第18話

イズの話




 宮廷絵師見習い、モルディニウス・ルーモは、短い貴重な休み時間を利用して日の光を浴びるべく、中庭へとくりだした。モルディニウス、という立派な名前のある彼ではあるが、人よりどう見ても小さな体に大きな頭、少しむくんだようなしもぶくれの顔を持ち、気弱でどもり癖のある彼の名を、正確に呼んでくれるものなど、まあ、まず、いはしなかった。名を付けてくれたとうの両親さえ、モルディニウスという名を忘れかけているのではないかという節がある。彼は他人には、モル・ルーモとして知られていた。いや、たいていはただのモル、もっとひどいときには、そこのチビである。

「よぉ、モル」

 親しみをこめた声とともに、軽く肩をたたかれる、モルがふり返ると、そこには宮廷調理人見習い、ライル・ペルカが立っていた。この中庭は、宮廷に仕える種々雑多な職業の人間達が思い思いに休憩する、一種の社交場のようなものにもなっている。

「よ、よぉ、ライル」

「これから休みか? いつもより、遅いんじゃね?」

「あ、ああ。こ、このごろさあ、ど、どういうわけかみんなはりきっててさあ、色が足りないから、どんどん作れ、って。お、俺、仕事遅いからさあ――」

「そのかわり、誰より丁寧だろ」

「そ、そ、そうかあ?」

「そうだって。そうじゃなきゃ、宮廷絵師なんて続けてらんねえだろ」

「ま、まだ見習いだって。い、一生見習いかもな。はは」

「見習いでもすげえよ。絵、描けるんだろ?」

 小さなモルより頭半分ほど背の高いライルは、尊敬の念にこげ茶の瞳を輝かせた。

「だ、だ、だからあ、い、いつも言ってるだろ。まだ絵なんて、ほとんど描かせてもらえねえよお」

 モルは照れ笑いをもらした。

「あ、で、でも、このあいだ、ちょ、ちょっとだけ、背景描かせてもらったけど」

「ほらほら、すっげえじゃん!」

 ライルは、モルの背中をパシパシとひっぱたいた。

「どの絵だよ。俺が見られるようなところに飾られるんなら、俺、見に行くからさ」

「み、見たって、俺がどこ描いたかなんて、わ、わかんねえよお」

「えーっ、それでもいいよ。教えろよ」

「う、うん。じ、じゃあ、今度廊下に掛けられるから、そ、そしたらいっしょに見に行こうな」

「すげえなあ。みんなに見られるところに自分の描いたもんが飾られるんだろ?」

 ライルはあけっぴろげに感嘆した。モルは苦笑した。

「ば、馬鹿だなあライル。そ、そんな、俺達みたいな下々の連中でもうろうろ出来るようなところにかけられるような絵なんてたいしたことねえよお。ほ、ほんとにすごい絵は、お、俺達なんか近づくことも出来ねえ様なところに飾られるんだから。お、俺みたいな下っぱは、そんな絵、さわることも出来ないけどな」

「はじめはみんな下っぱだったんだぜ」

 ライルは真面目な顔で言った。

「小さなことからこつこつと。おまえだっていつか、翡翠様の部屋に飾る絵を描くようになるかもよ?」

「そ、そ、それ、あ、あんまり可能性、ねえな。そ、それより、ライルが翡翠様の朝食作るようになる、っていうほうが、可能性あるな、うん」

「えーっ、それ、どうかなあ。俺、口が悪いからなあ……」

「く、口は料理に関係ないだろお。そ、そりゃ、味見には使うだろうけどお」

 モルはふきだした。

「そうかなあ?」

 ライルは照れたように笑った。

「でも、やっぱ、王様のそばじゃあさあ、めったなこととか言えねえだろ?」

「お、おまえ、いつもそんなやばいこと言ってるのかよお?」

「別に、んなこたねえけどさ」

 ライルは、軽く肩をすくめた。

「でも、王様の近く、なんて、ただそれだけでやばいじゃねえか」

「そ、そうかあ?」

 モルは、不安げに目をしばたたいた。ライルは、安心させるように笑みを浮かべた。

「大丈夫だって。絵描きを陰謀の道具に使おうとするやつなんて、まあ、まずいやしないから」

「ちょ、調理人にはそんな危険があるのかよ?」

 モルは首をかしげた。ライルは、あいまいに肩をすくめた。

「そうはならねえことを祈ってるけどな」

「ふ、ふーん」

「ところでさあ」

 ライルは、ポン、と肩からぶら下げた袋をたたいた。

「いつもの余りもんでよけりゃ、持ってきてるけど?」

「え、あ、ありがと、ライル。い、いただくわ。い、いつも悪いな、も、もらってばっかで」

「だから、余りもんだって。気にすんなよ、モル」

「で、で、でもよお……」

 モルは、申し訳なさそうにライルを見上げた。

「お、俺にも何か、お返しできることとか、ねえ?」

「え? えーと、そんなら……実は、頼みたいことがあるんだけど、でも、どうかな、頼んでもいいのかな……」

「な、何だよ、言ってみろよお」

「あのさあ――ここって、綺麗じゃん」

 ライルは周りをぐるりと見回した。下々のものが自由に使える程度の――つまり、翡翠宮においては、一番重要ではない部分である中庭だが、それでもやはりそこは、翡翠宮の名に恥じぬだけの美しさをたたえていた。

「俺さあ――俺、こういう――綺麗な景色の絵がさあ、俺の部屋にあったら、そんでいっつも見られたら、きっと、楽しいだろうなあ、って思うんだよ。だからさ――」

 ライルは照れたように笑った。

「綺麗な景色の絵、描いてくれるとうれしいんだけど」

「そ、そ、それは、いいけどお」

 モルは目を丸くした。

「で、で、でもお、お、俺、下手だぜ?」

「でも、描けるんだろ?」

「そ、そりゃ――そりゃまあ、なんとか――」

「あ――いやなら、無理にとは言わねえけど」

「べ、別に、いやじゃねえよお。で、でも、いいのか、俺なんかの絵で?」

「描いてくれるのか!?」

 ライルは目を輝かせた。モルは、幾分おどおどとうなずいた。

「お、お、俺でよければ」

「ほんとか!?」

 ライルは、驚くほど大きく笑った。

「やりぃ! ありがとな、モル!」

「い、い、色は、つけらんねえけどな。が、顔料は、た、高いから」

 モルは気弱げな、人の良い笑みを浮かべて言った。

「た、たぶん無理だろうけど、い、いつか偉くなったら、い、色つきのすげえやつ、描いてやるよ」

「ほんとか!? 聞いたぞ、約束したぞ、絶対だぞ、モル!」

「た、たぶん、む、無理だろうけどお」

「決めつけんなって。楽しみにしてるからな」

「う、うん、じ、じゃあ、期待しないで待ってろよ」

「おまえ、難しいこと言うね。まあいいや。わかった。期待しないで待つ」

「そ、そ、そうしてくれ」

 モルはうなずき、ふと目を上げた――とたん、モルの小さな目は、大きく見開かれた。

「し、し、し、新月様!!」

 モルはあたふたとひざまずいた。ライルもあわててそれにならう。

「ああ、いいよ、そんなにあわてなくても」

 新月様、イズ・アル・ヨーディン――一般に知られている名ではイズ・アル・アディン――は、鷹揚に笑みを浮かべた。その笑みは、およそ可能性を考えうる顔の部分すべてに取り付けられたピアス、この世界の言葉では銀星鋲(ぎんせいびょう)によってきらびやかに彩られていた。ここまでくると、それはもはや、ただの酔狂や悪趣味ではなく、純然たる畏敬の対象であった。

「し、し、新月様の、ご、御前をけ、けが、汚したて、たてまりつ、じゃない、奉り、きょえ、きょ、恐悦至極に存じます」

「そんなにあわてることはないよ」

 イズはくすくすと笑った。

「わたしにはもう、何の力もありゃしない。単なるディン朝の、最後の生き残りだってだけなんだからさ、わたしは」

「そ、そんなことおっしゃられてもお――」

 モルは、少し恨めしげに顔を上げかけ、真っ赤になってうつむいた。その原因が、イズの地位と、イズが身にまとっている、漆黒の、下半分はおとなしやかに豊かなひだを取ったスカートだが、その上半分は、かろうじて乳房の先を覆う二本の帯でしかないというとんでもないデザインのドレスのどちらに余計にあるのかは、モル自身にしかわからない。

「あーら、なによ、何生意気に赤くなっちゃってんのよ、このちんくしゃは」

 甲高い嬌声が響く。イズの後ろから顔を出したカンナは、楽しげにモルの頭をひっぱたいた。

「ち、ち、ちんくしゃ?」

「そうよ、あんたのことよ、このちんくしゃ」

「お、お、俺の名前は、モ、モルディニウス・ルーモです」

 モルは、彼としては精一杯反抗的にそう答えた。カンナはニヤニヤと、面白そうに目を細めた。

「あら、なによ、口答えするのね、ちんくしゃのくせに」

「下のものを嬲って、楽しいですか?」

 ライルが、苦々しげに口をはさんだ。カンナは、聞こえよがしに口笛を吹いた。

「あーら、なぁによぉ、麗しき男の友情ってやつぅ? ねえねえ、いつ友情が愛情に変わるのよ?」

「やめなよ、カンナ」

 イズはうるさげに口をはさんだ。

「会う相手全部にちょっかいをかけて回る気か? あ、そこの二人、こいつはただのわたしの道化だから。気を使う必要なんか、まるっきりないんだからね」

「ああん、つれないわぁ、ダーリン」

「……確かに道化だわ」

 ライルがぼそりとつぶやいた。

「あったくしも、道化ですわよぉ」

 ナタリーが、ぬらりと首を突き出した。

「今後とも、よろしくお願い申し上げますわあ」

「ど、ど、どうも、よ、よろしく」

 モルが律儀に頭を下げる。ナタリーは、んま、と小さな目を見開いた。

「礼儀正しい若者ですこと。かわいがってあげたくなっちゃいますわあ」

「やめときな。ひきつけ起こすから」

「あらん、おん嬢様、それってどういう意味ですの?」

「言ったとおりの意味だけど?」

「あ、あんまりでございますわ……」

 ナタリーは、芝居がかったしぐさで両手をもみ絞った。

「べっつにいいんじゃないのぉ?」

 カンナはケラケラと笑った。

「こんなちんくしゃ、ナタリーで上等よぉ。どうせこいつ、そんなことでもなけりゃ、きっと一生童貞よぉ」

「――浮かれすぎだ、道化」

 ライルがぼそりと、怒りを込めて吐き捨てる。

「あーら、お友達に、いっつもかばってもらってるわけぇ? 自分ではなーんにもしないで、たーだ目を白黒させてるだけぇ? ばっかじゃないの? それだからちんくしゃなのよ」

「ち、ち、ちんくしゃは、よせよお」

 モルは、懸命にカンナに反論した。

「お、お、俺には、モ、モル、モルディニウス・ルーモって名前があんだから。み、みんなはモルって呼ぶけどお」

「あっらあ、なっまいき」

 カンナは、完全に面白がって笑い転げた。

「ちんくしゃのくせに。あんたなんて、ちんくしゃで十分よ、このちんくしゃ」

「ひ、ひ、ひでえなあ」

 モルは、子供のように口をとがらせて抗議した。カンナは、ヒョイとモルの額をつついた。

「あーら、そーぉ? こーんな美人にかまってもらえるんだから、ありがたいと思いなさいよね、ちんくしゃ」

「そ、そ、そりゃ、た、たしかにおまえは美人だけどさあ」

 モルは、もじもじとうつむいた。カンナはきょとんと目を見開いた。

「あら、なによ、それっくらいはわかるのね、ちんくしゃのくせに」

「そ、そ、そりゃ、わ、わかるよぉ。お、お、俺、絵師見習いだもん。え、絵になるかならないかは、わ、わかるって」

「あら、あんた、絵描きなの。へーえ」

 カンナは、幾分興味をひかれたようにモルを見た。

「なーに描いてんのよ。ちんくしゃ?」

「え、そ、そんな、お、俺みたいな下っぱは、毎日顔料すりつぶしてばっかだよお」

「あーら、自分が下っぱだっていう自覚はあるのね」

「う、う、うるせえなあ」

「ねえ、ちんくしゃ――」

「カンナ、よっぽどその、モルって子のことが気に入ったんだね」

 イズは面白そうに、わざとのんびりとした口調で口をはさんだ。

「おまえの男を見る目、悪くないよ。モルってば、いかにもいい人、って感じだもんね」

「――は、は、はあッ!?」

 カンナはまるでモルのように、激しくどもった。

「な、な、な、何言ってんのよ!?」

「……へーえ」

「あらあ」

 ライルとナタリーは、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。

「し、し、新月様あ、か、か、からかうの、よしてくださいよお」

 モルは、だいぶ緊張のほぐれた照れ笑いを浮かべた。

「な、な、なあ、え、えーと、カ、カンナ、だっけ? カ、カンナだってさあ――」

「う、うるさい、なれなれしい、うっとうしい!!」

 カンナは、白い頬に血をのぼらせて叫んだ。

「ちんくしゃごときがあたしの名前を気安く呼ばないでよ! ちょっとダーリン、あんた目がおかしいわよ! 頭おかしいわよ! 誰がこんなちんくしゃなんか!」

「いいんだよ、カンナ、そんなにむきにならなくても」

 イズは、にこやかに微笑みながらカンナに生暖かいまなざしを向けた。

「おまえの気持ちは、よくわかってるから」

「わかってないわよ!」

「あたくしも、よーくわかっておりますわあ」

 ナタリーもまた、ニヤニヤとカンナに微笑みかける。

「わかってないっ!!」

 カンナは、険悪な顔でイズとナタリーをにらみつけ、やあやって、不意にとりすました顔でそっぽを向いた。

「あーあ、ばかばかしい。こんなちんくしゃごときにあたしのエネルギーを使うなんて無駄の極みね。ダーリン、あたし、もう、そのちんくしゃのヘタレ顔にはあきあきしたわ。あたし、ちょっとお城の中散歩してくる。いいでしょダーリン」

「もちろんいいよ」

 イズは、いともにこやかにうなずいた。

「ちょっと自分の気持ちを整理しておいで」

「――なんのことだか、さっぱりわからないわ」

 カンナは大股で歩み去った。イズとナタリーは、ニヤニヤとつつきあった。

「……なんでえ、あいつ、ああ見えて、案外スレてねえな」

 ライルは、モルにだけ聞こえる声でつぶやいた。

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