第32話
ティリカの話
ソルレンカ第一位王位継承権者、ソルレンカ女王、ティリカ・レンカ・ソルレンカの一粒種、ソルレンカ王子、エメト・レンカ・ソルレンカは、葛宮(かずらきゅう)の中庭で、一人黙々と木剣をふるっていた。夜空の星と並び称されるほどの、多種多彩な植物の繁茂を誇る葛宮の庭園ではあるが、エメトが日々の鍛錬をこなすその一角は、特になんの趣向もない、平民達の庭よりもいっそ地味なくらいの、小さな何もない空き地だった。エメトの鍛錬によって、毎日踏み固められる地面には、雑草のはびこる隙もなく、黒々とした土が顔をのぞかせていた。
「相変わらず、棒っきれをふりまわすのが好きじゃのう。のう、エメト」
「母上」
エメトは、木剣をふる手を休めず、背後からかけられた、からかうような声にこたえた。
「何か御用ですか?」
「なんじゃい、用がないと声をかけちゃいかんとでも言うのか? 冷たいのう」
ソルレンカ女王、ティリカ・レンカ・ソルレンカは、からかうような調子を崩さずに笑った。目も、鼻も、口も、何もかもくっきりと鮮やかに浮かび上がる顔に、きっちりと化粧をし、真紅の目ばりを入れ、同色の紅を唇にさし、驚くほど量が多く、真夏の木々の葉しか持ち得ぬであろう深い緑色をした髪、ソルレンカの王族と貴族の血をひく者しか持ちえない、その名も名高き、『ソルレンカの榊髪(さかきがみ)』を、巨大な角か、広げた鳥の翼のような形に高々と結いあげている。すでに若いとはいえぬ歳のティリカではあるが、胸元に思い切った切り込みを入れたドレスからのぞく肌は、いまだに触れたものをからめとる力を失ってはいなかった。
「そうは言っていません。ただ――」
「ただ?」
「僕をからかって遊ぶのは、よくない趣味だと思います」
「ほっ、言う事だけは一人前じゃの。ええではないか。だいたい、わしのほうはおぬしの道楽をとやかく言ったりはしとらんぞ」
「道楽じゃありません。鍛錬です」
「鍛錬、のう。のうエメトよ、王自らが剣をふるわねばならん状況、というのは、そりゃ要するに、終わりが近い、ということじゃぞ。違うかの?」
「それは、そうでしょうけど」
エメトは大きく木剣をふるい、ティリカのほうへ向きなおった。短く刈り込まれ、いかにも固そうに四方にはねている榊髪は、母、ティリカのそれよりも幾分黒味が強く、ほとんど黒髪のように見える。口の悪い者達には、『女王陛下を水で薄めたようだ』などと言われてしまうその顔には、確かに、ティリカの持つ派手やかな美しさはない。だが、そのかわりに、曇りのない誠実さと、ひたむきさとがのぞいていた。そう――エメトはどこか、リセルティンにいる従兄、翡翠の玉座の主、リセルティン国王、ナルガ・リィン・セルティニクシアに似てもいた。
「しかし、王が剣をふるわなければならない、という状況が来た時に、肝心の王が剣をふるうすべを知らない、というのでは、終わりがますます早まるというだけのことです。違いますか?」
「ガキの理屈じゃの。そんなろくでもない羽目に陥るような間抜けに、そもそも王たる資格なんぞありゃせんわ。打てる手を、打つべき手を、たったの一つしか持たん王なんぞに誰がついてくる。百の道がふさがっても、百一番目の道を見つけてくるからこそ、皆が王についてくるのじゃ。わかるか?」
「では、おうかがいしますが」
エメトは真面目な顔でティリカを見つめた。
「いつか母上はおっしゃってらっしゃいましたよね。『人間に絶対はない』と。もし仮に、母上がたった一人でいる時に、暴漢に襲われたとしたら、そして、護衛が間にあわなかったとしたら、僕の剣術のような、戦うすべを持たない母上は、いったいどうなさるおつもりですか?」
「気合いでなんとかするしかないじゃろうのう、やっぱり」
ティリカはいたって真面目な顔でそう答えた。エメトはガクリと肩を落とした。
「……母上」
エメトは、あきれたようにティリカをにらみつけた。
「なんじゃい、わしゃ真面目に言っとるんじゃぞ。人間最後は気合いじゃ、気合い。ま、とはいえわしも、最後じゃなくて、最初から気合いに頼るようなやつは、信用せんことにしておるがの」
「……なるほど」
「しかしまあ、毎日毎日、よう飽きもせんと続くのう」
ティリカはあきれたようにエメトの木剣を見やった。
「そんな棒っきれじゃなくて、おぬしの大事な自前の剣のほうは、ちゃんと使ってやっとるのか? ん? どうなんじゃ、ん?」
「母上」
エメトはムッとした顔でティリカをにらみつけた。
「僕をからかって遊ぶのはやめて下さい」
「なんじゃい、これも真面目な話じゃぞ。おぬしが男が好きなんか女が好きなんか、それとも両方いける口なんかはわしゃよう知らんが、とにかく、ソルレンカの世継ぎは必要じゃからの」
「まだ早いですよ」
「たわけたことを言うでない。もう遅すぎるくらいじゃわ。おぬし誰か、想う相手はおらんのか?」
「別におりません」
「この甲斐性なしめ」
ティリカは大きく嘆息した。
「わしがいちいち見つくろってやらにゃならんのか?」
「お願いですからやめて下さい」
「誰かおらんのか、誰か」
ティリカは、真紅の唇をツンととがらせた。
「おおそうじゃ、リセルティンのガートルードなんてどうじゃ?」
「あの人は、僕より十近く年上じゃないですか」
「つまらんことを気にするやつじゃのう。どうだってええではないかそんなこと。あんだけ別嬪ならおつりがくるわ」
「確かにお綺麗なかたではあるでしょうが、あまり好みではありません」
「好みも好みでないも、ぬしゃ、ガートルードのことをほとんど知らぬではないか」
「どうしてそんな人を僕のお相手に選ぼうなんてするんです。だいたい、あの人はリセルティンのはてみじゃないですか。リセルティンがあの人を国の外に出すわけがないですよ。母上も、ご存知でしょう?」
「ほっ、そうじゃったかの?」
ティリカは不穏な笑みを浮かべた。
「よし、年上がいやなら、ノアなんかはどうじゃ?」
「あの子はまだ子供じゃないですか」
「なになに、すぐに大きゅうなる。なかなかかわいらしい子じゃぞ? この前あった時は、まあ、赤子に毛の生えた程度のチョコマカしたチビ助じゃったが――」
ふと。
ティリカの瞳を、苦痛がよぎった。
ティリカと、ノアがこの前出会った時。
それは。
ティリカの兄にして、リセルティン国王ナルガ、はてみの君ガートルード、そして、その二人の腹違いの妹ノアの父親――。
ザレスの葬儀の席だった。
「それにしたって、やっぱりまだ子供ですよ」
「いちいち注文がうるさいやつじゃのう。じゃあ、近場で間にあわすか?」
「近場って――そういう言いかたはやめて下さい」
「なんじゃい、いかんのか? もしかして、メレディスやギザインまで足をのばして嫁を探してくるつもりか? おお、そりゃあ大変じゃのう。どうせだったら、波渡りや虹の民にも声をかけてみるか? ん?」
「――僕にはまだ、結婚するつもりはありませんから」
エメトは木剣で、力強く空を切り裂いた。
「おぬしのつもりなんぞ聞いとらんわ」
ティリカはあっさりと言い放った。
「わしゃ優しいからの。おぬしがしばらく待てというなら、待ってやらんこともないぞ。ただし、そうそう長くは待てんがの」
「――何かあったんですか、母上?」
エメトは、幾分いぶかしげにティリカを見つめた。
「それとも、これから何かあるんですか?」
「さて――のう。そりゃあまだわからん。――ただ、の」
「ただ?」
「髪が――逆立つんじゃよ」
ティリカは、重たげな髷をゆっくりとなでた。
「近々、何かあるぞ。何があるか、は、まだわからんがの。わしゃ、の」
ティリカは、いたずらっぽく笑った。
「事が起こるのを待つよりも、自分から事を起こすほうがずぅっと好きな性質で、の」
「それはよく知ってます」
エメトは大きくため息をついた。
「本当に、いやというほど」
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