第2話 信じられなくても事実は事実なのだから
ミンミンゼミの鳴き声が響く。その声で悶えるような暑さに拍車がかかるように、めぐの額に汗が滲んでいた。朝だ。時計を確認すると、目覚ましよりも早く目が覚めたらしい。寝るときにかけていた毛布は、いつの間にか床に転がり、短い袖のシャツはこれでもかというくらい捲れあがっていた。二度寝はできないだろうと考え、体を起こそうとした瞬間、今までにないとてつもない胸の痛みがめぐを襲った。駄目だ。苦しい。額に滲んだ汗は冷や汗に変わり、呼吸さえできないくらいに悪化していた。辛うじて動かせる腕を駆使し、扉の前にたどり着く。朦朧としてきた意識を何とかして保ち、ドアノブに手をかけようとした、その時。扉が開いた。誰かが来たこと、見つかったことで何とかしてもらえるという安堵から、めぐはその場で意識を失った。誰かがめぐを揺する感覚、何か叫ぶような声、何かは分からないけれど、無意識の中で感じていた。
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目を開けるとそこは白い天井だった。
よくある描写から、ここは病院なのだろうと容易に予測することができた。手を胸に当て擦る。呼吸困難になるほどの痛みは消えていた。閉ざされたカーテン越しに、誰かが会話する声が聞こえる。一人は聞き覚えがある女の人の声、もう一人は知らない男の人の声だ。めぐは瞬時に自分の母が医者と話していることを感じ取った。すると、カーテンが開き、母親がめぐの様子を見ようと近寄ってきた。
「目が覚めた? めぐ、体調は大丈夫?」
母親はめぐの頬に手を当て、心配そうに顔を覗き込む。大丈夫、と頷くと、安心したように母親は表情を和らげた。
「後で先生...お医者さんが、あなたと2人で話がしたいと仰ってるんだけど、話せそう?」
頷くより速く、カーテンの向こう側から声が聞こえてきた。
「今大丈夫かな?失礼するよ」
カーテンが開き、医者と思われる人物が入ってきた。四角い眼鏡の、堅物そうな、それでいて優しそうな雰囲気を持つ男の人だ。枕元近くの椅子に座り、めぐの様子を伺う。じっくり眺められることに、めぐは気を不味くする。医者は少し申し訳なさそうにした後、大丈夫そうでよかったと微笑んだ。
「伊原めぐさん。あなたと話がしたいのですが、大丈夫ですか?」
もしかしたら酷い病気なのかもしれないと、覚悟を決めて頷く。すると医者は辺りを見渡し、ここでは話しづらいだろうと、別室に案内してくれた。
「...ここなら、大丈夫かな」
少し怪しげな雰囲気を纏うこの部屋は、何かの研修室の一角であるようだ。たくさんの本が詰まった本棚と、ホルマリン漬けにされた異形の物質が並ぶ棚が見受けられた。医者が立つ近くの机には 、研究資料と思われる書類が無造作に置かれている。
「...治らない病気、なんですか?」
めぐは恐る恐る聞いてみた。医者はめぐに背を向け、しばらく沈黙を保つ。
「君の、胸が痛むという、症状についてだが」
一拍置いて、めぐの方を振り返る。窓の光が反射して、医者の眼鏡が不気味に光った。
「まずは、どんな状態だったのか聞かせてもらえないかな」
優しい口調ではあるが、どこか脅しをかけるようで、めぐは少し恐怖を感じていた。
「...えっと、始めは、2ヶ月ほど前に、微かに心臓の辺りがドキドキする感じがして、それから1ヶ月ほどしたらだんだんその痛みが強くなって、それで最終的に呼吸困難になるくらいに悪化して、...ここにいます」
医者は何か考え込むように、顎に手を当てる。もしかして病名がまだはっきりと定まっていないのかもしれない。詳しく聞くために呼び出したのだろうか。しかしそれならば病室でも聞けたはずだ。この怪しげな部屋に呼び出されたからには、きっと何かまだ重要なことがあるはずだ。などとめぐは頭を中を巡らせていた。すると医者は不意にこんなことを言った。
「君は、家族や友人に最後のお別れの挨拶を済ませてきたのかな?」
瞬時に理解ができなかった。お別れの挨拶とは一体何のことだろうか。突然の問いに返事を出来ずにいたら、医者は眼鏡を指で押し上げて言葉を続けた。
「躊躇っても仕方ないから、はっきり言おう。君はこれからここで一生を過ごすことになる」
思考が停止する。
「胸に、昔からの手術痕があると思うが」
私と家族くらいしか知らないことを知っていることに驚くが、直ぐ様先程の手術でこの人にも見られたのだと判断した。
「あれは何か理解しているか?」
医者がめぐに近づく。
「...ただの手術痕、ではないのでしょうか...?」
「君は知らないまま育てられたのか」
医者は躊躇うことなくめぐの着衣を捲った。
「...っ?! ...ちょっ...と! 何を...?!」
抵抗する間もなく、医者はめぐの胸に手を当て、手術痕に爪を掛ける。すると箱が開くように、めぐの胸の一部が手術痕に沿って開いた。
「...な、なに...これ......」
「君の心臓はすでに普通の心臓ではない。科学的に開発された医療用バッテリーが君を動かしている」
医者はめぐの胸から手を離すと、白衣のポケットから拳大の大きさのバッテリーを取り出した。
「このバッテリーは、君が以前使っていたものだ。今は新しいものに交換してある」
めぐは恐る恐る自分の胸に手を当てる。どうやら血は出ていないようだ。それに痛みも感じない。開かれた胸の奥を軽く触れてみる。人の肉体のような柔らかさは感じられず、無機質な冷たく硬い物質が埋め込まれていることが手のひらから感じられた。探るように指を動かすと、少し温かく、微かに振動している物体に触れたことに気づく。
「それが、今の君の
医者は手にしたバッテリーを白衣のポケットにしまうと、言葉を続けた。
「君が訴えていた"胸の痛み"だが、あれはバッテリーの寿命による【警告】だ。こいつ自体の寿命は10年」
医者はめぐの目を覗き込むように見つめる。何が言いたいのか分かるだろう、と言いたげなその瞳は、どこかおぞましさを孕んでいた。
「10年前の…私の手術って…」
口にして、はっとする。めぐが8歳の頃、死に至る可能性のある心臓の病にかかり、その手術をしたことを思い出した。当時は幼かったが、今でもまだ鮮明に記憶に残っている。今回胸の痛みで病院を尋ねたように、胸に痛みを感じ病院を訪れた。そこで言い放たれたのは10年に一人かかる程度と言われるくらい稀な病のことと、手術したとしても治る見込みがないこと。そして、来年の今頃の生存率が5%だということ。それを聞かされた両親は泣いていた。医者の前で、めぐの前でみっともなく泣いていた。ここから先は難しい話だから、と看護師に別室に連れて行かれたことを、一つずつ、一つずつ、記憶に蘇らせていた。また一つ思い出したのは、目の前の医者が、当時の心臓の手術をした医者であるということ。10年前は真っ黒だった髪も白髪混じりの髪に、深くなった皺が時の流れを物語っている。
「君のご両親に了承を得て、君の心臓をバッテリーに組み替えた」
「…じゃあ、あの時の手術は…心臓を治すためじゃなくて……」
「バッテリーを入れるための改造に他ならない」
「……待って、お母さんとお父さんに了承を得たって…」
医者はめぐが席を離れた後のことを話した。普通の手術をして治すことができたとしても、5年後の生存率は手術前とほぼ変わらないと伝えたこと。しかし、ただ一つ、可能性があることも伝えた。公にされておらず、秘密裏に行われている研究がある。その研究は未完成だが、彼女の命を助けるには充分であると告げた。めぐの両親は藁にも縋る思いで、その研究を使ってめぐを助けるように願ったという。そこで、医者は二つの条件を提示した。一つは、研究の内容および研究自体のことを家族を含めた第三者に公言しないこと。もう一つは、未完成の研究に協力すること。両親はそれに承諾し、誓約書にもサインをした。
「君の心臓が人間の心臓でないことは、もう知っている」
「……そんな」
「当時、このバッテリーは試作品でね、定めた寿命に達しないことが多かったんだ。しかし、今回君がきてくれたことで、完成系に近づけたと言ってもいい」
医者はめぐの両腕をつかみ、今までの口調とは異なる、ハキハキとした口調で話しかけてきた。
「私からの約束は果たした。これからは君の約束を果たしてもらうよ」
突然知らされた事実と現実に、未だに適応できずにいた。めぐの頭の中は混乱したままで、単純な言葉さえ言えないでいる。おぞましさを持っていた医者の瞳は、いつの間にか恍惚と輝く狂喜に満ちていた。
「さぁ、皆に別れの挨拶を」
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