなどということになりますと――痛くもない腹を探る、不届きな輩も――)
(ほう)
細めた目。
逆立った髪。
(どこにおるのかのう、その、『不届きな輩』とやらは?)
(それを存じておりますれば)
(わたくしたちとて、ほうってはおきませぬ)
(その言葉――信じてもええんかの?)
(比翼宰相の名にかけて)
(われらが望むは、貴国との友好のみ)
(と、言いながら)
苦い、笑い。
(兄者が、たった一月でも、十日でも、里へ帰るということは許さぬわけか)
(おそれながら)
(フィリア女王陛下亡き後、ザレス様は、数少ない、王の尊属の肉親にあらせられますれば)
(リセルティンを、お離れになられるというわけには――)
――そして。
兄は、リセルティン貴族の姫を娶った。
娶らされた。
そうして臣下に下げられた。
異国に縛られて。
子供を国に奪われて。
子供。
兄の――子供達。
ガートルード・リィ・セルティニクシア。
ナルガ・リィン・セルティニクシア。
ノア・ディ・イェリアーニア。
リセルティンの至宝、はてみの君。
リセルティン国王、翡翠様。
リセルティンの、貴族の姫君。
兄は、もう帰ってこない。
その体は、リセルティンの土に眠っている。
では――魂は?
兄の、魂は。
どこにいるのか。
安らいでいるのか。
もしかしたら――自分のそばで、見守ってくれているのか――?
「――兄者」
一人、小さくつぶやく。
いつの間にか、見る自分と、見られる自分とが一つになっていた。
「――!?」
異様な気配に、髪が逆立つ。
「誰じゃ! 出てこい!!」
「やあっだ、もぉ、そんなにどなんないでよぉ」
甲高い笑い声と共に、虚空に銀の切れ目が走る。
「別になんにも見てないわよォ。いまきたばぁっかり。ね、そうよね、ダーリン?」
「――このような形で御前を汚し奉りますご無礼の段、どうぞ御容赦下さい、ティリカ女王陛下」
その切れ目から現れ出でる、鮮烈なる、漆黒、白銀、真紅。
「ぜひとも陛下のお耳に入れておきたきことがございまして、こうして馳せ参じましたる次第にござります」
「そなた――イズ、か?」
ティリカは、虚空の裂け目から現れ出でた人物を、幾分うさんくさげに見つめた。
「はい、左様にござります」
イズはあでやかに微笑んだ。
「ディンの新月、イズ・アル――『ヨーディン』」
「ほっ――『ヨーディン』か。なるほどの。やはりそうであったか」
ティリカは小さく肩をすくめた。
「――それで? そう名乗るからには、おぬし、何か知らんが、なんぞ覚悟を決めてきたんじゃろう。――それに」
ティリカは、虚空の切れ目から滑り出て、イズの後ろに控えているカンナとナタリーに向けてあごをしゃくった。
「そこな二人は、どうやら『狂い咲き』のようじゃの」
『狂い咲き』というのは、ソルレンカにおける、異界からの訪問者の総称である。
「イズよ、おぬし、なにをやらかすつもりじゃ?」
「そうですね。――まずは」
イズは、カンナとナタリーに向かって指をならしてみせた。とたん、虚空から豪華な椅子二組と、茶菓を乗せたテーブルとがあらわれる。
「どうぞおかけ下さい、ティリカ女王陛下」
「なんじゃなんじゃ、器用なもんじゃの」
「ありがとうございます。――それで、ですね。とりあえずは」
イズはニヤリと笑った。
「もしもの話、を、しようかと思っております」
「もしもの話?」
「ええ」
イズは、にこやかにうなずいた。
「もしもの話、です」
「――なるほどのう」
ティリカは薄く笑った。
「では、試しにやってみい。その、もしもの話、とやらを、の」
「かしこまりました」
イズは優雅に一礼した。
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