Deeeeep mind inspection.

 ノーヴは現在、そんなに苦しくなかった。彼女の腕や脚を乱暴にいじくりまわす熱さが、どこかにすっ飛んでしまっていたからだ。でも、未だに腕や脚から、白銀の液体が滴る感じは、伝わってきた。それに、視界も滅法良くない。だから、工房についた事を何となく理解できたのは、へファイスの太い声が聞こえてきたから。ちょっぴり残った視界に映った彼は、とんでもなく狼狽した様子で何か叫んでいたようだけれど、ノーヴには意味を理解できる力など、どこにも残っていなかった。

 とは言え、へファイスによって体を持ち上げられて、ズーやエズラも一緒になって、周りに集まってきた事に、ノーヴは気付いている。とにかく、断片的に情報が入り込んできては、飛んでゆくという繰り返しなのだ。

 ノーヴは、周りで騒ぐ声が、傷とか、オオカミが噛んだとか言っていたから、灰色の塊の正体が”オオカミ”だという事を理解した。その先は、上手く聞こえなかったから知らない。ただ、恐怖を与えてきた灰色のオオカミという名を持つ生き物は、とても恐ろしいと、確かに感じた。


 唐突な、雑音。

 ノーヴの心の住み家に、突然にして侵入してきた。彼女の心は、思考もひっくるめてゴシゴシと拭われる。世の中に意味のないものが溢れている事を、ノーヴはエズラから教えてもらったから、それにはたいした意味はないと誤魔化そうとした。つまり、未知から生れ出た”恐怖”に怯えたのだ。けれど、ノーヴの怯えを完全に無視して、再び心に線が走って、それが広がり亀裂となって、やがて何もかもを押しのけて、心自体と入れ替わってしまう。思考や感情をそれに激しく圧迫されて、何が何だかわからない。

 手を伸ばしてみた。ぶつ切りになった視界の先で、確かに自分の手が映った事を、ノーヴは見た。それは、横から掴み取られる。掴み取ったらしい人物が、ノーヴの顔に近寄ってくる。その表情は、エズラのものに間違いない。なぜなら、いつもみたいに、”ビクビク”とした感じだったからだ。けれど、正確には、少し違うのかも、しれない。とにかくノーヴは、これから感情も考えも、全部がどこかに埋まってしまう予感がして、残された時間でもって、嬉しさを噛みしめた。最後に飛び込んできたのが、エズラの顔だったのだから。


 再び雑音が耳をひっかく。そして雑音は、重なる。音量ばかりが、徐々に肥大する。

 ノーヴの中で巻き起こった連続的な雑音は、外界へ向けて放たれる具合に騒々しい。残留した思念の全てをかき消してしまうのに、そう時間がいらないと、無言にて主張している有様である。だが、耳を塞ぐという行為は愚か、目を開ける、体を動かす、といった基本的な”キノウ”を、ノーヴは失ってしまっている。それだから、上手く操る事が出来ない。

 目まぐるしく湧き出る思考。知らない筈の概念や言語が、何かから流れてくる。ノーヴは取り留めのない状態を一旦断ち切る為、全部を空っぽにするつもりで、黙った。すると耳元で、エズラの声が波紋を生んだ。

 広がった波紋は、飛び出す雑音の中に埋没して、消える。それと同じ頃、ノーヴは、雑音の海に体を沈めた。




――目を、覚ました。だけど、ここは真っ白だから、たぶん工房じゃないと思う。

 という事は、ここはどこだろう。目を覚ましたという事は、目を覚ます前にいた場所があった筈。それが工房ならば、私は最後、何かに体を沈めた。

 ならば、ここは何かか。

 ここまで考えたものの、結局この場所がどこであるかなんて、わからない。だから、考えるだけ無駄なのか。それこそ、無駄ばかりの『世界』みたい。

 どうして、ここに来たのだろう。無駄ばかりの『世界』みたいに、また意味のない事なのか。しかし、こんな経験は始めてだ。こことは正反対に真っ黒の塔の中にいた時は、こんな事はなかった。という事は、何か意味があるのかも知れない。

 また、エズラが来るのだろうか。『塔』から『世界』に連れ出してくれた時みたいに。なら、長い長い時間、こんな所で待っていなくてはいけないのか。そう考えると、気分が音を立てて落っこちて行く。ヒューって。

 相変わらず、私は物知りじゃない。何も、知らない。だからこんな所に意味を見いだせと言われても、そんな事出来ない。

 遠くで、何かが光った。私は、その光に向かって歩く。

 普通に歩くことが出来たから、私は傷ついた左足の下の方を見たのだけれど、なんと、驚き。

 足に傷がついていない。一体どうしたのだろう。さっきまで、『オオカミ』に噛みつかれた時の傷があった筈なのに。

 やっぱり、ここは『世界』じゃないのかも知れない――エズラのいるだろう、尊い尊いそれ。

 だけど、私の足が光に向かって進ませるから、少しだけそれがエズラなんじゃないかなって期待をする。エズラだったら、きっと出口の事を知っている筈だから。最初に出会った時みたいに。

 そうしたら、この真っ白な世界の輝きを見れるのだろうか。風が心地よく、町が光って見えた時みたいな、輝き。確かに心の中で輝いた、世界。

 でも、期待は裏切られた。そこに『あった』のは、得体のしれない物体。生きていないように見える。死んでもいない。そもそも、石の塔とか町みたいな、生まれる云々が関係ない存在。

 だけど、それは女性の形をしていた。と言うよりも、女性の、小さいの。変わってる。人の形をしているのに、石ころとか、漂う雲とか、そういった生のない存在。

…………なんだっけ。えーと。

 そうそう、『子供』。それは、子供。私とズーさん位の違いが、私とそれにはあるんだと思う。

 それの目の前に私は立った。それは、口? を開いて、何かを言い出す。何を言っているのだろう。音が出ないと、私は理解が出来ない。

 と、思ったけど。やっぱりそんな事はない。この世界には、そんなルールがあるのか。音が出なくても、相手の意図がくみ取れるようなルールが。

 それは、『ノヴァ』って言った。それはたぶん、石とか雲とかみたいに、ノヴァってものなんだろう。喋るのに、生きてないって変なの。

 それは、パクパクと口を動かした。そこからは相変わらず音は出ていない。だけど、間違いなく私の傷を治すようにと促した。だけど、それも変。だって、私の足や腕に傷なんてないんだから。それに、どうしてまた塔に行けなんていうんだろう。そもそも、この真っ白な場所に塔なんて立ってないのに。

 それは、指さした。私をか。――いいや。私の後ろだ。

 だから私は直ぐにその小さな指先の指す方を見た。つまり、私の真後ろ。そうしたら、なんて事か。一番長い時間そこにいたのに、何の思い入れもない塔が、そこにはあった。先っちょは見えない。すごく私に近いところに塔があったから、私は見上げてもそれを視界に入れる事が出来なかった。

 もう一回、ノヴァを見る。すると、ノヴァは形がなくなっていた。いつの間に、その場所から移動したのだろうか。それとも本当になくなってしまったのだろうか。そんな事は私にはわからなかったけど、ノヴァはまだ喋っていた。形がないのに、喋る事が出来るのか。

 ノヴァは、私の『アクシス』に傷があるっていった。だから『アセンブル』するんだって。だけど、それはノヴァが行う事じゃなくて、私自身が塔で行う事らしい。もしそれをしないとどうなるのか疑問が浮かんできた。

 そうしたら、ノヴァは口にしてないのに、それを理解したみたいで、すぐに返答してきた。『パワー』が逃げるって言ってきた。意味が解らない。ただ、とにかく私は塔に戻らないといけないらしい。そうしたら、エズラは毎日私の下に来てくれるのだろうか。もし来てくれなかったら、私はどうしよう。

 困っていたら、いきなり引っ張られた。凄い力で引っ張られる。痛い! 離してほしい!

 だけど、それは離してくれない。ずいずい引っ張る。どこまでも引っ張る。もう私は空中に浮いた状態で、真っ白な空間をとんでもない速度で移動し始めた。私の体の向きなんて、引っ張る力に関係ない様子で、上を向いたりひっくり返ったりした状態で引かれる。絶対に、移動した距離はすごいのに、景色が全く変わらないという事も凄い。ここは本当にどこなんだろう。

 やがて引っ張る速度がジワジワ、ジワジワと上がって来た。不思議と風は感じない。エズラの世界で走ったりした時に感じる風は、一切と。

 もう止まらないと危ないと思う。何があるかわからないから。ぶつかったら、たぶん死んでしまう。と、私の進行方向に、真っ白い壁があった。もう、ぶつかってしまう。きっと痛いから、多分無駄だけれど、目を瞑る――。




 バタバタ! と、聳えるような音がした。それはノーヴの耳に入って、雑音をかき消してしまう。正確には、何かを叩く音が侵入してきたと同時に、彼女の中で波紋になって広がり、何重にも重なる事で、雑音より巨大な音の塊になったのだ。朦朧とだが、すぐに彼女へ意識が戻ってきたものだから、自分の四肢が周りを叩いているから生まれた音なのだと、ノーヴは理解した。加えて動く体は、決して彼女の意思ではない。意識の奥底で彼女が体験した真っ白い世界の事は、彼女自身、事実かどうかの判断もつけられなかったが、しかし、自分を何かが操っているのではないかと思える位に、体が震えている事には、気付けた。

 ノーヴの視界は、ゼロである。故に、彼女には何も見えていない。だが、自分が机の上におり、周囲の人達が慌ただしいという事実だけは、なぜか理解できた。

 その内に、体を乗っ取った何かが、ノーヴの口を無理やりにこじ開けようとする。それには、確かに意思があった。何かに抵抗する為に、彼女は口角を強く結んだのだが、叶わなかった。やがてノーヴの喉の奥底が、大きく開かれる。伴って、痙攣も止まった。

「”U.V.T”」声が、漏れた。

 ノーヴは、確かにそう口に”させられた”。自分でも聞いた事のない言語だと思ったが、しかし彼女の記憶の奥底に、なにがしかの痕跡が残っている気がしたから、体の方は、言葉を乗っ取った何かに委ねて、自分自身は、遥か昔の事を掘り返す作業に徹する為、内側に集中した。

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