第2話 

今いる僕の部屋(一階の、しかも四畳半の和室)はもちろんのこと、僕の家のすべての部屋にはエアコンがない。


比呂ちゃんが生まれた頃(つまり二十四年前だ)、エアコンの乾いた埃だらけの空気が赤ちゃんに及ぼす悪影響をテレビで知った父親が、その瞬間に取り外してしまったのだ。以来、その当時存在すらしていなかった僕が、赤ちゃんでなくなってから随分経った今も、わが家にエアコンはカムバックしていない。


それにしても、電気屋という職業からすると、これはかなりまずいんじゃないかと思うのだが(だって自分んちで使ってないものを、余者よそさまに売るわけなんだから)、親父はまったく気にしていないようであった。

かく言う僕は小学生の頃、大いに気にしていて、夏は友達を自分んち呼ばないという方針を貫いたものだった。まあ実際のところ、後から言う理由によって、いまでもほとんど(特に女の子は)家に呼ばないんだけど。


でも僕自身はエアコンがないことで、あまり不便に思ったことはない。ぼんやりしているときは、別に暑かろうが寒かろうが関係ないし、集中したいときは(たとえば受験勉強とかね、これでも僕は受験生なのだから)図書館に行けばいい。つまり僕が言いたいのは、なにもエアコンと二人三脚する必要はないってことなのだ。まあ、電気屋の息子が言うセリフじゃないけど。


秋ちゃんはアルバムを抱えたまま、おもむろに扇風機ににじり寄り、顔を思いっきり近づけた。

秋ちゃんの、形のいいひたいがあらわになって、僕はなんだか、どきどきする。

近所でも「男前」(いまどき流行らない言い方だけど、商店街の焼き鳥屋のおばさん──もしかしたら、おばあさん、の方が正しいかも──は、いつもこう言うのだ)で有名な秋ちゃんの家の前には、たまに見知らぬ女の子が、うろうろしていることがある。


夕暮れ時に、女の子の長い影が、僕の家の前まで伸びたまま、じっと動かないのを見ていると、秋ちゃんのことがうらやましい、と思う反面、なんだか大変そうだなあ、とも思う。もちろん、うらやましい=九十九パーセントの残りの、たった一パーセントくらいなんだけどね。


かっこいい男、として生きるというのは、どういう気持ちなんだろう。僕はたまにそんなことを考える。

まあ、僕みたいなフツーの男には一生わからないのだろう。

僕とは違う次元に暮らしている秋ちゃんは、幼いころから僕にとってのヒーローだった。


「おお、涼しいけど、コンタクト飛びそう」

秋ちゃんが目を細めた。

「秋ちゃん、どっちだっけ。ソフト? ハード?」

「ハード。安くて手入れが楽ちん、男子学生の友よ。達也は?」

「俺? してないよ。両目で1.2あるから。わが家うちは俺以外はみんな悪いんだけどさ。比呂ちゃんなんかド近眼で、コンタクト入れてないとやぶ睨みですごいんだ。外では掛けてないらしいけど眼鏡は冗談じゃなく、渦、巻いてるし」

「いつの時代の話だよ」秋ちゃんは再びアルバムに目を落とし、何ページかめくった後、ため息を吐いた。


「そうだよなあ、ここに写ってるのは、嘘の比呂ちゃんなんだよなあ」(つづく)


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