3.2 血
代り映えがしない、木々と霧だけの世界。退屈な世界の只中で、ノーヴはポツンと一人、彷徨っていた。右に歩いているのか、左に歩いているのかも、ノーヴにはわからない。なぜなら、左右どこを見ても、同じ光景が延々と広がっているからだ。そんな状態で彼女は、湿っぽい空気と同じように、じっとりとした思考を繰り返していた。願ったので、そのようになったのかと。何しろノーヴの回りの人物は、彼女を『神様』と呼ぶのだ。だったとしたら、それは大変恨めしい事だ。彼女にとって、神様である事よりも、尊いエズラと時間を共有する事の方がはるかに大事であるのに、神様という枷が彼女に不自由を与えてくるのだから。つまりノーヴは、現状に後悔していた。一時の激情は冷静な判断を欠くという事を、当時の自分が知らなかったことに対しても。従って彼女は、自分が本当に言いたかった事をエズラに伝えなければと、目的がはっきりしていながら、実際には迷っている。
「……エズラ」
彼の名前を口にしたけれど、喉がかすれて上手に声が出てこなかった。ただ漠然とそこに広がる自然の中で、ノーヴは探し続ける。こんな事を繰り返してエズラを見つける事が出来たなら苦労しないのだが、見つからないのだから仕方がない。こうするしかノーヴには思いつかないし、何の術も持たない彼女は、実際繰り返すしかない。
光を欲張りに食べてしまう黒一色が広がっている、塔の中。そこと同じように、でしゃばった霧が、ノーヴの視界を奪って来たりした。また、その霧はあまり心地良くない風に運ばれて、どこかに旅立って行ったりもした。そうして、刻一刻と状況が変化している訳だが、見向きもせずに、一心不乱にエズラの下に向かおうと足を動かすノーヴ。彼女には、わからなかった。彼女に宿る『神様』は、自己嫌悪する彼女と一緒にいるエズラの事を思った時は、彼女の意思を尊重するかのように力を貸してくれたのに、やっぱりそれに後悔して否定したいと思っても、その意思は尊重してくれない。
――どうして!
ノーヴは、再び煮えてきた激情に駆られて、エズラよりもずっと白くて小さい手で、自分の足を何度も叩いた。しばらくは、その動きを止める事は出来なかった。
一通り落ち着いたかもしれないと思った所で、ノーヴは、初めての体験をする。それは、明らかに異常だった。
彼女は、退屈な森の中が、薄っすらと、紫色に塗られている事に気が付く。首を傾げたら、手の甲にポタリ、と温かい感じがやってきて、それからすぐに冷たくなった。だから、風に吹かれて冷たくなった、手の甲を見る。すると、紫色に光る何かが、こびり付いていた。頬にむず痒さを感じたから、顔をこする。そこで、何かが瞳からこぼれたのだと、彼女は知った。
途端に、周囲にこれでもかと立ち並ぶ木々や、周囲を染めている緑は、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、歪曲した。だから、こんな状況にも関わらず、どうしてか上手に周囲が見られなくなってしまうのかとノーヴは考え、神様であるからだという結論を導き出して、先程よりも更に激しく、神様である自分を恨んだ。
ノーヴは、塔にいた頃から纏っていた白い衣の袖口で何かを拭うのだが、これは延々と続く現象なのだろうか、何かは、とめどなく溢れてきては彼女の視界を引き延ばしたり縮めたりして来る。いい加減にまどろこしいと思っても、その気持ちの代弁を、彼女に宿る不可思議な力は、行ってくれなかった。
そんな、歪んだ彼女の視界の中に、周囲の緑と違う色が入り込んでくる。それを受けて、ノーヴは一旦ぎゅっと目を瞑って、おもむろ、かつ、児戯な動作で瞼から追い出した何かを擦りとってから、再び目を開いた。もしかしたら彼かも知れないという小さな小さな期待を抱いて。
だが、それは全く違うものだった。どうやら世界は、彼女の期待に答えてくれない。彼女は神様と呼ばれているにも関わらず。
そこにいたのは、灰色の体毛を蓄えた何かだった。ノーヴはそれの名前を知らない。何しろ、彼女はそれの存在を初めて見たのだから。それは、数えてみれば五ついた。彼女を取り囲むように、周囲をうろうろとしながら展開していた。頭と思しきものの形は、彼女に比べて遥かに尖っており、ポツリポツリと黄色い点が浮いている。
ノーヴは、自分の心の中に、目の前にある黄色い光のように怪しく浮いてきた感情を初めて体験した。その感情は、彼女の行動を制限し、彼女の抱いていた悲しみも制限し、しかし、彼女のエズラに対する尊い気持ちを制限する事はなかった。
ノーヴの胸が、はやくなる。グラグラと、目の前が揺れた。すぐそこで唸っている灰色の何かは、神様よりも遥かに優れた存在なのかと思うと、ノーヴはせん妄してしまったのだ。なぜか自分の体が思うように動かなくなってしまった現状に、ノーヴは狼狽する。そうしていると、灰色の何かは、ノーヴを中心に作っていた円を、みるみる小さくしてきた。つまり、ノーヴの五~六ヤード程まで、灰色の塊は近づいていた。
そして、光の街よりもずっと尖った感じに、何かが光った。一瞬ばかり黄色い光を増したと思えば、ノーヴの喉元に向かって、恐らく白く光る何かを突き立てようと、跳躍してきた。驚いて、彼女はか細い右腕で白く光る閃光を防ごうとしたのだが、何かよりもずっと脆そうな腕に、白い棘が食い込んできた。同時に、灰色の塊の重量に押しつぶされるようにして、お尻から大地に着地してしまう。
棘の食い込んだ辺り、つまり彼女のか細い右の下腕から、白銀に光る液体がこぼれ出る。その液体は腕を伝って、ノーヴの体の方に垂れてきた。彼女は、「止めて……」と、灰色の塊に停止を促したのだが、彼女の嫌な想像通り、言語は通じない様子である。
灰色の塊が、しばらく、食い込んだ白い凶器に力を込める事で腕を圧迫していたが、やがて頭部らしき部分を振り回す事でノーヴの腕をちぎり落とそうとしてくる。滅法強い引力や斥力を受けたノーヴは、腕を中心として、かなり一方的に、左右へブンブンと振られてしまった。
――熱い!
彼女は、腕に熱が発生したのかと思った。それこそ、工房でヘファイスが常に前にしている赤熱した火の塊が、腕に宿ったのではないかと思うくらいに。だから、灰色の塊にそういった力があるのだと確信して、自分の行動を制限して来る謎の感情が、更に大きくなってしまった。その感情は、どういった感情なのだろうか。ノーヴは、もしも知っていたら、思い出したい位だった。
その内に、周囲を徘徊していた残りが、ヘファイス程ではないが、別の方向にたくましい、それも太い腕で、大地を蹴っ飛ばしてノーヴの下にやって来た。黄色い光を蓄えた頭部は、左腕で自分の体を固定しながら両の足で逃げようとする彼女に食らいつく。今度は、彼女の左のふくらはぎに。
一番最初に食らいついてきた灰色の塊は、腕を持っていくように、まっすぐ後進するが、二番目に食らいついたそれは、その方向とは真逆に足を引きちぎろうとする。だからノーヴは、初めに食らいついてきた何かの方を向いて座り込んだ状態で、必死に自分の中心に向かって手足を縮こませようとする。
けれど、全くもって、無駄な抵抗らしい。何しろ相手は恐らく、神様よりも力強い存在なのだ。無駄に決まっている。
ノーヴは、しばらく灰色の塊に停止を促すように「やだ」だとか、「あっちいって」などと、拒絶の言葉でもって話しかけていたが、灰色の塊は全てを無視して、恐らくは、彼女の体を解体せんと、黙々と作業を継続している。ノーヴはそれを受けて、遂に観念して、どうにもならない状況を受け入れつつ、先ほどの『死』について考え出してしまった。
――もし死んだら、生きるに戻れないって、言ってたな。そうしたら、エズラとは、別れるになるのかな。
ノーヴは、ぐっと遅くなってしまった世界の中で、荒々しく熱をまき散らしている腕や足を、見る。そこからは、いつからそんなに溢れ出てきたのだろうか、白銀の何かが、灰色の塊の口元を、べたりと塗りたくったように染めていた。
終わり。彼女は、終焉を見た。生の終わる瞬間を。
但し、それは彼女自身の終わりではない。
腕を引きちぎろうとしていた灰色の塊が、かなり離れた位置から聞こえてきた、突き抜けるようにまっすぐな音と共に、大地へ倒れ伏した。
何が起こったのか、ノーヴにはわからなかった。ただ、眼前の灰色の塊に宿っていた生が、そこから離れていった事だけを理解出来た。彼女の右腕――白い凶器が突き刺さっていた部分から、白銀の液体は、それが抜けるのを今か今かと待っていたように噴き出す。それと同時に、熱は彼女の腕で臨界点を突破した。
「ああぁぁ――!」
痛覚が、正しく絶叫を促して、喉を大きく開かせた。
喉が少し痛い感じを味わうノーヴは、右腕から溢れ出る白銀を、左手で押さえつけてから体の中心に抱きかかえ、頭を柔らかい草の大地に押し付ける。そうする事で、少しでも熱を包含する右腕の慰めになると、何となく思ったからだ。
と、今度は左のふくらはぎにかかっていた圧力が抜ける。今度は、遠くでした先ほどの音が聞こえない。と同時にノーヴの足から、再び白銀の液体はまき散らされて、左ふくらはぎ周辺の草をその色に染めた。だが、不思議と彼女は足に熱を感じなかった。だから彼女が痛みをごまかす為に再び叫ぶ事はない。
腕を抑えながら、少しでも冷静さを取り戻したノーヴは、その小さい頭を持ち上げて、ゆっくりと、慎重に、再び凶器が迫ってこないように気配を殺しながら、周囲を見渡した。すると、回りにのさばっていた灰色の塊達は、彼女にお尻らしき部位を向けて唸っている。
再び、乾いた音が木々をたたき、草の合間をすり抜けて行った。だからノーヴは、またもや灰色の塊の一つから生が抜けだした瞬間を目撃する事になる。
どうやらそれを合図に、残る灰色の塊達は一斉に音のした方角に向かって、木々を縫って跳躍の連続を繰り出した。灰色の塊の向かう方角には、誰かがいる。そしてノーヴは、その誰かを知っている。
尊い少年。ノーヴにとってかけがえのない少年、エズラ。彼は、立っていた。ノーヴの視界に収まっていた。同時に、灰色の塊も視界に収まっている。明らかに、灰色の塊はエズラの生を狩らんとしている。だからノーヴは「エズラ!」と彼の名前を叫ぶ。限られた時間で、彼に危険を知らせようと考えて。
だが、エズラは動かなかった。銃口の先の先を握って、それを肩に担ぎながら、
「ノーヴ!」
と、大声で空気をひっかいた。
かくもたくましく響いたその声を、ノーヴの耳は受け止めた。それから、彼は表現出来ない唸りを腹の底から上げて、彼女の下に恐らく全力で走ってくる。速度よりも、その迫力が凄まじい。飛び掛かる灰色の塊の一つに、肩に担いだ黒金のライフルを一気に、地面に向かって振り落す格好でたたきつける。
三〇ヤード。
彼はそのまま止まる事なく、ノーヴの座り込んだ座標に近接してくる。
二〇ヤード。
エズラとすれ違いになった灰色の塊達は、即座にそれに反応して、急旋回する。
一〇ヤード。
もうすぐ、エズラはノーヴの下に到達する。
けれど灰色の塊の速度は、並大抵のものではない。明らかに、エズラの脚力を超越している。道理だ、そうであるならば、灰色の塊の内の一つがこうして彼の肩口にかぶりついて、先ほどのノーヴが受けたような洗礼を与えるに決まっている。
ノーヴから見て右、つまり左の肩口に、白い凶器は食い込んだ。彼女がそれを目撃したのはほんの一瞬で、灰色の塊の重さと共に彼は、ノーヴの僅か五ヤード程の位置に倒れこんだ。それから彼は、凶器の洗礼を受けていない方の腕にライフルを握って、灰色の塊に真横からそれを振ったのだが、どうやら彼の握っている根本辺りが当たっただけでは、全く威力が足りていないらしい。
であるから、灰色の塊はエズラの抵抗を完全に無視して、彼の肢体の内側――まずは腕から食い破り始める。「うわっ!」と叫ぶ彼は、白い凶器が食い込んだことによって、纏った衣の肩口を真っ赤に染めた。
抵抗し、幾度となく黒金のライフルを灰色の塊に叩きつけていたのだが、なんと、ライフルは彼の手から滑るように抜けて飛んでいってしまう。これで彼が抵抗する手段は、恐らく自分の身一つだけとなってしまった。そして、見るからに彼は灰色の何かに対抗できない様子である。当然か、灰色の何かは神様を上回る力を振るってくるのだ。人間である彼が何とかしようと思っても、どうにもならないのだろう。
「やめて!」
ノーヴは、決死の覚悟でもって、灰色の塊に叫んだ。眉間に力を込めてクシャリとさせつつ、上手に動かす事が出来ない左の足を引きずるような格好で、エズラにじわりと近寄る。彼女はわかっている。こうしたところで、この状況を打開できる訳もないのだと。しかし、高ぶる彼への感情は、彼を守らんとして、ノーヴの肢体を操る。
エズラは、人間なのだ。脆い脆い人間なのだ。だから、神ようである彼女が、彼を守ってあげなければならない。
でも、儚い。ノーヴは彼を、守れないだろう。何しろ、相手は灰色の塊だ。それを灰色の塊も理解しているのか、その内の一つがノーヴの首元に向かって、離れた距離を一気に縮めた。
ボツリと、柔らかい地面に重い鉄を落っことしたような音が、ノーヴの前で生まれた。音源は、灰色の塊。まるで時計の針がピタリと止まってしまったみたいに、ノーヴへと迫った灰色が、些かだけ停止した。それから幾瞬も待たない内に、ピリピリとした森の中で、鐘の音を一等高くしたそれが、周囲の重さを切り裂いた。加速して接近してきた、死を運ぶ灰色。神様よりもずっと強くてたくましい筈なのに、ノーヴのすぐ先で、コロリと、突然情けなくなった。僅かに重い頭をエズラへと向ける。すると彼は、肩口にめり込んでいる死の灰色を、なんと、腕の力で退かしてしまった。
よく見れば、灰色の塊の命は、失われているらしい。ノーヴは遅れて気付いて、エズラが神様以上の灰色と同じ土俵に立つ者になったかと、驚く所で食い留まった。『ビクビク』の彼が、瞬きの間にそんな人物になってたら、ちょっぴり近寄りがたい。それでもエズラの表情は、いつもと比べて、少しだけ冷たい感じ。おかしいと思ってじっと見つめていたけれど、ノーヴはすぐに、彼の顔がひんやりとしている理由に気が付いた。簡単な話で、残る二つの灰色が、二人を囲むように、うろうろとしている。しかし、二つの灰色は、どこか様子が変だ。先ほどのように音のする方向を探しているのだろうけれど、大きな体は、定まらない。それぞれが、とんちんかんな方角を向いて、頭を持ち上げたり、下げたりしている。その度に、黄色い点が、ギラリとノーヴを突き刺して、動きを制限してくる。そんな灰色は、謎の襲撃者に対して備えようとしているのだろう。でも、この調子では、不自由極まる。襲撃者の手から逃れる事は、難しそうだ。
すると再び、音。カラカラに干上がったようでもあり、耳を貫くようでもある。どこかで聞いた事があると、ノーヴは思った。その隙に、再び甲高い音が、重なるようにして、駆け巡った。
鉄砲だと理解するまで、時間はかからなかった。エズラの黒金の鉄砲と、似たような音なのだから。けれど決して、彼の鉄砲ではない。
死を運んでくる機械は、二人の周囲にいる灰色の塊の生を、奪っていった。正確さたるや、工房でじっと見てきたへファイスの、鉄を打つ時の腕と同じだ。灰色の塊から流れるドロリとした赤が、その正確さの弁証をしている。そんな光景を見て、嫌な感じがした死に対して、ノーヴは『妖美』だと思ってしまった。良いのか悪いのか、彼女にはわからなかったが。
それにしても、何ヤードあるだろうか。ノーヴはその距離を何となくすら判断できない。けれど、いる事は確かだ。間違いない。神様を上回る灰色に、位置を気取られず、命を毟ってゆく事が出来る人物に、ノーヴは心当たりがあった。そしてエズラも、知っているだろう。
ノーヴがその人物の方向を判断できたのは、恐らくその人物が、ノーヴ達の危険を全て刈り取ったと判断したからだろうか。要するにその人物は、自分で殺した自分の気配に、生を吹き込んだ。
「おい!」
緑の帽子を上下にぴょんぴょんと跳ねかして、ズーが駆け寄ってきた。冷静な彼女がこうして叫ぶ姿を、ノーヴはこの先見れないかもしれない。そして、ズーが怒っているとも思ったので、ちょっぴり嫌な予感がして、銀の長い髪の毛を下に追いやるように、頭をひっこめた。出来る限り体の中心に来させようと、一生懸命に首を縮めていたら、頬を髪がくすぐってくる。伴って、周りが隠れ、木々や緑は視界から消えた。だからノーヴの心が、叱責を受けても大丈夫だと、教えて来た。
「済まなかった。奴ら、イノシシの血からすぐに嗅ぎ付けたんだろう。いつも一人で狩りをするから、そこまで考えてなかった。私のミスだ」
なんという事か。ノーヴはズーの謝罪に驚嘆を隠せなくて、銀色の髪をかき分け、その先に彼女を捉えた。けれど彼女は、俯いて緑の帽子のつばを弄っていたので、彼女の手とそれに阻まれて、ノーヴの瞳が表情を捉える事までは、出来なかった。サッと機敏に視線をエズラに移したノーヴは、どうやら驚いているであろう、いつもの彼――目を点としているエズラを前にしてしまう。きっとズーは言っている意味の通りに思ったのだ。だからこそこうして、良かれと思って自分を行動するに至らせた判断は、しかし、愚かだったと認めたのだ。知が稚拙なノーヴは、相対的に老練な彼女の真意など理解できないだろうが、それでもニュアンスだけが伝われば十分、彼女に謝罪させてしまった自身を、恥じたのだった。
その内に、エズラがすぅっと、たっぷり空気を吸い込んで、一気にそれをはききった後に「たすかったー!」と、心底からといった感じで言ったので、ズーもどうやらこれ以上謝罪する必要性を感じなくなったのか、俯くのを止めて、いつも通りの冷静な彼女に戻っていた。黙って見ていたけれど、周りが灰色じゃなくなったから、何か自分の中に穴を穿ちながら外に放出されて行く無数の感情に気付いて、それをとうとう抑えきれなくなってしまった。その感情は一体何かと聞かれても、ノーヴにはわからないが、ただ彼女は行動する。
ノーヴは肩口から真紅を滲ませる彼に這い寄ってゆく。すかさずポカッ! と、手をグーにして、エズラの頭をたたいた。先ほどの灰色の塊の振るう力などより、遥かに矮小で、それこそ消えそうな力だろう。暴力と表現するには余りにも児戯だったのだが、ノーヴの行動を受けて、エズラはもっともっとびっくりした様子である。恐らく、正確には、ノーヴの顔の一点をみて、それに対する反応として、びっくりした様子を彼女の瞳に焼き付けている。
ノーヴの視界が再び歪んだ。多分エズラは、さっきの紫色に光る液体を見ているのだろう。とても気まずい。でも、頭をたたいてしまったのは事実だから、元に戻そうと思っても、ノーヴにはできない。そんな空気の只中にいる三人の中で、一番最初にその場で巣食う空気を押しのけたのは、エズラだった。
「君に嫌われたと思って、遅れちゃったんだ。ごめんね、ノーヴ」
ほっそりとした声に含まれる意味は、ノーヴにとって、見当違いだ。
「違う! 私は、嫌いになってない! そんな訳、ない。死んだら、生きるじゃなくなるのに」
だからノーヴは、エズラの言った事と自分の感情の齟齬をしっかりと彼自身に理解してもらいたくて、喉から声をひりだす事が精一杯にも関わらず、しかも、それを自覚しているにも関わらず、言った。言わなければ理解してもらえないのだから。この感情は何だっけと、一生懸命に絞って、見つけた。
「どうして。どうして”心配”させるの」
まだまだ、心配という言葉以外に表現できる。故にこの答えの正確さはそれほどでないのかもしれない。けれど、ノーヴの中に湧いてきた感情の一端は確かにそれだし、彼を尊く思う気持ちや、自分をせん妄に陥れた先ほどの気持ちや、安堵や、その他諸々は、まだある。それでも、彼女は直ぐにその言語を思いつかないから、とりあえず思っている事が彼に伝われば良いと、願う。神様なのにと思ったけれど。
遠巻きに見ていただろう。ズーが、ノーヴの近くに寄ってきて、静かに止まった。草だけは、カサリと泣いた。
「ノーヴのその気持ちは、”恐怖”かもしれないな? お前かエズラが死ねば、それはお前らにとって永遠の別れになるからな。きっとノーヴは恐怖を感じてて。今も恐怖があるんだろう?」
ノーヴの感情を、ズーがはきはきと代弁してくれた。どうやらその感情の正体は、ズー曰く、恐怖というらしい。
先ほどノーヴが灰色の塊を前にした時は、彼女をせん妄に陥れ、彼女の行動を阻害し、諦観を生み出す事すら出来てしまう感情。でも、エズラの死を目前とした時は、せん妄を解き放ち、体のコントロールを復帰させ、諦観すらかき消してしまう感情。
とても、恐ろしい感情。
はばかったり背を推したりする感情の重圧に、心が稚拙なノーヴは耐えられなかったのかもしれない。だから、自分の死を目前とした時もそうであるが、エズラの死を感じ取った時には最も激しく湧き上がり、彼女を乱した。こうして、恐怖から解放された際の安堵から来る”憤り”は、彼女の小さな手を動かして、エズラの頭をポカッと叩くに至らせたのだろうか。
湿った空気が右へ左へと踊り狂って、ノーヴの髪の毛を持ちあげる。周りも、カサカサと、小うるさくしだした。気にせずに、にじみ出る真紅と熱さに耐えているであろう彼へ、ノーヴは再び近づいた。十分に距離が近いから、手を伸ばせば叩ける。どうやらエズラもそれをわかっているらしいから、さっと頭を横に逸らした。しかしここでも、エズラの思考とノーヴの意図に齟齬が生じていた。何度も叩く事は、しない。代わりにノーヴは、彼の体を包むように、そして自身も包まれるようにして、優しく抱き付いた。
恐怖。そんな気持ちは、本当に正しかったのだろうか。そんな事を思ったけれど、それはノーヴにとって二の次だったから、目を瞑って疑問をかき消した。
湿っぽくて、ひんやりとも温いともとれる、絶妙な空気に包まれていたけれど、エズラが温かいから、あまり気にならなかった。やがてノーヴは彼から離れて、そして彼の肩口から滲んでいる赤い液体を見る。もしかして、自分の瞳から零れ落ちた何かと同じなのかもしれないと感じられたから、彼のも拭ってあげようと思って、ノーヴは白い衣の袖を、近づけた。確かに袖口は、エズラに触れたのだが、どうしたのか、「痛たた……」と言いながら体をよじらせて、彼はノーヴから遠ざかろうとする。顔を歪めてそんな事をいうものだから、彼女はすぐに、自分の瞳に起こった現象ではなく、自分の下腕や左脚に起こった現象と同じことがエズラに起こったのだと、理解した。人はそれを、”怪我”と呼んでいる。だから、彼女は直ぐに、『怪我のあるところに触れさせたりするんだ』という彼の言葉を思い出して、自分の傷ついた腕や脚から湧き出している白銀の液体が、紫色の光を放っている事を確かめる。
バラバラになっていた情報のいくつかが、ノーヴの脳内でくっついた。目まぐるしく繋がった欠片達はやがて、一つのはっきりとした形でもって、完成する。出来上がったそれに従って、彼女は次に自分がするべき行動を読み取り、エズラの肩口に再び近づいてから、「エズラ、動かないで」と、彼の行動を制限する。
熱を抱いた右腕を隠している白い衣の袖を捲って、痛々しい部分を外気に触れるように露出したノーヴは、エズラの肩口に、濃縮された白銀をポタリ、と上手に垂らした。一滴目は少しだけずれたけれど、具合をつかんで息を止めたら、二滴目が、しっかりと彼の真紅と混ざり合った。それは、エズラの肩口からにじみ出る真紅を弾くようにして、するりと染み込んでいった。
と、横からニョキっと出てきたズーの頭。彼女は、一連の行動を、興味深そうに傍観しつつ、沈黙に徹している。やがてエズラの傷口は、熱い火に水をかけた時のような、しかし、すごく小さい音を立てて、姿を小さくし始めた。しばらく彼の傷口は、シュウという音と一緒に紫色の光に包まれていたけれど、傷口が完全に消失したと同時に、色も消失する。勿論、赤も紫も。ノーヴ自身の行った行動による結果だが、驚いて、思わず口をぽっかりと開けて、それっぱなしにしてしまった。どうやらエズラも、自分の傷口がふさがった事を確認してからこっちを見て、驚いた顔をしている。だから、二人同時に滑稽な顔をしている現状を客観視的に想像して、次第におかしくなってきた。
途端にノーヴは耐えられなくなって、クスクス笑い出す。それにつられたのだろう、エズラもケラケラと笑い出した。
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