3 / 告白



「やばいやばいやばい、いけないいけないいけない」


 誰にも聞こえぬ様にそう呟きながら歩く。これは本当にやばい。

 何がやばいって「全てが」である。人生の中でもピカイチでピンチ。

 着た道を引き返す。淡々と、黙々と、延々と、は言いすぎか。目的の物をこの目でしっかりと確認し回収しないことには、この切羽詰まった状況は解決されない。

 講義室前に着くと、全開だったブラインドは閉められていて、中の様子は伺えない。講義中の場合もある。恐る恐るスライドドアを開く。中は真っ暗で、どうやら講義は行われていないようだ。

 

 暗黒の世界に光をもたらしたヒーローは孤独を背負う。昔、とある映画を見たときの感想がそれだった。まさに今、世界に光をもたらす瞬間だ。照明スイッチを押すとパッと明るくなった。案の定誰も居らず、そこには僕一人だった。

 安堵する。クリアファイルを回収しなければ。俺は自分が座っていた席を目指す。気になる彼女が座っている席の通路を挟んだ斜め後ろだ。


「たしか棚に置いたような、っと」


 確認するように机の下を見た。が、そこには何もない。冷や汗がでる。自分の中での最悪のシナリオが映像となって目に視えるようだった。

 それは、誰かが僕のファイルを見てしまう。面白いネタを見つけたその誰かはファイルを持ち帰り他の誰かに見せる。それが広まってしまう、という展開だ。

 そして、僕は一躍笑い者。想い人からは冷ややかな目で見られるに違いない。

 室内の照明はつけたはずだったが、絶望の黒が僕を襲う。


「教務課に行こう。落し物として……」届けられてはいないと思う。だが、人の中に本当に善意の心があるのなら、見つけた人はきっと届けてくれるだろう。これはギャンブルに近い賭けである。僕の中の天使が囁く。「もっと周りを信じて」と。

 一方で「そうであるはずがない。信じれば裏切られる」と僕の中の悪魔が脅すのだ。困ったときの神頼みとはこの事で、基本的にギャンブルは神頼みしたらお終いなのだが、こういう場合は、藁にもすがる想いである。脳内の天使が悪魔を平手打ちし、主導権を天使が握る。

 急ぎ足で教務課に向かう。


「これでしょ」


 素っ気ないが、聞き覚えのある声が室内に響く。ここには誰もいなかったはずだ。だが、確かにそこにいた。赤と青のチェックシャツを腰に巻いてボーイズデニムとゆったり目のベージュのトップスを着こなした彼女は凛とした姿勢で机に座っている。そう、探していたクリアファイルを持って。


「飽きないね」彼女はそういった。

「お前、か。てかノート」

 

 同じ学科ではあるが実質初対面の初会話である。想定外の出来事が引き出した最初の言葉がそれだった。初対面の女子に「お前か」なんて最悪な滑り出しである。僕の脳内で描かれていたシナリオにはそんな雑なセリフは含まれていなかった。気にしない様子で彼女は続ける。


「置いてあった」


 刻々と秒針が時を刻んでいく音が響く中、彼女はページをめくってはじっくりとその内容を観察する。


「忘れただけだから……返して」


 今すぐにでも此処から立ち去りたい。穴があったら埋もれたい。築いてきた多くの対彼女用シナリオが瓦解する音を体現するかのように心臓が大きく脈打つ。


「あーあ、忘れられた。自分で描いたくせに」

「いや、そういう訳じゃ……」


 全てが後手に回る状況は自分にプラスをもたらさない。言葉に詰まる僕をよそに、如何にもなジェスチャーでガッカリ感を表す彼女は、全ページを見終わって一言、こう言った。


「横顔ばっかり。正面から描いてよ」


 気づけば、今も彼女の横顔を見ている。面と向かって話したいが、それができなかった。


「返せよ」

「で、いつになったら話しかけるの?」

「それは……まだ」


 彼女は僕のことを見透かしているかのように続ける。


「怖いの?」

「ちげぇよ。あんまり、そういうタイミングっていうかなんていうか」

「言い訳じゃん」


 しっかりと的を射ていた。そうだ、これは言い訳だ。


「本当はだってちゃんと顔見て喋りたよ。でも、嫌われたくないし」

「ほら、怖いんじゃん」

「誰だってそうだろ」

「また言い訳。私だったら、黙って描いたりしないけどね」


 沈黙が僕らを支配する。彼女はクリアファイルに入れられた、ある一枚の紙を取り出した。

 そこには彼女の横顔がページ一杯に描き込まれている。


「逃げてばっかり。卑怯だよね、ほんと」

「うるさい」

「このままでいいの」

「黙れって」

「わかってるんでしょ」


 僕は俯いた。返す言葉が見つからなかった。それは彼女も同じようだった。俯き加減で、紙を握りしめ、怒りを鎮めようとする彼女は、同時に言葉を探しているようにも見えた。


「言わなきゃ始まんないよ」


 それが彼女の長い沈黙の中で見つけた言葉だった。


「好きなんでしょ? 私は知ってるけど。私じゃだめだから」

「ごめん、俺だってわかってる」

「なら頑張ってよ。いつまでも私に逃げたってしょうがないじゃん」

「ごめん」

「謝らないでよ、ほらシャキっとしなって」


 そう言い放ち、クリアファイルを投げ渡してきた。これは彼女からのきっかけ作りだ。きっかけを受け取った僕は、しっかりとそれに応えなければならない。下を向くのは今日でやめよう。前を向いて歩こう。


「あの、俺さ」


 受け取ったファイルから彼女に目を向けた時には、彼女の姿はもうなかった。何が起きたのかわからない。目の前から人が一人いなくなった。静寂が室内を支配する。あたりを見回すが、室内には俺とガラスに映るもう一人の自分しかいなかった。椅子に座る。気持ちを整理するためだった。机に顔を伏せ、目を瞑る。

 さすがに、ここ二日は集中できていなかった講義の内容を写す作業であまり寝れていない。幻覚、幻聴かもしれない。「少し寝よう、疲れているんだ」と、そう納得しかけた時だった。

 スライドドアが開く音。静かに開かれたドアからが入ってきたのは意外な人物だった。


「あれ、一十木いっとき君どうしたの」


 入ってきたのは先ほどまで目の前で話をしていた彼女だった。

 しかし、様子が少し違う。先ほどの出来事はまるでなかったかのような振る舞い。服装も少し違っていた。そう、先ほどの彼女は着ていた服だった。


「やまもと……さん?」

「わすれもの? 私も定期忘れちゃってさ」



 不思議とファイルを開く。先ほどまで紙一杯に描かれた横顔のイラストがどこにも無くなっていた。綺麗に、消し後すらなく、さっぱりと。疑問は尽きないが、しかし、妙に腑に落ちた。納得してしまったのだ。そして、今日まで胸につかえていた棘のようなモノが無くなっていた。自身の身に何が起こったかは誰も知りもしないが、僕のこころはきっとそれに気づいている。


「シャキっとしなって」最後に彼女の言ったこの言葉が僕の背中を押す。

「ありがと……」

「ん?」


 ファイルにお礼を言う僕は、きっと彼女から見れば変な人間だろう。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。これからどう話しかけよう。いや、頭で考えるな。

 Don’t think.Feel!


 最高の対シナリオを今、作り上げろ!


「あのさ」


 未来は不安に満ちているが、兎にも角にも「言わなきゃ始まんない」と言ってくれた彼女の言葉を信じよう。俺の名前もそう言っている「一時の勇気だ」と。

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