~瞳、紅くもゆる頃~ 7話


 何時間か、暫く何も考える事もできずに自転車をこぎ続ける。いつの間にか陽は高く昇り、辺りの真っ赤に萌えるような葉をキラキラと輝かせている。しかし、そんな事にも気が付く事も無くただ走り続ける。

 涙はいつの間にか枯れ果て、涙にぬれた跡だけがくっきりと両方の頬に跡を付けている。

 ようやく少し気持ちが落ち付いた頃、道の脇に小川が流れている事に気が付いた。今までそんな物さえも眼に入る事も無く、ただ闇雲に自転車を走らせていたのだ。

ようやく気持ちも少し落ち着いたこともあり、ルーミスは小川のほとりに自転車を止め、小川に近づき、膝立ちになりそのさらさらと流れる小川の水を両手で掬い上げ、涙の跡が残る顔を洗う。

もう冬が近いのだろう、小川の水はかなり冷たく、掬い上げた両手はその温もりを川の流れに流されたかのように冷たくなっていたが、それを気にする事も無く、再びルーミスは小川の水を掬い上げ、また顔を洗う。そして流れる小川に移る自分の顔を見つめる。小川の流れに自分の姿は揺らめき、その姿をまともに移すことは無い。そしてその姿は今のルーミスの心をそのまま映し出しているかのようにも思えた。

「何で……何で急にラムジットさんあんなこと言ったんだろう……」

 ただ、ルーミスの心にはラムジットの最後の姿が目に浮かぶ。寡黙だったが温かく、そして優しい。そんなラムジットがなぜ最後にあんな態度を取ったのだろう? 今はそれが疑問に思えて仕方なかった。

 何か他の理由が有ったのではないか? もしそうならばそれはいったい何なのだろう? 小川に映る揺らめく自分の姿を見ながらルーミスは迷っていた。

 今戻らなければ後悔するかもしれない。もしルーミスの思い過ごしで、ただ単に、ラムジットはルーミスの事が邪魔に思えて言っただけなのか、それともそれ以外の何かの理由が有ったのか?

 そしてルーミスは思い立ったかのように立ち上がり、自転車にまたがると、今来た道をまた急いで戻る。今度は涙を零すことは無く、ただラムジットの家に続く道をまっすぐに見据えて走り続ける。

 戻って、それでもやはりさっきと変わらなかったら、自分は邪魔ものだったのだろう。しかし、それでもやっぱりちゃんと別れの挨拶をしたい。ほんとうにもう会う事も出来ないかもしれない。そう思うとルーミスは嫌われてしまう事より、嫌われるなら嫌われるで、ちゃんとその言葉を聞いてから別れたい。ルーミスはそう思う気持ちでいっぱいだった。

 ただただ自転車をこぎ続け、どれくらいこいで来たのか解らない程の道をルーミスは戻り続ける。ただ、ラムジットの事ばかり考えながら。

 ようやく見覚えのある所まで戻った時には、もうすでに日は沈みかけており、そしてラムジットの家に辿り着いていた時にはその家から洩れる光が唯一の光源に成程、辺りは暗闇に閉ざされていた。

 ようやくたどり着いたラムジットの家の前で、ルーミスは家の玄関の扉を開ける事を少しためらった。しかし、それでもこの扉を開ける事をしなければ、ここまで戻った事の意味がなくなる、それにラムジットに会ってちゃんと話をしたい。その思いがルーミスに扉を開ける為の少しの勇気を与え、少しずつ、ゆっくりとその扉を開けた。

「ラムジットさん……」

 ルーミスのその声にも気が付かないのか、ラムジットは工房で炉の光のみを頼りに何か作業を行っているようだった。

 その姿を確認して、ルーミスはそろりと家の中に入り、ラムジットの方に向かい、何をしているのかその姿を伺う。

 ラムジットはあの壁に掛かっていた剣を研いでいる所だった。少し砥石で研いでは水を掛け、また研ぐ。その作業を繰り返し、剣を眺めてその剣の研ぎ具合を確認する。満足のいく物に仕上がったのか、その剣を鞘の中に納め傍らにそっと剣を置く。

「ラムジットさん」

 ルーミスの突然の声掛けにもラムジットは驚く様子もなく、炉の方を見つめる。

「ラムジットさん。ごめん、私どうしてもちゃんとラムジットさんに話がしたくて……」

ルーミスに背を向けたまま話すラムジット。

「なぜ戻って来たんじゃ」

「だって、あんな感じでお別れするの……」

「今からでも遅くは無い! 早くここから出て行くんじゃ!」

 ラムジットがそう言って怒鳴りつけた時、玄関の扉が開く。

 ルーミスは扉の方に振り返るとそこには何日か前に森の中で出会った、あの気味の悪い笑みを浮かべた男が立っていた。そして、その後ろにも何人かいるようで、松明の火が森の中の暗闇をゆらゆらと照らし出していた。

「トラン、何の用じゃ?」

「なに、この前の返事を聞きに来ただけさ。で、どうなんだ? もちろん良い返事を聞かせてもらえるんだろうな?」

 薄ら笑いを浮かべながら、そのトランはラムジットに話しかける。

「その話は前に断ったはずじゃが?」

 はははは、男は声を出して笑うと、すぐに真顔になり話し出す。

「俺はな、そんな答えを求めている訳じゃない。それに、もともとお前に選択の余地なんてないんだよ!」

 トランは、そう言い終わるか終らないかの間に、ルーミスの方に向かって、いや正確にはルーミスの後ろにいるラムジットの方に向かって、腰に掛かった剣をいつの間に抜いたのか解らない程の早業で抜き、ラムジットに襲い掛かる。ルーミスは身動きが取れないまま、成すすべもなく眼を瞑って立っている事しかできなかった。

 そして、永遠とも思える一瞬が過ぎ、自分の身に何事もなかった事を確認するかのように眼を開けると、目の前にはいつの間にかラムジットが立ちはだかり、先ほどまで研いでいた剣でその男の剣を受け止め、それを押し返した。

「ふん、年は取ったが衰えてはいないようだなラムジット」

 トランはそう言うが、ラムジットはそれに答える事も無く、ただ切っ先をトランの方に向ける。

「まあいい、お前の腕は惜しいが、このまま引き上げる訳にもいかない。可哀想だが、お前とそのお嬢ちゃんにはここで消えてもらうしかないな」

 トランはそう言うと、後ろに立つ男に目配せをすると、男は黙って頷き「やれ!」と外にいる手下だろう者達に声を掛ける。外にいた男たちは、油をラムジットの家に撒く。油の匂いが家の中に立ち込める。

「じゃあなラムジット。ここでお別れするのは残念だが、それもまた運命だな」

 そう言って、後ずさると扉を外から締める。トランが外に出たタイミングを見計らって、松明が投げ込まれ、それは撒かれた油に火を移し、瞬く間に辺りは火に囲まれ、煙が部屋の中に充満する。

「ルーミス。だから早く出て行けと言ったのじゃ……」

 ルーミスは煙を吸い込みゴホゴホと咳をしながらも、答える。

「そんな事言っても、ちゃんとラムジットさんと話がしたかったんだから仕方ないでしょ!」

 手で口と鼻を押さえ、煙を吸い込まないように気をつけて話すが、もうそろそろ限界に達しそうになっているのは明らかだ。

「とにかく、ここを出る。恐らく、外に出れば奴の手下どもに囲まれているじゃろう。わしが隙を作るから、お前はその間に急いでここから離れるんじゃ」

「でも、それじゃあラムジットさんが……」

「わしは大丈夫じゃ。これぐらい昔からよくあった事、だから気にせずにお前はここからすぐに逃げるんじゃ。いいか、解ったな?」

「でも……」

「お前がいると足手まといなんじゃ! いいからわしの言う通りにするんじゃ! わかったな?」

 黙って頷くルーミス。それを見て、ラムジットはルーミスの頭をくしゃくしゃと撫で、微笑む。

「では、外に出るぞ。いいな?」

 黙って頷くルーミス。次の瞬間、ラムジットは扉を蹴り破り外に躍り出る。トランはもそれを予想していたのか、外に出たラムジットに矢を射かける。ラムジットはそれを総て剣で叩き落し、一番近くにいるトランの手下に切りかかる。それを一太刀で切り倒すと、すぐさまその隣にいる男を切り捨てる。瞬く間に二人の男を地面にへばりつくように倒れる。そして次はそのボスであるあの薄ら笑いを浮かべたトランに切っ先を向け切りかかるが、一人の男がその前に立ちはだかり、ラムジットの剣を受け止める。

 少しの鍔迫り合いの後、一旦体制を立て直すために引き下がるラムジット。

「ルーミス! 何をしておる? 早くここから逃げるんじゃ!」

「で、でもそんな事言っても!」

「いいから早く行くんじゃ!」

 そう言っている間にも、ラムジットに襲い掛かる男達。それを一人また一人となぎ倒す。それを見ていたルーミスは意を決した様に鞄の中からお母さんに貰った守り刀を急いで取り出すと、ラムジットの隣に立つ。

「わ、私だって、た、戦える!」

 しかし、その両手に持たれた小刀は小刻みに震え、誰が見ても怯えているのは明らかだ。しかし、それでもルーミスはその小刀を男たちに向ける。その姿を見たラムジットはそっと、その小刀を持ったルーミスの手にその大きな手を添え、ルーミスの両手を降ろす。

「ルーミス、お前には無理じゃよ」

「でも、このままじゃラムジットさん殺されちゃうよ! それをほっておいて私一人だけなんて逃げれない! 逃げるんだったらラムジットさんも一緒!」

 ルーミスの言葉に少し微笑むラムジット。

「ルーミス、わしはお前にはその手は汚して欲しくないんじゃ」

「そんなの私だって一緒だよ! ラムジットさんにこんなことして欲しくない。だから、一緒に逃げようよ! ね?」

「わしはいいんじゃよ。今までにもさんざん手を汚してきた、今目の前にいるあの男と一緒にな。だから、わしはもう手遅れなんじゃよ。だけど、お前だけにはそんな事はして欲しくないんじゃ。だから、ルーミス。ここから逃げてくれ」

 ルーミスに穏やかな笑みを見せるラムジット。

「でも、でも……」

 今にも泣きだしそうになるルーミスに更にラムジットは話し掛ける。

「いいかルーミス。お前はただ逃げるんじゃない、この森を抜けてすぐの所にこの国の騎士が駐屯している砦が有る。そこに行って助けを呼んできてくれ。わかったかルーミス?」

 それでもまだ納得しない様子のルーミスに更に話しかける。

「今、お前にしかできない事なんじゃよルーミス。解ってくれ」

 ルーミスは少し考えて、コクンと頷く。それを見たラムジットはまた微笑みかける。

「今からわしが奴らに切り込む。その時に隙を見てそこまで走るんじゃ。いいなルーミス?」

 今度は力強く頷く。それを見たラムジットは、男たちに向けたままの剣に力を籠め、次に瞬間には男達に切り掛かって行く。そして、一瞬の隙を見逃さずルーミスは小刀を片手に持ったまま走り出す。一瞬捕まりそうになったが、ラムジットがその男に切り込み、ルーミスはその場から振り返る事もせずに走り出す。

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