第27話

パーシヴァルの話




 顔に手をあてるまでもなく、そこが涙と汗とでぐっしょりと濡れそぼっているのがわかった。パーシヴァルは闇の中、まぶただけをゆっくりと持ち上げた。

「……マスター」

 エリックは、低くささやいた

「……使うッスか?」

「……ああ」

 パーシヴァルは、エリックから手渡された布で、ぐいと顔をぬぐった。

「いやあ……なんつーか……」

 エリックは、クシャクシャと髪の毛をひっかきまわした。

「残念だったッスね、マスター」

「…………」

「えー、ま、まあ、世界の半分は女なわけだし、ストライクゾーンを広げれば、残りの半分も有効活用できるわけだし――」

「…………」

「えー、ほらほら、初恋は、甘く切なくはかないものって相場が決まってるッスし――」

「…………」

「……マスター」

「…………」

「生きてるッスか?」

「……エリック」

 パーシヴァルは、やおら身を起こした。

「おまえ達悪魔が主人の命令に背いたら――どうなるんだ、いったい?」

「は? それって、なんスか、オレ達悪魔が、オタクら『素材』――っととと、人間と結んだ契約に、オレ達のほうから違反する、っつーことッスか?」

「まあ、そういうことだな」

「そんなん、エンガチョになっちゃうッスよ」

 エリックは、大げさに身を震わせた。

「んなことしたら、そーとー長いこと、悪魔仲間からハブにされちゃうッスねえ」

「はぶ?」

「あー、仲間はずれ、っつーことッス」

「……なるほど」

 パーシヴァルは、ゆっくりとうなずいた。

「悪魔でさえ、主人の命に背くのは大罪となるのか」

「んー、あー、いや、罪っつーかね、なんつーかね、ゲームにはルールが――えーっと、遊びには規則がないと、遊びにも何にもなんないでしょー? えーっと、あれッスよ、博打でいかさましたら、袋叩きにされるようなもんスかねえ?」

「…………」

「どーしたんスかマスター? それがどーかしたんスか?」

「……どうして……なんだろうな……」

 パーシヴァルは、エリックを見ずにつぶやいた。

「私は、ここで生まれ、ここで育った。私は誉れ高き、リセルティンの国民。栄光ある、はてみの塔の夢守りだ。私が忠誠をささげるべきは――リセルティンだ。それは、間違いないんだ。今までずっと、翡翠宮の禄を食み、夢守りとしての務めを忠実に果たしてきた。――だが」

 パーシヴァルは、重いため息をついた。

「どうしても――納得できん。どうしても――どうしても――どうしても、あきらめることが――」

「マスター……」

「なぜあのかただけが!?」

 パーシヴァルは、たたきつけるように叫んだ。エリックは肩をすくめた。

「それはねマスター、あの人は、はてみの君は、フツーの人には出来ない事が出来るからッスよ。フツーじゃない人が、フツーの人生おくれるわきゃないじゃないッスか」

「だからといって――だからといって――!!」

 パーシヴァルが強く握りしめたこぶしの中で、手のひらにつめが食いこんだ。

「あんなにも――あんなにも、何もかも奪われて――!!」

「マスター、ちっとばっかおうかがいするッスけどね」

 エリックは、奇妙に挑発的な口調で言った。

「あの人は、それを不幸だと思っていたッスか?」

「――それが一番、おいたわしい」

 パーシヴァルは沈んだ声で言った。

「あのかたは、何も――何も、御存知ない。休むことも――望むことも――御自身が――御自身が――」

「不幸だ、ってことも。幸せを取り上げられてるってことも」

「…………」

「で? それがどうかしたんスか?」

 エリックは、挑発的な口調を崩さずに言った。

「マスター、オタクいったい、何をどうしたいんスか? ああ、もしかしたらもしかして」

 エリックは、チロリと唇をなめた。

「いろいろと、教えてあげちゃったりしたいとか?」

「――出来ることなら」

 パーシヴァルは、低く答えた。エリックは、小さくのどをならした。

「マスター、こーいっちゃなんなんスけどね、それっていわゆる、余計なお世話なんじゃないッスか? だって、教えて、それでどーしようっていうんスか?」

「どう――とは?」

「マスターは、責任を取ることが出来るんスか?」

「責任……?」

「人間って、不思議な生き物ッスよねえ」

 エリックは、チラリと口元を歪めた。

「知らなきゃ欲しいともなんとも思わないのに、知ったとたんに欲しくなる。欲しくなったらつらくなる。手に入らないことがつらくなる。知ろうと知るまいと、手に入らないって事はおんなじなのに、どーしてそんなことになるんでやんしょうねえ? ねえ、マスター、オタクがはてみの君に、何かを教えたいってんなら、そら、オレがそのお手伝いしてあげてもいいッスよ。でも、マスター」

 エリックは、チロチロと舌をひらめかせた。

「オタク、教えたことに、ちゃんと責任が取れるんスか?」

「――知らなければ、望むこともできまい?」

 パーシヴァルの目が、ひどく熱っぽい光をおびた。

「責任――か。確かにそうだ。教えるからには、私が責任を取る必要があろう。――よかろう、責任を取ろう。私は――私は、あのかたに――」

 パーシヴァルは、カッと頬に血をのぼらせた。

「何かを望んでいただきたいのだ――!」

「ははあ、なるほどねえ、何かをオネダリして欲しい、と、そういうことッスか。このぉこのぉ、この、ムッツリスケベめ。なるほど。なるほどねえ。――マスター」

 エリックは、ニヤリと大きく笑った。

「それがオタクの望みッスか?」

「――そうだ」

 パーシヴァルは、強くうなずいた。

「おまえの言うことはよくわかる。知らねば欲することもない。焦がれて苦しむこともない。そう――私もきっと、そう思い、そう言っていた事だろう。――相手があのかたでなければ。そう諭す相手が、他でもない、はてみの君で――いや」

 パーシヴァルは、幾分苦い笑みを浮かべた。

「これは――これは、私のこと、だな。そう――私は、もう、知らなかった頃には戻れない。はてみの君の、あのまなざしを、知らなかった頃には戻れない。私はもっと――もっと、もっと――!」

「ハハアン」

 エリックは、満足げにうなずいた。

「よーやっと認めてくれたッスか」

「何? 何を、だ?」

「はてみの君はマスターにとって、特別な人だってことをッスよ」

「私にとってだけではない。あのかたは、かけがえのないおかただ」

「アン、もう、ニッブイなあ。んじゃあマスター、ぶっちゃけ言わせてもらうッスよ。マスター、オタク、いーかげん、はてみの君にベッタボレだっつーこと、認めちゃったほうがいいッスよ」

「…………何を馬鹿な」

 パーシヴァルは、怒ったように言った。

「そんな――そんな馬鹿な――わ、私ごときがそんな――お、恐れ多い――」

「ああ、かわいそうな、かわいそうなはてみの君!」

 エリックは、ヨヨヨヨヨ、と、やけにリズミカルに泣きわめいた。

「王家の一員に生まれちまったっつーだけのことで、人にはない、特別な力を持って生まれちまったっつーだけのことで、人から好きになってもらうことすら出来ないだなんて! ヨヨヨヨヨ、ああ、なぁんてかわいそう! 人を好きになることも、人から好きになられることも、ましてや愛も恋もなーんにも知らず、孤独に孤独に一人寂しく死んでいくんスね。ああ、あっぱれ見事な悲劇ッスねえ。ねえ、マスター、そうは思わないッスか?」

「――!?」

 パーシヴァルは、ほとんど息をすることも忘れ、まじまじとエリックを見つめた。その唇が、うわごとをもらすかのようにうごめいた。

「いや――私は――私は、そんな――」

「そんな? そんな――なんなんスか、マスター?」

 エリックは意地悪く、歯をむき出しにして笑った。

「ああ、もしかして、自分がやんなくても誰かがやる、とか思ってるんスか? べっつにそれでもいいッスよお。オレはね。オレは別に、それでもいいッス。――でも、マスター」

 エリックは、誘いこむように一拍おいた。

「オタクは、どうなんスか?」

「わ――私――私、は――」

「マスターは、何をしたいんスか? どうしたいんスか? んでもって、そもそも、マスターははてみの君のことを、ガートルード姫様のことを、いったいどーいうふうに思ってるんスか?」

「私――私は――」

 パーシヴァルは、大きく息を吸い込んだ。

「私は――私は、はてみの君のことを――」

 パーシヴァルはあえぎ、震え、歯を食いしばった。

 それでも。

 それでもパーシヴァルは、自分の言葉を押し出した。

「こ――心の底から――お慕い申し上げている――!」

「よーするに、ベッタボレなんスね」

「だ、だから!」

「だから、なんなんスか?」

「だから――だからその――いや――」

 パーシヴァルは、とまどったように闇の中に目をさまよわせた。

「ほ――惚れている? わ――私が?」

「他に誰がいるんスか?」

「私が――? 私――私には――」

 パーシヴァルは、当惑げに眉をひそめた。

「私には――よく、わからん――」

「ハア!?」

 エリックはすっとんきょうな声をあげた。

「わ、わからない!? って、マスター――」

「お慕い申し上げているのは確かだし、あのかたにお幸せになっていただきたいとも思う。心から思う。だが――だが、そもそも、私には、『惚れる』ということがどういうことなのか、正直言って、よくわからん」

「ヒエエ……」

 エリックは、ピィッと口笛を吹いた。

「そらまたそらまた、えっらいこと、奥手ッスねえ」

「……否定はせん。――だがな」

「ハイ? なんスか?」

「自分が何をやりたいのかは、わかっている」

「ほほお」

 エリックは、ベロリと舌なめずりをした。

「おうかがいいたしましょ、マイ・マスター」

「私は――私は、お教えしたいのだ」

 パーシヴァルは、大きく息をはずませた。

「はてみの君に――お教えしたい。いろいろな――いろいろなことを。知れば、あのかたは、お苦しみになられるかもしれない。いや――ほぼ確実に、お苦しみになられる。それでも――それでも私は――お教えしたい。だから――だから私は――!」

「――だから?」

「私の一生を、あのかたに捧げる」

 パーシヴァルはきっぱりと言った。

「何の償いにもならんかもしれんが、私の一生をあのかたに捧げる。命をかけて、あのかたをお守りする」

「――なるほどねえ」

 エリックは、クツクツと含み笑った。

「それでマスター、オレはいったい、どーすりゃいいんスか?」

「おまえの力を、どこまであてにできる?」

 パーシヴァルは低く問いかけた。エリックは、薄く苦笑した。

「何度も言ったッスけどね、オレはね、しょせん下級の下っぱでやんしてね。ぶっちゃけ、たいしたこたあできゃあしないんスよ。――ただ、ね」

 エリックの笑みが大きくなった。

「オレにもこう見えて、それなりのコネ、っと、あー、つまり、人脈がありやしてね。そっちのほうで、もしかしたら何とかできるかもしれないッス。で・も・ね」

 エリックは、チッと舌を鳴らした。

「先に言っとくッスけど、あのかたがたは、高いッスよ。いや、ホントにもう、泣きたくなっちゃうくらい、高いッス。んでもってね、あのかたがたにはね、命令なんて、できゃしないんス。だって、おネエさまがたを召喚したのはマスターじゃないし、オレはおネエさまがたより格下だし。つーことで、オレもマスターも、なーんも命令なんかできゃしない。『お願い』するのがせいぜいッス。それでも――」

 エリックのサングラスが、ペカリと光る。

「あのかたがたの力は、オレとはレベルが違う――あー、つまり、オレなんかとはくらべものになんないッスからねえ。うまくすれば、オレだけじゃ出来ないようなことも、出来るようになるッス。うまくすればね。で・も・ね、そのあとで、何をどうされるかまでは、オレ、責任持てないッスよ。おネエさまがたのお力を借りたら、マスターは、オレへの代償だけじゃなく、おネエさまがたへの代償も、払わなくっちゃいけなくなるッス。――さて」

 エリックは、わざとらしく肩をすくめた。

「どーするッスか、マスター?」

「それでいい。――それで、かまわん」

 パーシヴァルは、落ち着いた声で答えた。

「使えるものは、すべて使う。代償が必要なら、いくらでも支払ってやる。あのかたが――あのかたが、お幸せになるためになら、私は――永劫の地獄に堕ちてもかまわん」

「ととと、マスター、オタク、地獄がどういうところだか、ちゃんとわかってて言ってるんスか?」

 エリックは、ゆらゆらとかぶりをふった。

「自分の一番大切なものを、自分の手で粉々に叩き壊す、叩き壊し続ける。――そういう地獄だって、いっくらでもあるんスからね」

「な――わ、私は、そんなこと――」

「自分は、そんなこと絶対しない、って思ってるんでしょ? ところが、それをやっちゃうからこそ、地獄なんスよねえ」

「…………なるほどな」

 パーシヴァルは、フッと息をついた。

「私をとめる気か、エリック?」

「んーなわけないっしょ」

 エリックは、ケラケラと笑った。

「マスターのほうがその気なら、オレのほうにはなーんも文句なんかありゃしないッスよ。行け行けゴーゴー、突っ走れ! ってとこッスね❤」

「突っ走れ――か」

 パーシヴァルは苦笑した。

「おまえ、ちゃんとついてこられるんだろうな?」

「ハッハッハ。モチのロン。――マスター」

 エリックの声は、相変わらずおどけていた。

 だが、その底に、確かに固い芯が通っていた。

「死ぬまでおそばに。――死んでも、おそばに」

「――それだけでは、足りんな」

 パーシヴァルは、口元に薄い笑みを残したまま言った。

「今一度、誓え。私に従う――と」

「条件つきで、イエス、マイ・マスター」

 エリックは、低い笑い声をもらした。

「オタクが死ぬまで――この世界、この次元における存在を停止するまでなら――従うッスよ。いくらでも、お好きなだけ」

 エリックは、声をたてずに笑った。

「――それまでは、ね」

「――よかろう」

 パーシヴァルは、静かにうなずいた。

「なあ、エリック」

「なんスか、マスター?」

「おまえは――なんというか――」

 パーシヴァルは、今までとは違った興味を込めた目でエリックを見つめた。

「おまえは――私には、思いつきも、考えつきもしないことを言う。おまえの考えかたは、私とはまるで違う。ふざけてばかりいるのかと思えば、時々驚くほど鋭いことを言ったりする。――おまえは」

 パーシヴァルは、ほとんど厳粛と言ってもいいほどの口調で言った。

「本当は、私より、はるかに老獪で、したたかで――賢いのだろう?」

「さて、ねえ。どうでやんしょうねえ?」

 エリックは、ニヤニヤと肩をすくめた。

「で? もしそうだったとしたら、どうだっていうんスか、マスター?」

「おまえ達悪魔にとって、私達人間などは、愚かな子供にしか――それどころか、何もわからぬ赤子にしか見えないのだろう? なのに――なぜ私に、おまえ達悪魔をこの世界に召喚した人間に従う? おまえは、私などよりはるかに力がある。私のようなつまらん人間の魂などに、おまえの数十年の忠誠の価値があるのか?」

「アハン、あんまり自分を卑下しちゃいけないッスよ、マスター」

 エリックは肩をすくめた。

「えーっとあのね、ぶっちゃけた話、オレら悪魔が、オタクら人間の命令を聞くのは、それがオレらのルール――オレらの規則だからッスよ。オレらの――遊びのね」

「遊び?」

「そうッス。オタクら『素材』――っととと、人間の命令に従いながら、どんだけ面白いことが出来るか、ってえのが、オレら悪魔の間で人気のある遊びなんス。それにもちろん、オタクらの魂でも、いろいろと楽しい事が出来るッスしい❤」

「――なるほどな」

 パーシヴァルは苦笑した。

「なら、私の魂はおまえの好きにしろ。私が死んだ、そのあとにはな」

「アイアイ。サンクス、マスター。――あとね」

「あと?」

「オレら悪魔が、オタクらにちょっかいかけるのはね」

 エリックは、ニヤリと大きく笑った。

「オレらにはそれこそ、オタクらが赤ん坊みたいに見えてるからッスよ」

「何? ――どういう意味だ?」

「たとえばね」

 エリックは、クスクスと笑った。

「大人がゴロゴロ寝返りうってるのを見てたって、べっつに面白くもなんともないッスけど、ちっちゃな赤ちゃんが、生まれて初めて、一所懸命がんばって、ゴロンと寝返りうつのを見るのは――」

 エリックは、ヒョイと手をのばし、クシャリとパーシヴァルの頭をなでた。

「めちゃ萌えるっしょ? それってすんげく、かあいいっしょ❤」

「――なるほどな」

 パーシヴァルは、再び苦笑した。

「ならば、私から離れるな。そうすれば、いくらでも楽しませてやる。もがいて、あがいて、のたうって――それでもいつか、いつかきっと、寝返りをうち、はいずりまわり、そして、いつか――」

「――いつか?」

「自分の足で――立ってやる」

 パーシヴァルはきっぱりと宣言した。

「そして――そして、きっと――きっと、あのかたを支えてみせる――!」

「――」

 エリックはひそやかに、会心の笑みをもらした。

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