第5話 つくばみらい市午前零時。
ここは、つくばみらい市。
お隣のつくば市は西洋科学と東洋科学が融合した魔都的発展を遂げたが、名前に「みらい」を関するこの街は、しかしいつまで経っても田んぼと畑と公園と、ぽつりぽつりとした住宅しかない。
それ故、たいへんのどかな街である。
市内に一つだけある「普通」しか停車しない駅の目の前には、未来が丘思念公園。
そこに、小さな時計台がひとつ。
小さな時計台の前に、古ぼけたベンチが一つ。
時刻は23時58分。
つばの短い丸ハットに金縁眼鏡。
使い込まれた、しかし純白で糊のきいた白いシャツにサスペンダー、その上に明るいグレーの上着を一枚。
上着とおなじ明るいグレーのパンツに、焦げ茶色の革靴。
雨は降っていないのに、折りたたまれたレンガ色のこうもり傘をステッキ代わり。
そんな老人が、駅から出てきた。
時計台に向かってゆっくりと歩いて、ベンチに座る。
同時に、時刻は23時59分を回った。
老人は上着の内ポケットから、テレビのリモコンを取り出し、空にむけて「ピッ」とボタンを押す。
全ての「時」が止まった。
「お久しぶりですね。」
時計台が老人に向かって話しかける。
「そろそろ、来る頃じゃないかと思ってました。」
「君が「そろそろ」なんて言葉を使うのは、なんだか矛盾めいてて愉快だねぇ。」
「あなたがそこにいる時だけは、矛盾は生まれないのですよ。」
老人はこうもり傘を膝と膝の間に立てかけ、もたれかかる。
「どのようなご用事でこちらに?」
「うん。実は明日、娘に会うんだ。」
「娘さん。娘さんがいらっしゃったんですか。」
「ふふ。そうなんだ。明日、生まれるんだよ。」
「それは、おめでたい。おめでとうございます。」
「ありがとう。明日来るつもりだったんだが、すこし浮かれてるみたいだな、僕は。一日早く到着してしまった。それならそれで、久しぶりに君とゆっくり話したいと思ってね。」
「うれしいお言葉です。」
「どれ、少し飲まないか。ここに来る前についつい道草してしまってね。喉が乾いてしまった。それに道すがら、いい葡萄酒をもらってきたんだ。」
「喜んで。」
老人は上着の右ポケットから葡萄酒を、左ポケットから杯を2つ取り出す。
「久しぶりの僕らの時間に。」
「久しぶりの私たちの時間に。」
チリン、とグラスが交わる。
「うん。…美味い。」
「ええ。とても。………これは、この銀河系のものでは?」
「ああ。少し離れたところのやつさ。ハビタブルゾーンが、この銀河よりもずいぶんと広い銀河でね。あまり大声では言えないが、そのうちのいくつかの地球型惑星に、こっそり葡萄の木を植えておいたんだよ。」
「あなたがそれをするならば、そうなる運命だったんでしょう。いずれにせよ、こんなに美味い葡萄酒が飲めるのであれば、私にとっては幸運です。」
「どうだい。変わったことはあったかい。」
「相変わらず、変わったことばかりですよ。」
「いいことだねぇ。」
「あなたは、いかがお過ごしでしたか?」
「うん。僕の方は変わり映えがしないね。相変わらずいろいろな誕生を見守って、あらゆる死を看取っているよ。小さないのちも大きないのちも、誕生はいつだって嬉しいし、死は、いつだって少し悲しい。いずれ別の形でまた会えると分かっていても、しばしの別れは寂しいもんさ。」
「分かりますよ。もっとも私は、この星のことだけしか分かってはいませんが。」
「自分の根差す場所のことが分かっていれば、それで十分。」
「ブエノスアイレス積分公園の件は、とても残念だったね。」
「恥ずかしいことです。9,001年後に時間ではなく、空間になってしまうとは。あれは昔から、せっかちなところがありました。」
「重力のことなんて、うっかり忘れてしまうときもあるさ。」
「反省してはいるようです。戻ってくるのはおそらく、750万年前あたりになるでしょう。」
「大丈夫。長いようでいて、それくらいはあっという間だ。」
「えぇ。光陰は矢のごとし、ですね。」
「上手いことを言うね。」
「この星のことわざです。」
2人は葡萄酒をゆっくりと味わいながら、過去の話と未来の話、楽しい話と悲しい話に花を咲かせ、41年間と7ヶ月ほど話し込んだ。
「それじゃ僕はそろそろ行くよ。娘が生まれるまでそわそわしながら、引き続きこの星を散歩でもしようと思う。」
「ふふ。お時間を間違えなきように。」
「気をつけるよ。それじゃ、また。」
「ええ。また会える日を楽しみにしています。」
老人はベンチから立ち上がり、上着の内ポケットからリモコンを取り出す。
時計台は、その背中に、心からの声をかける。
「よい一日を。神様。」
「うん。ありがとう。」
「ピッ」
再生ボタンが押された。
時が流れだす。
未来が丘思念公園の時計台は沈黙する。
老人は、駅に向かってゆっくりと歩いていく。
神様の子どもの誕生まで、もうまもなく。
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