4.3 宣言
寂然たる薄闇の中に、遅緩した時が、しかし刻々と過ぎ去り続けていた。そんな書斎の中にいるのは、いつも通り、パーゴスと町長である。
今日もパーゴスは、分厚い書物のページを、忙しなくめくる。眼前の机上には、同じく重厚な書物の数々が、二つの束として、うずたかく積み上げられている。丁寧に分別された書物の山は、彼女が読み潰してしまった束と、これから読み潰そうと思っている束だ。一方、仕事が始まってから一度も立ち上がらない町長は、彼の机上に雑然と散らばる、無尽にも思える紙切れに、ひたすら判を押し付けたり、難しい顔をしてそれを幾度も読み返したりしている。
町長の様子を横目に入れたパーゴスは、良くも飽きないものだと、一瞬ばかり思う。しかし、そんな考え方は改めなければならない。彼女の眼前にも、自身が積み上げた書物の山がそびえているのだから。それを見て、今後は安易な評価を慎むべきだと改心した所で、パーゴスの耳に、幾度も聞いてきた音が飛び込んできた。それは、書斎の外から書斎の中へ侵入してくるものであり、また、過去に自分が纏っていた鎧と同じものでもあった。
やがて、書斎の扉が、外側から無慈悲な暴力を受けて、壊される。パーゴスの視界に入ってきたトラキアの軍人が、蹴っ飛ばしでもしたのだろう。今までと様子が違う上に、ドアを壊すという蛮行を前にして、パーゴスは一驚を喫する。
しかし、町長は冷静だったらしい。一等最初に口を開いたのは、彼である。
「何事かね。何もドアを壊す事はないだろう」
トラキアの軍人達は、町長の話を聞いているのだろうか。彼が話をしている最中にも、鎧の男達は、正になだれ込むという感じで、部屋へと入り込んで来る。内の二名ずつが、出入り口の左右に別れて直立し、一人が、一直線に前へと出てきた。机の縁にたどり着くなり、鎧を纏った軍人は、手に持っていた小さい籠を、机の上へ叩きつけるように置く。そして、籠を回転させる事で、蓋の開く口を机の中央へと向けた。パーゴスには、この人物が誰なのか、わかっている。相変わらずこの男のやる事が、一切合切気に食わない。
「あまり馬鹿にするなよ」
マヴィの声には、凄みが存分に織り交ぜられていた。いつも通りの粗雑な動作だったから、端からは判断できなかったパーゴスであるが、今回ばかりは、話が違うらしい。許しがたいが、しかし、様子を伺う為に、無へ徹する。そんなパーゴスの目の前で、マヴィが籠についていた金具を引っ張り、蓋を開けた。そして、自分の手を覆う鎧を突っ込み、いっぺんに引き抜く。
”中身”が、マヴィによって机上へと放られた。小さな放物線を描いて飛んだ中身が、着地した瞬間に、ゴトリと、鈍い音を立てる。パーゴスはそれを、軍人上がりの動体視力をもってして、薄暗い部屋であったとしても、しっかりと捉えていた。
パーゴスの全身は、凍り付いたように硬くなった。
――――。
絶叫。町長だ。両手を机上にたたきつけて、彼は、見た目からイメージできない程の声を張り上げた。慟哭だったのかも知れない。今一度、パーゴスは机上に目を移す。薄暗いからか、酸化したからか、黒い液体が少々飛び散っており、それを撒いた中身が、町長の方を見ていた。
パーゴスは、その正体を良く知っていた。話をした事だってある。凛とした顔であり、鋭い眼を持っている、ズーだったものの正体を。
だが、そんなズーからは、とても想像できない造形になってしまっている。美しい輪郭は凸凹としており、光を失った双の目は、じっと、何をする訳でもなく、町長へまなざしを向けている。艶やかだった黒い髪の毛さえも、べっとりと血液が付着して、おぞましい印象をも植え付けてくる始末だった。
やがて、マヴィが口を開いた。いつも通りの調子で。
「お前の中に流れる血は、この女にも流れていた。最後まで一言も喋らなかったぞ」
”ハハハ”と、マヴィが大笑いする。
次の瞬間。何を思ったのか、町長が、壁に向かって駆けだした。そして、飾ってあった長剣を両腕で抱えるようにして握りしめ、肩に担いだまま、マヴィへ向かって突進して行く。しかし、マヴィは少しも動く事など、しなかった。
町長が憎悪へ身を委ねていると知った刹那に、急いで立ち上がったパーゴスは、全力で彼を止めんとしたが、時すでに遅し。入口近辺に立っていた、槍を携えた軍人の一人が、町長の持つ剣のリーチ外から彼の体を貫き、そのままの勢いで、老いた体躯を押し出すように突き進んでいった。
町長は、手に握った長剣をすぐに地面へと転がしてしまう。そして、槍に貫かれたままに、ずりずりと、自分の席の方角へ後退させられて行く。軍人に足を止める意思はないらしい。だが、書斎の広さは有限である。必然的に、とうとう槍の先が石の壁へとぶつかって、カツ! と重い音を響かせてから、軍人を無理やり停止させた。町長は、生きているのか死んでいるのか、パーゴスの立つ位置からは判別できないのだが、ぐったりと、自らを貫く槍に寄りかかって、体重を預けているようだ。
軍人が、町長の体から槍を引き抜く。すると老いた体が、地面に吸い寄せられるようにして、崩れ落ちた。パーゴスには、どうにもできなかった。いくらトラキア軍上がりとは言え、彼女の位置から町長を停止させる事など、不可能だったのだ。
直近の椅子を乱暴に蹴飛ばしたマヴィが、唐突に大声を張り上げる。
「パーゴス! 何を隠している!」
いかなる時も沈着を心がけていたパーゴスであったが、こればかりは、混乱せざるを得ない。しかし、肺一杯に空気を蓄える事で、定まらぬ心を静めさせてから、先ずは状況の分析を開始した。そうでもしなければ、この陰鬱な光景の広がる、重苦しい状況から脱出できない。
マヴィは、”宣言”したにも関わらず、この町に戻ってきた。加え、彼は何かを隠していると、思っている。更に彼は、ズーを殺し、町長までも殺した。
パーゴスは、それら全ての要素を統一させる事が出来なかった。だが、少なくともマヴィが、何かを中途半端に知って、それを解明する為にこの町へ戻ってきたという仮説までは、立てる事が出来た。そもそも彼は、光る少女の話を一言も口にしていない。つまり、光の塔に向かわずして、書斎へと踏み込んできたという事だろう。従って、神の存在は発覚していないと考えて良い筈だ。
やるべき事は、一つだった。
「いきなり押しかけてきて、ズーと町長を殺し……何を知っているかと聞かれても、私には何もわかりません!」
パーゴスは、叫んだ。込めた感情こそ本物であったが、その内容は偽りである。しかしパーゴスは、虚言が通用する相手でない事も、とっくに知っていた。その裏付けは、マヴィの口から成される。
「お前は絶対に秘密を漏らさない」
静かな声だった。
流線形の鎧の頭部。その隙間越しに、彼は見つめているのだろう。言い終えたマヴィは、パーゴスへ背を向け、出入り口へと歩みつつ、継ぐ。
「旧友のよしみだ。ここから出ろ。町を焼き払う」
ピキッと、何かが割れた。その音を、パーゴスは確かに受け取った。
――我に返ったパーゴスは、周囲を見流し、薄暗い書斎に誰もいなくなったことを認識する。二つの骸と自分を残し、いつの間にか、厭わしい男達がいなくなっていたのだ。どうやら、かなり長い時間、自分の中から這いずって出てきた何かを見つめていたのだろう。
軍人時代から今の今まで、パーゴスは、宣言を違えた事はない。なまじな武の才能を振るっていた訳でないから、自らの腕を信じ、求められれば宣言して、必ず実力を示してきた。ある時は殺した。またある時は奪った。その両方を成した事だって、数えきれない程にある。そんな職務を遂行してゆく内に、パーゴスの中で、心が芽生えた。それは、”人たるが徳を損ねてはならない”という考え方に、昇華した。やがてパーゴスは、トラキアのやり方から、精神を剥離させた。結果、この身さえも、光の町へ寄せる事となった。無論、打ち捨てたものは、莫大だ。軍人が持つべき在り方に起因して、背を向けた同胞達に対し、忸怩する心だって、未だに残っている。それでもパーゴスは、光の町へやってきて良かったという思いこそが、正真たる結論だったと信じている。
その町が、かつて憎んだトラキアによって、火に包まれようとしている。
パーゴスは、今こそ宣言するべきなのではないかと、湧き上がってくる激昂の塊を一つ残らず噛みしめつつ、考える。いや、あるいは、光の塔でマヴィに宣言した事を、成すべきではないか、と。
そして、すぐに答えを導き出した。
軍人の相棒は、常に武器だ。そして彼女の特別な得物は、いま正に、当時のパーゴスの心と共に、地下の武器庫で眠っている最中である。
眠りとは、覚めるからこそ眠りと言う。覚めぬ眠りは、眠りなどではなく、死だ。武器は死なないし、軍人時代に培った彼女の心は、未だに死んでいない。強いて言うなら、凍り付いただけである。
生々しい香りが書斎に満ちる。幾度も嗅いで慣れてきた香気に刺激されて、パーゴスの体は動いた。彼女は迷わずに、自らが切り捨て、あるいは凍らせた”心”を拾いに行く。マヴィへの宣言を果たす為に。
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