4.5 Count = 153;

 エズラは、とっくの昔に走り出していた。トラキアの軍人達は、何を血迷ったのか知らないけれど、町に火を放ち始めたのだ。少年では、どうする事も出来ない。力のなさを自覚しているエズラには、町の光景が、神の息吹に晒されているように見えた。激怒して、何もかもを燃やし尽くしているのだ。けれども、抗う事が出来ないという点では、神の息吹だろうと、軍人の放つ火だろうと、同じ事かも知れない。

 でも、エズラはたった一つには、絶対に抗うと決心していた。だからこそ、この先二度と動けなくなっても良いから、今だけは動いてくれと、足に酷を強いるのだ。それは、トラキアの軍人達が切り捨てて、そして、すり潰してきた骸の山に、ノーヴを混ぜる訳にはいかないという事だ。もし、自分が死んでしまったとしても、彼にとって一番認めがたい運命からだけは、逃れる。

 剣やメイスが振り回される音。暴力集団を横目に入れて、エズラは遠く遠くへと、離れ続ける。そんな時、エズラの視界に、傷を負った女性が倒れていた。近づけば、赤い溜まりが出来ている。背に、見るも痛ましい大きな傷が出来て、そこから血が流れていた。

 エズラは、その女性を知っていた。

「おばさん!」

 民家の石の壁に身を隠すようにして、近寄る。地面に引っ付いている太ったおばさんは、雑貨屋の女店主だった。良くして貰っていたものだから、見捨てるなんて事が、彼には出来なかったのだ。例え何ものにも代えがたいノーヴに危険が迫っていたとしても、エズラは神様ではなくて、人間なのだから、どうしても止まらざるを得ない。神様ならば、目的に素直で、おばさんを見捨てているのだろうか。

 おばさんが、ゆっくり、頭を持ち上げた。が、なんと、彼女の顔の半分は、潰れていた。

 ギョッとして、心臓の鼓動が早くなる。今まで走っていたものだから、目いっぱいに、である。けれど、そんなエズラを見ても、おばさんはお構いなしの感じで言う。

「さっさと……行きなさい、私達の御神を……」

 それからおばさんは、頭を地面に落っことす。その時のゴツンという鈍い音は、エズラの頭の奥にこびり付いた。きっと、忘れられない出来事になるだろう。が、それよりも、おばさんは”御神”と口にした。塔は町の象徴だけれど、神様ではない。だから、おばさんは混乱してしまって、塔を神様だと言ったのだろうか。それとも、信仰を集めるものは、神様と呼ばれるのだろうか。エズラが学校へ通っていたら、何が正しいのか判断は容易だっただろう。

 エズラは、近場で燃え盛る火の熱気を受けて、浮かんできた残念さを、振り払う。こんな事で悔やんでいる場合ではないのだ。

 聞こえているかはわからない。触っている感覚も、伝わっていないかも知れない。けれどエズラは、おばさんの肩に両手を添えて、気持ちを分け与えた。

「さようなら、おばさん」

 傷へそっと触れて、立ち上がる。ヌルっとした感覚が、指で伸び広がった。するとエズラの瞼は、急に腫れ上がった。まもなく瞳は水中へと沈んで、景色が霞んでしまったけれど、走らないといけないのだ。だからエズラは、おばさんから急いで離れつつ、視界を遮る液体を強引に拭って、心で体を制御しつつ、全力で駆けた。もたもたしていたら、自分の命だって奪われてしまう。おばさんの気持ちに報いる事だって、出来なくなってしまうのだから。


――くっそおおおおぉぉ!


 見つかる事は、承知だ。でも、内に溜まり込んだ真っ黒い何かを吐き出さないと、とても忍ぶ事が出来なかったから、エズラは叫んだ。その選択は、足に溜まる疲労も、ちょっぴり誤魔化してくれた。




 やがてエズラは、町の端っこに到着した。もう、すぐそこに、ノーヴの待つ光の塔がある。だから彼は一気に突っ込まんと、勢いを維持したままに、駆ける。すると、光の塔に至る坂道の中ほどに差し掛かった所で、沢山の町の住人が、血を流し、倒れていた。ギラリと光るモノもあったから、近づいてみれば、トラキアの乱暴者も、何人か転がっている。どうやら、町の住人とトラキアの軍人は、争ったらしい。

 トラキアの乱暴者達と比べれば、住人は遥かにひ弱だろう。その形跡を、エズラは確かに見た。鎧の軍人の厳めしい兜の隙間から、僅かな血を伺い知れる。たぶん、光の町の人々は、塔を護らんとしたのだろう。だから、驚くべき事だけれど、ここで踏みとどまって戦った痕跡として、屍が地に寝そべっている。

 町から届く焼けた香りと一緒くたになって、エズラは少々背筋が寒くなる。目的を強く意識し、恐ろしい現実に震える心をぐっと堪えさせ、竦む両脚に再び力を込めたエズラは、死の山を跨ぎながら、坂道を上った。この坂の先には、光の塔があるのだ。

 何よりノーヴが、待っている。

 もし、トラキアの軍人にみつかってしまっても、誰にも追いつかせない。今エズラは、逃げ切る事に関して、絶対的な自信を持っている。けれど、坂の上の方では、恐ろしい軍人が待ち構えているのか、それとも、光の町の住人がいるのか、彼にはわからない。だから、ここぞとばかりに、エズラは慎重を期して両足を動かした。

 と、エズラの後ろから、ギリギリと軋む何かの音が、微かに届いた。

 それは、忌々しい、死の音。

 こめかみをなぞった嫌な汗を、袖口で拭う。そしてエズラは、上ってきた坂の下に目をやった。すると、鎧をこすり合わせる、刺さるような嫌な音が、ずっと下の方から聞こえてくる。オレンジ色に染まった光の町を背景に、銀色の集団が、隅っこで輝いていた。

 ぐずぐずしてはいられない。もう、エズラに残された道など、一つしかない――端から、選ぶべきは決まっていたのだけれど。だから彼は、この瞬間まで生きてきた中で、最もと言っても良い位に、彼に眠る全ての力をひりだして足へと込め、いっぺんに残りの坂を駆けあがった。

 塔の根っこが見える。同時に、多くの人が集っている光景が、視界に入った。乱暴者かと思って、肝がヒヤリとしたけれど、そうではなかった。光の塔の入り口周辺には、生き残った町の住人達が、それぞれ手に武器を握って、侵入を阻むかのように、並んでいたのだ。

 男性がいた。中には女性もいた。更に、エズラと同じ歳位の少年少女がいた。加えて、老人もいた。

 一体どうした事かと、完全に面食らったエズラは、後少しという所で、足を止める。そんなエズラを見ていた一人の男性が、前に出てきた。

「何をしてる。君にしか、俺達の神様は守れない。ノーヴは中で待っているんだろう?」

 男性が、肩に太い鉄の棒を担いで、口角を持ち上げた。見流せば、皆がエズラにまなざしを注いできていた。

 口など、動かなかった。エズラはもう、何も言えなくなってしまう。

 町の人々は、ノーヴの事を知っていたのだ。どこで彼らがその情報を手に入れたのか、エズラにはわからなかったけれど、少なくとも彼らは、自分と同じく、神様であるノーヴを護る為に、こうして塔の前にいたのだろう。自分が死ねば、神様云々という話ではない筈なのに。

 けれど彼らは、間違いなく立っている。そして、トラキアの軍人達と戦う為だろう、頼りない武器を手にして、微笑んですらいるのだ。エズラには、光の町の住人が、塔に対する信仰の深さを証明しているように思えた。

 だから、その気持ちに応えぬ訳には、いかない。

 重い口を、無理やりこじ開ける。

「……トラキアの軍人達が来てます。お願いします」

 エズラはそれだけ告げると、塔の入口へ向かい、確かな足取りで近寄った。住人達が左右に割れ、彼を迎え入れる。塔の内部を照らす淡い光に溶け込んだ彼は、振り向く事をしなかった。




――光の町の住人達は、そのほとんどが、理解していた。

 自分達では、明らかに、トラキアの乱暴者を下す事が出来ないと。仮にノーヴが助かっても、自分達は絶対に助からないと。幾ら抵抗しても、トラキアの暴力は、住人のそれを遥かに上回る。故に町の住人達は、ほとんど死ぬ為に立っているようなものと言えるだろう。だが、住人は誰一人として立ち退かない。尤もそれは、当たり前とも言える。死ぬ為に立っているのであれば、それを継続する意志など、端から持ち合わせていたという事だ。

 集った者の決意は、本物である。神を護れる唯一の少年が述べた、”死がやってきたという事実”さえ、酷とはならない。寧ろそれは、揺るぎなき決意の証明手段に他ならないのである。

 やがて、死を運ぶ者達が、住人達の前に立ちはだかった。軍人達にとっても、光の町の住人は、障壁として憚っているのだろう。

 町の住人の中から、一人が声を上げる。

「てめぇらに塔は渡さねぇぞ!」

 精神の滾る声を受けた住人達は、内に秘めた決意を、更に強固なものとした。びっしりと張った意志の根は、彼らに、”言葉通りにするべきだ”と、思わせた。ある者は、天啓にさえ感じられる程であった。またある者は、続けて声を上げた。一方トラキアの軍人達は、笑いも動きもせず、住人の思いを、静かに聞いている。

 やがて、軍人の中から、一人が前に出てきた。トラキアの軍人を纏める者である。一等立派に見える装備を、見せびらかすかの如く胸を張り、腰に携えた剣を一気に抜いた。掲げられたそれの切っ先が、眼下で燃える町の光を受けて、妖しく瞬く。

「出来るならば、して見せろ。だが我々は、一人残らずお前達を殺す。故にお前達の望みは叶わん。選択を誤ったな。悔恨に沈め」

 言われずとも、光の町の住人は、理解していた。しかし、決定的に否定出来る事柄は、確かに存在する。仮に自分達が死んだ所で、望みが叶わぬ訳ではない。

 少年である。彼は、絶対に神様を救い出す筈だ。

 そう信じて、住人達は、全ての望みを託した。だからこそ、望みの為に、また、彼の為に、あるいは神様の為に、住人は死の軍勢に立ちふさがる。

 かくして、ひ弱な光と、鋭い暗銀がぶつかる。

 所属に関係なく、多くの者は、結論が見えていたにも関わらず――。




 エズラは、塔の中を駆ける。町の人々を残して走り出してから、すぐに、その音は聞こえてきた。

 それは、誰かが生を紡ぐ音でもあり、誰かの死が紡がれる音でもある。力と力が衝突した音だ。ガシャン! とか、ガキン! などと、重い軽いを問わず、金属同士を乱暴にぶつけ合う騒々しさが塔に入ってきたと思えば、誰かの悲鳴が混ざりこんだりもしてきた。けれどエズラは、ずんずんと、奥へ向かって進んでゆく。だから、やがて音は小さくなって、聴覚から完全に姿を消した。

 想いを、託された。そしてエズラ自身も、結果を出さないといけない。あらゆる人々の共通の想いを成就する事が出来るのは、エズラだけであり、彼自身もそれを理解しているのだ。つまり、己を動かす二本の脚に力を注ぎこんで、進み続けなければならない。

 ノーヴを救い出さなければならない。

 狭い階段。エズラはここを、何度も上ってきた。彼女に会う為だ。

 長い長い通路。ここも彼は、幾度も通り過ぎてきた。彼女に世界の輝きを見せる為だ。

 円形の石の柱が均等に並ぶ、広間。ここだって、彼女と共に塔から脱出する為に、忍びながら進んだ事がある。

 そして、巨大で、不可思議な医師の扉。最初から最後まで、エズラは必ず通過してきた。この先に、ノーヴがいるから。


――ノーヴ!


 喉が潰れても構わないと、エズラは絶叫する。あちこちを反射した彼の気持ちに、石の扉が応えた。

 それは今までにない位に、勢いよく開放された。中から、一塊のひんやりした空気が、エズラの全身を、とく、押出そうとする。けれど彼は、前に出る事でそれを真っ二つに切り裂き、踏み込んだ。広大な暗闇に身を投じたら、壁面から紫色のラインがエズラの道を示す。その先で、寂し気に光る紫色に向かって、彼は殺到した。

 ノーヴが、立ち上がった。間髪入れず、彼女はエズラに向かって駆けてくる。だからエズラの視界で、淡い光を放つ彼女は、大きくなった。やがて、かなり長い時間と、あらゆる思いを経て、彼はノーヴと逢着する。こんなに彼女の事が待ち遠しかった日は、初めてだ。

 ノーヴは、エズラの名を口にし、「待ってた」と二の句を継ぐと、見るからに嬉しそうに走ってきた勢いのまま、エズラへ抱き着く。相変わらず華奢な彼女の怪我が治るまで、後少しあった筈だけれど、エズラには、十分元気に見えた。が、現状は到底楽観できるものではない。この先の予定についてなど、エズラに考えがある訳でもない。エズラは、兎に角、一刻も早く彼女を塔から連れ出さなければと、再開の余韻も束の間、辿ってきた道へ焦点を当てる。

 何も言わず、ノーヴの小さくてか細い体を抱き上げる。そして、入ってきた入口に向かって、一目散に駆けた。町の人々が時間を稼いでくれているから、彼らの事を考えれば、少しだってもたついている暇はない。広間の穴を使う事も頭を過ったけれど、それは外に直結している。戦っているトラキアの軍人達に見つかる事は必至だろうから、とても飛び込む気にはなれなかった。

 いきなり持ち上げたから、ノーヴはびっくりしたのだろう。目を丸くして、強くしがみついてくる。けれど彼女は、何も言わなかった。前にも同じような事があったから、きっと、エズラの切羽詰まった状況を、ちゃんとわかっているのだろう。

 エズラは、部屋から飛び出す。そして、途中まで、通路を逆走する。けれど、馬鹿正直に出入り口へと戻るつもりはない。そんな事をしたら、穴に飛び込む事と同じなのである。だから彼は、うじゃうじゃと群れているだろう軍人達から離れる為に、立ち入った事のない通路へと、入り込んだ。塔の中に潜んで、隙を見て逃げるつもりなのだ。

 いずれ軍人達が、町の住人を下して、中に侵入してくるだろう。本当は、皆に生きていて欲しい。でも、敢えて、奥へ奥へと進んでゆく。手伝えるとすれば、紛れもなく、ノーヴを救出する事なのだから。

 途中から、通路はどんどん細くなってきて、とうとう、ノーヴを抱き上げて通過するのが、難しくなってきた。エズラは彼女を一度降ろして、後ろを見ずに、手を握る。彼女の手は、やっぱり小さくて、脆そうだった。小走りに、一直線の狭い通路を延々と進んでいると、上り坂になっていた。進むにつれて、急さが増してゆく。よじ登るという程ではないけれど、体を前に傾けないと、上るのに一苦労する位だった。

 やがて、今まで石の通路を進んできたエズラの目の前に、未知が現れる。そこに、一歩踏み込んだ。

 エズラが入ったのは、細い通路と一続きになっていた、こちらも通路だ。形は真四角で、入口付近の石の通路と同じである。けれど、大きさと材質は、それと全く異なっている。少しの凹凸もない繊細な表面であり、不思議と、真っ黒い光沢に覆われていた。彼の持つ、黒金の鉄砲よりも、ずっとつるつるしており、深い色だ。見た事もない質感。金属のような深さと重みを感じるけれど、ガラスのような繊細さをも兼ね備えている。そんな上辺や下辺、更には左右の壁面には、満遍なく、紫色の光の筋が、張り巡らされていた。まるで、人の血管みたいだ。時計職人のくみ上げた、宝石入りのそれよりもずっと心を魅了し、それでいて、生を寄せ付けないような冷たさを醸し出している。今までエズラが見てきたあらゆる物体と比較して、異質という言葉が相応しかった。何しろ、生き物らしくもあり、生を感じない。かと言って、機械よりも、仕掛け染みた印象がある。

 そんな不思議な通路は、先を見る事を許さない。奥までの距離が長いのか、途中で曲がっているのか、それとも、突き当りの壁が、深い黒で光を貪欲に食べてしまっているのか。エズラは、進路上に延々と続く紫の筋と、漆黒の光沢を見て、美しさを見出しつつも、ちょっぴりため息が出る思いだった。

 本当は、立ち止まってこの風景を目に焼き付けておきたい。けれど、そうしている時間がないのは、よくよく、それも最初からのんでいる。

 と、エズラの視界の隅っこで、何かがちょろちょろと動いた。ドキッとして、動きのあった左側の壁へ、頭を向ける。すると、紫色の光が、エズラの歩調に合わせるように、壁の中で移動していた。

 それは、今までの紫色とは、様子が違う。強いて言うなら、ノーヴが怪我をした際に滴った、濃い白銀から放たれるような、力強さのある紫色だ。決して淡いとは言えない。更に奇妙な事に、その紫は、何やら文字らしきを示しているらしい。何となくではあるが、エズラはそこまでを理解できた。が、それ以上はわからない。文字がどんな意味を含んでいるのかなど、当然読解不能だ。

 ノーヴを見れば、彼女も気づいているらしく、文字を見て、首を傾げている。きっと彼女も、意味がわかっていないのだろう。

 やがて文字列らしきを作っていた濃い紫色の光は、壁の中でぐるぐると回転したかと思えば、唐突に、破裂したかの如く、飛び散っていった。破片を目で追いかけたら、紫の筋に吸い取られるようにして、なくなってしまう。

 着実に歩みを進めるエズラは、その不可思議な現象に心を持っていかれそうになったけれど、すぐに現実へと引き戻される事になる。同時に、胸が熱くなって、恐怖が注がれ、鼓動が早くなった。

 追いかけてくる死の音を、エズラは聞いてしまったのだ。恐らく、トラキアの軍人達が、やってきた。二人の存在を把握しているかは不明だけれど、進路が重なっている事は、明らかだ。それが意味するのは、町の人々が敗れ、エズラ達に危険が迫っている事だろう。

 ノーヴの手を、一層強く握りしめる。腕を身に寄せて、彼女を傍に近づけさせる。

 エズラは唐突に、鞭に打たれた馬の如く、乱暴に脚を酷使し始める。きっとノーヴには大変な思いをさせてしまっているだろうけれど、この時ばかりは我慢してほしいと、エズラは切に願う。ただ、転んだりしないように、彼女を上に引っ張り上げる恰好をとる。”何か”が言った怪我の完治期間を、満たしていないのだから。

 するとノーヴは、エズラの心境を察したのだろうか、握り返した手に、力がこもった。けれど、やっぱり彼女はひ弱だと、エズラは思う。彼女の小さな手から伝播する力は、とても頼りないものだった。




 かなり長い事、エズラは走った。どれだけそうしていたかなど、彼には見当もつかない。それだけ、死の音から逃れてノーヴを救うために、彼は足をせっせと動かし続けた。いっそ、光の塔はこんなに広かっただろうかと、彼は自分の認識が間違っている推察さえしてしまう始末だった。

 だと言うのに、未だに区切りというものが見えない。到達するべき場所が決まっている訳ではないけれど、景色が変わらないものだから、エズラは、息ばかりを大きくしてゆく。正に、疲労困憊だった。けれど、通路に傾斜が発生したり、そうでなかったりしたので、確実に前には進んでいるのだろう。加えて、ノーヴが握り返してくる力にも励まされていたから、エズラはまだまだ大丈夫だと、自分に言い聞かせる。

 たったの二つ。それらの励みを支えにして、エズラは走る。もう、小走りという程度まで、速度を落としてしまったけれど、そんな彼の行く先に、暗黒が憚った。

 嬉しい事などではない。なぜなら、上を見ても、下を見ても、前を見ても、道は残されていなかったのだから。エズラは、頭の中身をぐしゃぐしゃに引っ掻き回された気分だった。


――嘘だ。


 立ち止まる。自分の荒々しい吐息のみが、行き止まりに反射して、連続的に鼓膜へと染みる。その度に、滾っていた心が無味無臭に侵されて、やがて彼の中に絶望と虚無の棲み処を作った。けれど、現在の心境をノーヴへ述べるつもりなど、なかった。

 その筈であったが、

「どうしたの、エズラ」

 ノーヴが、握った手を前後に揺さぶりながら、言った。もうエズラには、握り返す気力さえ残されていなかった。だから、辛うじて動く口で、彼はノーヴへ応じる。

「もうすぐ、全部が終わるよ」

 やむない決心。死ぬ間際で、無下に彼女を怖がらせては、ならない。エズラは振り返って、ノーヴを見る。行き止まりの壁面に集まった光と、彼女自身が放つそれで、目が眩んだ。細めたら、彼女がぐっと距離を縮めてくる。

「終わるって、何が終わるの?」彼女の白く、あるいは銀色の髪が、サラリと肩から落ちる。

 エズラは彼女へ、微笑みで返した。これ以上言葉を紡ぐ事など、彼には出来そうにない。

 死を、受け入れた。ノーヴには、置かれている状況がわかっていないだろう。けれど、切り離されたように感じる空間から、逃げ出せるとは思えない。だから、仕方のない事だ。

 この場所が最後の場所だと思うと、急に周囲の景色や、自分に溜まった疲労、それから、ノーヴの事が愛おしくなってきた。より一層だ。

 不思議な塔は、人をおかしな気持ちにさせるものだと、エズラは思う。そんな現実逃避じみた観念を抱いて、地にお尻をつけんとした、その時だった。

 シュ! と、澄み切った音が聞こえた。油を塗った鉄砲のボルトよりも、ずっと心地の良いそれは、行き止まりだった壁から生まれたものだ。その音には、町の鐘を動かす巨大な歯車のような、ギリギリとしたものも含まれていたように思う。

 兎に角エズラは、確かに聞いた。そして、見た。壁は立ちふさがる事で、二人の運命を決定していた筈だ。ただただ、行く先を遮っていた筈だ。けれど、漆黒の光沢を纏ったそれは、”開いて”いた。

 どんな仕組みでそうなったのかはわからない。招かれているのか否かなんて、知らない。けれどエズラは、開いた壁の奥に向かって進むべき事だけは、わかった。だから、どの部屋よりも眩い紫に満ち溢れた空間へ向かって、ノーヴの手を握り、踏み出す。立ち止まる事は、賢明ではない。

 数十ヤード進んだら、空間の実態が、エズラに姿を見せる。

 多分、ノーヴと初めてであった部屋よりも、十ヤード単位で狭い。と言っても、ノーヴのいた部屋だって、隅から隅まで駆ければ、胸が早まる位には広いから、エズラにとってこの部屋は、十分な広さがあると言える。そんな空間の中央に、ノーヴの体を流れていたものと同じ、濃縮された白銀の液体が入った、丸い何かがある。ガラスで出来ているのだろうか、中にたんまりと溜まっている銀色は、まるで空中に浮いているようにさえ見えた。その液体は、かなり強い紫色を放っているものだから、部屋全体が染め上げられて、妖美な光景を醸し出している。

 細くて小さいノーヴの手を引っ張って、中央の球体に近寄る。注意深く観察すれば、球体の真下から繋がっている何本かの細い管も、白銀の液体に満たされていた。たぶん、液体は流動しているのだろう。球体の中に溜まった銀色は僅かに波打っており、管の中でも、光の加減を変えて、星のように瞬く。

 背から、シュ! というクリアな音が、再び聞こえる。エズラは機敏に振り返って、目撃した。壁は、たった今閉じた所だ。どうやらその壁――扉は、ノーヴのいた広間を遮る石のそれよりも、ずっと緻密で、自動的な印象だ。縦に開く訳でもなく、横に開く訳でもなく、丁度、扉の中心に向かって、幾つもの小さい扉の”パーツ”が、蛇腹のように折り重なって、閉まった。少なくとも扉を構成するパーツが、六個以上はあったと、エズラは思いなす。

 再び、白銀の液体が目一杯に詰まった球体に向き直って、更に前へと出る。不思議なそれの前で、エズラは考える。これからどうするべきかを。

 でも、時間は無慈悲だった。彼の願いの為に待ってくれる事は、あり得なかった。

 気配を殺していたのだと思う。けれど、扉が開けば、何者かが入ってきた事を理解するのは、簡単だ。

 鎧の男達が、そこにいた。

「また会ったな。エズラとやら」

 その男の声を、エズラは知っていた。また彼も、エズラの名前を憶えていた。だから、名前を呼ばれた彼は、ノーヴを背に回るよう、それとなく誘導して、トラキアの軍人から隠さんとする。焦燥に駆られていたからか、軍人達が気配を殺していたからか、存在に気付けなかった自分を、今更ながら、彼は呪った。

 次の策。頭の容量には、そればかりが一杯に詰まり込んでいる。でも、活路を見出す事が、どうしても出来ない。こうなってしまっては、エズラは沈黙を繰り出すしかないけれど、遅ればせながら喋ったところで、無駄だ。兎に角今は、徐々に球体へと近寄るトラキアの軍人達から、いか様に逃れるかだけを考えれば良い。

 額から流れた一筋の汗が、鼻先まで下りてきた。エズラはその感覚で、少しずつ、冷静さを取り戻してゆく。

 幸い、部屋全体は紫色一色だ。だから、ノーヴの体から放たれている光を、トラキアの軍人達には、気取られないだろう。エズラはそう考えて、空いた手で、背に立つノーヴとやや距離を取る。


――今、何よりも決心が必要だと、エズラは思う。絶望的な決心だが、やむを得なかった。

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