第20話

ナルガの話




 ナルガは、延々と続くはてみの塔の螺旋階段を一人登っていた。たとえ王といえども、はてみの塔の中に、供を連れて入ることは出来ない。幼い頃、本当に幼い頃には、誰につきまとわれることもなく自由に行動できる場所だと思い、開放感めいたものを覚えもした。だが、程なくして、ナルガは悟った。悟らざるを得なかった。

 家臣を伴わぬ自由があるのではない。

 塔の内と外とを、ふれあわせる自由がないのだということを。

 扉をたたく。開けるのは、伏人(ふせびと)だ。決まっている。この塔の中には、はてみと伏人しかいない。それはもちろん、伏人にも、夢守り、夢紡ぎ、侍従などの区別はあるのだが、目の部分にかろうじて二つの穴が開いただけの、のっぺらとした、なんのとっかかりもない面をかぶったその姿は、やはり伏人としかいいようがなかった。長く見ていれば、それはもちろん見分けもつくようになるのだろうが。ナルガは思わず自分の頬をなでた。少なくとも自分は、この塔の中で素顔をさらしていることは出来る。

 たとえ他に、何一つすることが出来なくても。

「姉上」

 ナルガは、窓辺に立つ姉、はてみの君、ガートルード・リィ・セルティニクシアに、静かに優しく声をかけた。

「お久しゅう。……何を見ておいでですか?」

「……今日の風は、とても綺麗だ」

 ガートルードは、ゆっくりとふりむいた。弟と同じ翡翠色の、だが弟よりほんの少しだけ明るい、ほんの少しだけ透き通った両の瞳。白くなめらかに整った、風が大理石を削り、その上に美しいかすみをまとわせたかのような、どこかうつつにはとどまりきれぬ顔。あどけない笑みを浮かべる鴇色の唇。母、先代のフィリア女王から受け継いだ、月光から紡ぎだした糸に勝るとも劣らない白銀の髪。かぼそい体にまとった胡蝶の羽のような白絹が、音もなく風にはためいた。

「ナルガ、ほら、ナルガのほうに――」

 ガートルードはナルガに微笑みかけ、ついで、ハッと目を見開いた。

「ああ……そなたには、見えぬのだったな」

「私には、風を見ることは出来ませんが」

 ナルガは、そっとガートルードに歩み寄った。

「風を感じることは出来ます。……今日の風は、とても心地よいですね」

「そう……心地よいな」

 ガートルードは、うれしそうにナルガに微笑みかけた。

「よく来たな、ナルガ。今日は何用だ? ……おや?」

 ガートルードは、小鳥のように小首をかしげた。

「そなた、何かよきことがあったのだな」

「ええ」

 ナルガはうなずき、そのとき初めて、部屋の片隅に身じろぎもせずにたたずんでいる、夢守りと夢紡ぎの存在を意識した。

「ありました」

「そうか」

 ガートルードは、いとけなくうなずいた。

「よかったな」

「はい」

 ナルガは、わずかに瞳を揺らした。姉が自分に何も問わぬのは、自分に興味や関心がないからではない。

 誰かに物を問うということ。そのすべそのものを知らないからだ。

「今日は、少し、姉上とお話を……それと、ディッド(将棋に似た盤上遊戯)でもご一緒しようかと思いまして」

「それはよいな」

 ガートルードはうれしそうにナルガの手をとった。ひどく子供っぽいしぐさだが、それをとがめる気にはなれない。ガートルードとまがりなりにもふれあいめいたものを持つことが出来るのは、ナルガと、半分だけ血のつながった二人の妹、ノアくらいなものだ。

 ノア・ディ・イェリアーニア。先代女王であった母フィリアが亡くなった後、強制的に臣下に下らされたソルレンカ王子ザレスが、彼を臣下という身分に縛りつけておくため、これまた強制的に娶らされた、マイシェラ・ディ・イェリアーニアとのあいだにもうけた一人娘。その父すらもう、今はない。ザレスが臣下に下ったとき、そして、ザレスが身罷ったとき、どちらの場合も、ザレスの母国ソルレンカと、かなり激しいやり取りがあった。

 だが、それももう、すべては過去の出来事だ。

「ナルガ、ドゥカー茶を飲むか? それとも、ジャニがよいか?」

「ドゥカー茶をいただきましょう」

 ナルガが答える。とたん、伏人が動く。

 はてみの君たるガートルードに、わざわざ命令を下す手間をかけさせぬように、ではない。

 ガートルードと、出来るだけ言葉を交わさぬようにするためだ。

「ナルガ、今の者はな」

 ガートルードは、ナルガを椅子に座らせながら得意げに言った。

「余の、気に入りだ」

「気に入り……ですか?」

 ナルガは、わずかに口ごもった。伏人に顔はない。名も、はてみには、決して教えられることがない。

「そうだ」

 ガートルードは、真面目な顔でうなずいた。

「顔も、名も知らぬがな。見分けはつくぞ。どうだ、ナルガ。余にも、気に入りがいるのだぞ」

 ガートルードは、ふわりと口元をほころばせた。

「そなたと、同じにな」

「……そうですね」

 ナルガは、うつむくようにうなずいた。いつ話したかすら忘れたが、何気なく、本当に何の気なしに、自分には気に入りの、オリンという侍女がいるのだという話をしたことがある。姉は、目を丸くして聞いていた。

 そして、ずっと、覚えていたのだ。

「……いけぬかな?」

 ガートルードは、不安げにつぶやいた。ナルガは、ハッと顔を上げた。

「え?」

「余が気に入りを持っては――いけぬかな? いけぬこと、だったのかな?」

「いいえ」

 ナルガは、きっぱりとかぶりをふった。

「そのようなことはありません、姉上」

「そうか」

 ガートルードは、おとなしくうなずいた。

「それならばよいが。もしいけぬことなら、言ってくれ。さすれば、余は、もうそんなことをしたりはせぬからな」

「……はい」

 姉は、「しないようにする」などとは言わない。しないといったら、間違いなくしないのだ。

 王としては、そのことを喜ぶべきなのだろう。

 だが、弟としては、到底喜ぶ気になどなれない。

「このあいだ、ノアが来たぞ」

 ガートルードは、うれしそうに言った。

「ノアはな、自分が描いた、絵を見せてくれた。あれは、絵がうまいな。ディッドは下手だが」

「下手、というより、まだ子供だから、ですよ。もっと大きくなれば、きっと、もっと上手になりますよ」

「ああ……そうか」

 ガートルードは、コクリとうなずいた。

「あれは、まだ、小さいのだったな」

「ええ」

「そなたも、本当に小さかったのに」

 ガートルードは、いとおしげに弟を見つめた。

「母上が身罷られ、父上にまで身罷られ、そなたは、本当に早く大人になったな」

 ガートルードは、静かに言った。

 伏人が、ドゥカー茶やシュティ、砂糖壺、様々な茶菓を乗せた盆を運んでくる。無言で一礼し、再び壁際に控える。ナルガはわずかに考え、何も入れぬままのドゥカー茶を口に運んだ。

「姉上」

「ん?」

「イズのことを、覚えていらっしゃいますか?」

「イズか。ああ、覚えている。イズはこのごろ、ここへは来ぬな」

 ガートルードは小首をかしげた。ナルガはあいまいにうなずいた。ガートルードの『このごろ』は、時に、軽く5年や10年を越えることがある。

「イズが、どうかしたのか?」

「私は、イズを娶ることにしました」

「そうか」

 ガートルードは、驚きもせず、軽くうなずいた。

「すると余は、琥珀卿に嫁するのだな」

「……それは……」

「どうした、ナルガ」

 ガートルードは狼狽するナルガを見、初めて驚いたように目を見開いた。

「余は、何かおかしなことを言ったのか? そなた、何故そのような顔をする?」

「姉上は……」

 ナルガは、しばし口ごもった。

「姉上は……それで、およろしいのですか?」

「何がだ?」

 ガートルードは、きょとんと言った。

「よいも悪いもなかろう。それが余の勤めだ。翡翠の血には、余とそなたの代で、琥珀の血を入れる必要がある。違うか、ナルガ?」

「姉上……」

 ナルガは絶句し。

「……姉上?」

 不意に席を立ったガートルードを見て腰を浮かせた。

「……そなたは」

 席を立ち、窓際に立ったガートルードは、窓の外の虚空を見つめてつぶやいた。

「この世のものでは、ないな。余に、何用だ?」

「姉上」

 ナルガは、すばやくガートルードに歩み寄った。

「何か、いるのですか?」

 ナルガは窓の外を見つめた。視界の片隅で、夢守りと夢紡ぎが、身構えるのが見える。

 だが、ナルガの目には、窓の外にはいつもと何も変わらぬ風景しか見えない。

 同じ翡翠の瞳を持っていても、ナルガにはてみは出来ないのだ。

 だからナルガが王になった。

「……見ているだけか」

 ガートルードは、ふいと窓に背を向けた。

「気にするな、ナルガ。まろうどだ。めったに見られるものではないが、世にためしなきことでもない」

「まろうど?」

 ナルガは、窓から身を乗り出した。

「そんなものが、この翡翠宮に?」

「珍しいことではあるな。余も、数えるほどしか見たことがない」

「まろうどとは――」

 ナルガは、若者らしい好奇心をわずかにおもてに浮かべた。

「どのような姿形をしているものですか?」

「一概には言えぬな。それに、形があると決まったものでもない」

 ガートルードは、チラと窓に目をやった。

「さきのものも、しかと見えたわけではない。気配が感じ取れただけだ」

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