5.4 Melt Interface O.S. - 10011001
ブツリという音がして、ノーヴの中に張り巡らされた映像は、一切が途絶えた。視覚から得られる情報だけではなくて、香りや触覚など、五感から感じられる情報も、丸ごと消えてしまった。ノーヴの目には、べとべととした感じの白と、自分より一回り小さい少女だけが映った。
意識が失われていたのだろうかと思ったけれど、それは違うらしい。もしそうだったら、ノーヴは倒れてしまっている筈だから。今ノーヴは、両脚で、しっかり大地に立っている。とは言っても、この真っ白の空間でいう大地が何を指すのかは、ノーヴでは定められないのだけれど。
ノヴァが、空中に浮かんで、逆さまになった。でも、周囲と同じ色の髪の毛は、ちゃんと肩に乗っかったままだ。
『N.O.U.V.Tシステムは、血液濾過という観点から、成功と言えるでしょう。問題は、あなたにあったのです』
ノヴァの口は、いつも通り、少しも動いていなかった。いつも、と言えるほど長い事彼女とお喋りをしたとは、ノーヴは思っていないけれど、とにかく、不思議の寄せ集めだという事は、わかった。そして、自分が仕事を忘れて、世界のリセットを行わなくても良いのに、力を解き放ち、生命維持装置を壊してしまった事も、ノーヴは理解した。ノヴァの言う通り、問題だらけだ。
となれば、この先の結末は、物知りでないノーヴにも、想像できる。このままとどまり続けても、死んでしまうのだ。塔はなくなり、仕事も全うできなくなった。
きっと自分は、既に用を終えた存在なのだと、ノーヴは判断する。
やっぱり表情を変えないで、ノーヴの顔をじっと見つめていたノヴァ。彼女は、ノーヴの心境に構う事なく、告げる。
『世界の大部分は、一五四回目に足を踏み入れています。今をもって、世界のリセットが行われたと判断し、あなたを取り込みます』
取り込む。つまり、死ぬという事だろう。ノーヴは、死を告げられているのだと、理解した。
拒みたいという気持ちは、ない。彼女にとって何よりも尊いエズラという名の少年が、いなくなってしまったのだ。彼のように、死んでも良いだろう。
受け入れた。ノーヴは、告げられた死を、迷いなく認める。けれど、幾つかの心残りがあって、それらが寄り集まって、大きな
道具だった。けれど、心を持ってしまった。その心こそが、大切なものを知るきっかけになり、そして、壊すきっかけにもなった。
記憶の奥底から、辛辣や皮肉といった類の言葉が、思い出された。ノーヴは、頭に自分の手を添える。
「あの時。私はどうすれば良かったの?」
声を出して、問うた。そうする必要がないと、わかっているけれど。なんでも知っているノヴァなら、簡単に答えを教えてくれるだろう。けれど、今となっては無駄な事だ。心とは、厄介なものだと、ノーヴは側頭部に置いた手で拳を作り、自分の髪を巻き込ませた。
ひっくり返っているノヴァが、脚を下に向ける。ノーヴから見て、正しい位置と状態に、戻ったのだ。
『あなたに宿った異質は、圧倒的な破壊の一点に尽きます。あなたは、単純な破壊能力のみで、世界の理から逸脱しているのです。私は、あなたを生成した時、世界の管理を任せるべきか、躊躇いました。管理に向いていない力だったからです。ですからあなたは、欠陥品なのです。あなたでは、少年を救う事は、出来なかったでしょう。加えて、あなたの力を受け止めた世界が、辛うじて形を残しているのは、偶然です』
救いなど、ちっともない、冷たい回答だった。ノヴァ曰く、ノーヴはエズラを助ける事はおろか、自分の背中に乗っかっていた重大な仕事すらも、全うできるかどうか、危うい状態だったらしい。きっと、ノヴァの言葉通りなのだろう。ノーヴでは、一人の脆い人間を助ける事など、初めから出来なかったのだ。
けれど、世界にとっては救いがある方なのだろうと、ノーヴは思う。自分の体を作っている力は、この後生まれるオブザーバーに、再利用されるのだから。きっとそれは、欠陥品じゃない。ノーヴに達成出来なかった事を、しっかりと成し遂げてくれるだろう。
ちょっとだけ、沈黙する。経て、ノーヴは、物知りの白い少女に、身を委ねる決断をした。
廃退的、という答えなのだろうか。ノーヴはこの期に及んで、自分の状態について考えだす。そんな心の中身は、きっとノヴァには見えている。
ノヴァが、頭の中に、言葉を這わせてくる。
『先に述べた通り、あなたは感情が発達しましたから、そぐうように、無駄な事を一つだけお教えしましょう。私は、あなたを吸収する事で新しいオブザーバーを生み出しますが、私の設計した次なるオブザーバーは、上手くゆけば、あなたが尊いとする者へ、生を与える事が出来るかも知れません。つまり、少年を生み出す事が可能かも知れない、という事です。いずれも、あなたの死を代償とする事は、揺らぎませんが』
最後の決断。その間際にノヴァは、突拍子もない提案をしてくる。だからノーヴは、呆気にとられて、しばらく何も言えなかった。思考を占領した雑多な感情が、丸ごと、呆気に変わってしまったのである。
我に返って、口を閉じる。半分だけ開けていたら、口の中に砂粒のような何かが入っていた。
「本当に……?」
『可能です。更に敷衍しますか?』
すぐに頭の中へ、ノーヴが求めた答えが返ってきた。きっと、本当にエズラを助ける事が出来るのかも知れない。けれど、彼にとっての世界なんて、どこにも残っていない。輝く町や、霧が立ち込める森、そして、鉄を叩く音がこだまする工房も、何もかも、消えてしまっている。それに、ノーヴは死んでしまうから、そんな世界を見た彼が、喜ぶかどうかも確認できない。
どうするべきか。先ほどまではすんなり決断出来たけれど、ノーヴにとって嬉しい話は、しかし、ここへ来て考えを鈍らせて来る。
ノーヴはしゃがんで、自分の頭を抱えようとして、手を顔の前へ出した。
その手が、地面を覆っている白い粒のように、パラパラと、端っこから崩れていた。
止まらない。止まる気配が、ない。自分が壊してしまった世界は一瞬だったけれど、粒になって落っこちるのも、早かった。ふと、腹部へ目が行った。そこから流れ出ていた銀色が、生き物を流れる血のように、茶褐色へと変化していた。でも、体は不思議と、光を放ち続けている。いつもより強い紫を見たノーヴの直感は、残された時間が少ないと教えてきた。
白い粒が敷き詰められた地面から、足首位まで浮き上がったノヴァが、ノーヴにゆっくりと近づいてくる。そして、手を伸ばせば届く距離で、ピタリと止まった。
『これ以上崩壊が進むと、力のリサイクルが出来なくなります。決断出来ない場合、何も考えずに死亡する選択をして下さい。死亡に伴い意識が消失するならば、結果がどうあれ、あなたでは観測不可能です。従って、あなたが事後を気にする必要は、ない為です』
「待って――」『これは、現在のあなたの意思を尊重するか否かの問題です。他でもない、あなた自身が、です』ノヴァが、ぐっと離れつつ、言葉に重ねた。
手が届かない位置まで移動してしまったノヴァを追いかけようと思って、腰を上げる。一歩踏み出す為に足を前に出した瞬間、地面を掴んだ右足が、ガタガタと震えて、ノーヴの体を転ばせた。一体どうなってしまったのか、脚を見る余裕は、ノーヴにはない。ただ、動く為に必要な力が失われてゆく感覚が、全身に行き渡った。きっと、手がそうだったように、足も、胴も、やがて全部が、崩れてゆくのだろう。
目を瞑る。もう何も、見る必要は、ない。そうして、ノヴァの言葉について、考えだす。
死ねば、元には戻らない。それなのに、死んだエズラは、ノーヴが消えた後に、どこかから世界へ帰ってくる。それが彼にとって喜ばしい事だったら、ノーヴも嬉しい。でも、ノーヴはそれを確かめる術を持たない。ノーヴは人間ではなく、神様なのだ。神様を世界に戻すのは、きっと、ノヴァでも難しいのだろう。
そんなノーヴの意思を尊重するかどうかと、ノヴァは言った。死んだ後の事は関係ないけれど、今、生きているノーヴの意思を、尊重するかどうかと、真っ白い女の子は、言ったのだ。
もし、エズラが新しい世界に絶望したら。悲しみの内に生きる事は、辛い事なのかもしれない。きっと誰だって、そうだろう。でも、心がエズラに伝わらなかった事だけは、ノーヴには認められなかった。それは、伝えておきたい。
神様は、人間と同じなのかもしれないと、ノーヴは思った。ノーヴのように身勝手で、誰かや何かに肩入れして、そして、身勝手に死んでゆく。残された者に、気持ちが伝わらなかったとしても。
それでもノーヴは、願ったのだ。いつかきっと、想いが彼に伝われば良いな、と。
瞼を持ち上げる。もう、ノーヴの体からは、殆どの感覚が抜け出てしまって、目の前の白い砂粒さえ、見えなくなっていた。そんな不自由な体に、ありったけの力を込める。
それは、言葉になって、口から漏れ出る。
「生き返らせて。そうできるなら、私は心残りが、ない」
どこかから、応じてくる。
『了承しました。では、これにてあなたの仕事を終了させます。さようなら』
何か、心地よい感覚がした。めっきり、感覚はなくなっている筈なのに。
背中に、誰かが触れている。ノヴァだろうか。
そう思った途端、ノーヴは光を見た。それは、自分の体から出るような、紫色ではなくて、眩い位の白だった。それを眺めている内に、再び、それもゆっくりと、ノーヴの感覚が霞んでゆく。
ノーヴは、徐々に融解して、果てに形を失った。
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