Damage

3.1 朧な恐怖

「あ、ノーヴ! どこ行くの!?」

 突然ノーヴが走り出したので、エズラはいつもよりも、工房で仕事をしている時よりも、ずっと凄い声を、腹の底から絞り出した。エズラにとって大切な彼女が、知らない森で迷子にでもなって、そのまま見つからなかったら、一生かかっても後悔を拭えないと思ったからだ。しかし、目の前の光景は、エズラにとって意外でもあり、認めがたかった。あのか細くて脆いノーヴの駆ける速度は、もはや追いつく云々で語れない位だったのだ。彼の視界で彼女が点になってしまうのは、数瞬も待ってくれなかった。確かに、彼女は人でなく、何らかの特別な存在であることは明白である。だから、彼女の持てる何らかの特別な力がそうさせたのだろうと、エズラは思いなした。

 息を荒げて膝に両手をつくエズラは、ノーヴが駆けて行ってしまった方向をぼーっと眺めて、「神様だからなぁ」などと、呟いてしまった。そんな事を考えている暇なんて、本当はないのだけれど。それだから、エズラは、ブルブル、と頭を大きく振り回す。そうして、取るに足らない考えを、どこかに吹き飛ばした。でも、今度は彼の頭の中で、格好良く『動くなよ』といったズーの声と、寂しげに『ううん』と言ったノーヴの声が渦巻き始める。

 眉毛に力を込めて、エズラは考える。その答えは、湿っぽい風が二~三回鼻を撫ぜる間に、ポロリと落っこちた。

 ズーにとってこの森は、庭のようなものである。対して、ノーヴは世界の事をほとんど知らない。エズラでさえ入り口までしか来た事がないこの森の地理など、彼女が知る筈もないのだ。葛藤するに値しない事だったと、エズラは結論付ける。そうして、大きく口を開けて、胸の真ん中あたりがかさつくほど、いっぺんに息を吸い込んだ。


「ノーヴ――!」

 顔をクシャリと歪めて、喉がヒリヒリするくらいに、叫ぶ。

 それは、木々を揺らしたように思えた。それは、草を押し倒したように思えた。それは、森全体に広がったように思えた。しかし、どうしてもノーヴに届いたようには思えなかった。だから再び、エズラの中で、悲しそうで仕方がない彼女のイメージが、フワフワと、浮かび上がってくる。そんな彼女は、『嫌いになった?』というエズラの問いに、無言で返してきたのだ。

 エズラは、殺して生きる自分達人間に、ノーヴが失望してしまったのかもしれないと、思った。もしかしたら、世界に対しての失望だったのかもしれないけれど。

 途端に、まるで天から押し付けられたように、膝から大地に崩れてしまう。皮肉にもエズラは、神様であろうノーヴの意志に、それこそ天上から押し付けられたかのような錯覚をも覚えてしまった。

 完全な、濁りのない、絶対的な負。大地に膝をつくエズラは、そんな負に、足をきつく縛られてしまって、少しも動けない。やがて負は、喪失感に形を変えて彼を好きなだけ蝕み、最後に悲しみを生み出した。


――君に、世界の色んな事、知ってもらいたかっただけなのに。


 あっという間に、涙が溜まった。人が人たる感情の滴は、溜まる事が出来なくなったのか、彼の意志を丸ごと無視して、ボロリと転がり落ちた。ちょっぴりしょっぱいそれは、何粒でも、頬を駆けた。でも、喪失感に蝕まれて、悲しみに寄生されている彼には、それをどうこうしようなどと思い至る余地はない。ただ、成り行きに任せて涙に好き勝手させるしかなかった。




 絶望が、延々とエズラの中身を蝕んだ。彼が行きついた先は、カラカラに干上がった心だ。それを裏付けるように、彼からは、もう涙など、いくらひねり出そうとも、出てこない。それほどまでに大きな絶望だったのだ。だから、何もかもがどうでも良くなって、彼は際限なくその場に滞り続けた。

 やがて彼は、バタリと大の字に寝転んで、木々の隙間から見える青色を視線でなぞる作業を始める。そんな事は、どうしようもなくバカバカしい事だと、わかっているのにも関わらず。

 そんな訳で、彼の赤くはれ上がった目はしばらくの間、青を取り込んでいたのだが、次第に青は薄くなってきた。ほんの僅かに明度が下がって、がっくりと、彩度も下がったのだ。要するに、青は灰色に変わった。空が曇って来たのだろうかと彼は思った。

 でも、曇天のそれとは少々様子が異なる。エズラは、事実にすぐ、気付いた。

 彼の視界に広がる灰色は、張り付けられた雲なんかの仕業では無く、”今ここに揺蕩う雲”だった。道理で、先ほどから空気が湿っぽい訳である。埃が水を溜めこんで、それが目いっぱいに飽和している。だから彼は、この場所の名前にピンと来る。

 ここは、霧の森。空に漂うそれが、地を這う場所だ。

 大の字で天を仰ぐ彼は、上半身だけを、か弱い腹筋を使ってよいしょ、と持ち上げ、両の腕で支えた。頭を可動範囲いっぱいまで左右にゆっくりと振ってから、自分の視界が一〇ヤード程先すら捉えられなくなっている事に気付く。以前だったら、このような状態に陥れば、確実に恐れに縛り付けられて動けないか、木の陰に這いずって行って、震えているだろう。だけど、今のエズラは、そうではない。自分の中でたいそうな割合を占める恐怖が、喪失や悲しみにのまれている。だから、今のこの状況を前にしても、大切なノーヴの事は愚か、自分の身の事すらもどうでも良くなってしまっているのだ。それとも、自身よりもノーヴの方が大事であったからこそ、彼女に失望されたという事実が、常に保身に走るスタンスを掻き消したのかも知れない。兎角エズラには、どうして動く気持ちになれないのか、不思議でしょうがなかった。

 瞼を少しだけ、細める。するとなぜだか、てっぺんでザワザワとうるさい葉っぱが、良く見えた。

「あーあ。僕は何やってんだろ」

 きっと、心のずっと深い部分から出てきた本音なのだろう。エズラは、自分の言葉をかみ砕いて、本当にその通りだと思う。喪失や悲しみの巣窟となった精神は、未だにそんな事を考える余裕を残していたのだが、価値がある訳でもなく、結局事態は変わらない。

 視界の隅っこでユラユラとたゆたう葉っぱを掴もうとして、手を伸ばしてみる。だけれど、当然手は、空中でもがいただけだった。そんな時、彼の耳は、確かに何かの音を拾った。どこかで、カサカサと、囁いたのだ。

 エズラの心の中で、飛んだり跳ねたり、時には広がったり掴んだりしてくる陰鬱という抽象は、一旦だけれど、抑圧される。もしかしたらノーヴかもしれないと、彼は耳を澄ませた。耳に忍び込んできた音は、記憶と照らし合わせるまでもない。草を踏む音だ。エズラが推察出来る事は、何者かが彼の何ヤードか先にいるという事だ。

 カサカサ、と言う音が、大きくなってきた。そこで彼は、気付く。

 明らかに、ノーヴではないと。

 なぜなら、ノーヴは一人であるからだ。一人でなかったなら、気配が重なる事はない。それに、彼の背後や左右から、そういった音は聞こえてこない。更に、音は耳に”忍び込んできた”のだから、気配の意図は、明確だ。即ち、意図的に音を小さくしているからこそ、そう聞こえたのだ。まるで獲物を仕留めんとするズーが移動する時のような、音が。

 ブルリ、と背中が震えたら、野太くも、甲高くも、美しくもある野生の遠吠えが、彼の嫌な予感に二重丸をつけた。重みのある遠吠えは、一度始まったかと思えば、次々に連鎖してゆく。だから、まるで遠い国から来た楽団の演奏会場のようになってしまった霧の森の奥深くで、エズラはハハッ、と、息にしかならない位小さな声を漏らすしか、出来なかった。

 エズラが周囲を判別する方法は、聴覚や嗅覚や触覚が残されているのだが、どれもは、たくましき野生の彼らに遠く及ばないだろう。だからこそ、恐らく立派であろうオオカミ達が、視界のほとんどを奪われているにも関わらず、こうして彼を囲んでいるのだ。

 絶望が、全速力で突っ走って、ゴールした。

 それでも『何もかも、どうでも良い』という何者かの囁きによって、どうにかしなければいけないというエズラの気持ちは、踏みにじられる。悪魔は、全然容赦をしない。やがて、諦観という名前の軍隊が、彼の心で領土を一気に拡大させてしまった。とうとう彼は運命に服従する事を決意して、瞼を閉じる。

 息を吸ったら、湿った感じが、肺の中まで伝わってくるみたいだった。


――ごめんねノーヴ。世界のいい所を見せてあげられなくて。


 エズラの生死を分ける審判者達は、彼の想いや運命などに興味はないだろう。当然の話だ。生きる者が生を欲するという事は、無慈悲であるのだ。

 確かに、思考する者に情はある。しかし、オオカミ達にとってエズラは、情を向ける対象たり得ない筈だ。情が深いと思しき人間と比較して、野生の彼らはことさらに、そんなものに生産性のかけらも見出せないし、見出さない。故に、彼らは容赦をしない。絶対にエズラに容赦など、してくれる道理がない。

 エズラは、ひっちゃかめっちゃかになっている自分の思いへ、繰り返し耳を傾ける。最後の瞬間まで、ノーヴに懺悔して、でも、楽しませてくれた事に感謝をしたかったからだ。同時に、妙に引っかかりがある事に、違和感も覚えていた。なぜかと言えば、諦めるなら、こうして懺悔や感謝といった複雑な感情は、芽生えないと考えたからだ。諦めたなら、考えるとか、思うとか、そういう事は無駄な事だ。ただ、静かに、死を待つだけで良いのだから。

 目を開けた。

 どこかから光を拾ってきた大きな霧が、あちこちでキラキラとウインクしてきた。でも、眩しくはなかった。灰色で重い感じだけど、綺麗に瞬いた光を、ノーヴにも見せてあげたいと、心底願った。

 途端に、四肢に熱が通った事を、確かに感じ取った。まずは手足の指先が温かくなって、上に上がってきたかと思えば、今度は顔が火照った。湿気った空気との温度差か、鼻先だけは妙に冷たく感じられた。


――僕は、やっぱり諦めていないんじゃないか?


 未練がましく彼女に懺悔して、挙句、感謝までしているエズラ。諦めている訳がないという本当の気持ちに、すぐ気づいた。だったとしたら、今にも飛びかからんとする野生を打ち破ってでも、彼女を見つけ出して、世界の良い所を見せるべきではないのかと、彼は思い切り立ち上がる。

 とっくに遠吠えは終わっている。エズラの精神も、次の段階へ移行した。

 審判者達はいよいよ、血肉を貪り、そして自分の生へと還元するだろう。対してエズラは、自身の生を紡ぐために、抗う決心を固める。

 既に何歩か、審判者らに譲っている。ノーヴへの諦められない気持ちをぬぐっている間に、彼らは準備を終えていた。更に、大切な少女が危険に晒されているかも知れない間に、彼らはいよいよエズラに飛び掛かろうとしている。ならば、やるべき事は、一刻も早く後手に回った事実を返上しなければならない。一歩でも審判者達の先手に回る為に。一歩でも紫色に光る少女に追いつく為に。

 カツ、と、手先に硬いものがぶつかった。見れば、黒金の鉄砲が鈍く光って、良好だと、エズラに教えてくれた。




 エズラは出来る限り音を立てないように、出来る限り素早く黒金の鉄砲のボルトを目一杯まで引く。彼は腰に下げた茶色の弾薬鞄を見ないでまさぐって、中から一発を取り出して、銃が覗かせた内部機構にそれを滑り込ませた。彼の持っている黒金のライフルはオート機構が搭載されていないので、この一発は緊急用として使うつもりなのだ。従って、彼がオオカミ達と牙を交える手段は、何の例えも無く、その黒金のライフルの銃身である。

 再び彼は、ボルトに手をかける。この場に流れるあらゆる抽象的概念の中で、自分の気配だけを巧妙に選び出してからそれを抹殺して、これでもかと湧き上がる、完全にシェードのかかった正体不明の感情の高鳴りを無理やりに押さえつける。

 そして、ゆっくりと。誰にも気づかれないように、自分の体を支える二本の脚に、彼は力を徐々に徐々に送り込んで、立ち上がる。

 次の瞬間、エズラは黒金のライフルのボルトを一気に定位置に戻した。

 金属同士がかなり少ない抵抗で、しかも高速で滑る音がしたかと思えば、ボルトと銃の内部機構が接触した瞬間にガチンという爽快な金属音が三六〇度放射状に広がっていった。

 それが、合図になる。

 エズラの真正面。正確にはやや彼の右手寄りから、審判者の鼻先が、視界をシャットアウトする霧を押し潰しながら、彼に鋭く、そして乱暴に突進してくる。

 やがて鼻先は、それが押し潰して作った霧の隙間から審判者の一部である無彩色の体毛をねじ込ませて、無彩色の体毛は、幾度となく審判者の獲物を分解してきた鈍い白の牙をそこに導き、そして牙は、霧を乱暴かつ強引に切り裂いて審判者の双の眼をエズラの前に突き出した。

 いよいよ、審判者たるオオカミの体がエズラの目の前で披露される。それの頭部は恐らく、極めて正確にエズラの頭――いや、首に向かって鈍い白の牙を押し付けてくるのだろう。

 けれど、エズラは行動の最中であった。

 鼻先が霧の隙間から見えた時点で彼は、既に振りかざしていた。体の重心を目いっぱいまで低く、低くして。

 エズラは、自分の体を沈ませた反動で、腰のあたりにあったライフルの本体を、銃口を持ち手として斜め四五度前方に、右から左に向かって振っていたのだ。

 だから、迫る灰色のオオカミの鼻先が霧を押し出して、体毛が霧をかき混ぜて、牙が霧を切り裂いている段階で、エズラの黒金のライフルの持ち手は、限りなくオオカミの灰色を真横から薙ぐ形で近づいていた。結果として、それの双の眼がエズラの視界に入った時点で、重みのある黒金の本体は、オオカミの頭部に力いっぱい衝突する。

 ガツン! という鈍い音が響いて、エズラに迫りつつあったオオカミは惰性で彼の体にのしかかった。しかし、そのようにしようという意志がオオカミにあった訳では当然ないだろう。だから、エズラの体の上の方にある灰色の大きな塊は、勢い余って、エズラをすり抜けるようにして後方に転がった。

 転がったオオカミを、エズラは直ぐに追撃する。オオカミも、すぐに崩れたバランスを持ち直してエズラに突進しようとする。

 だが、オオカミは殴られていて、しかも吹き飛んだ体を立て直さねばならないのだ。そうしている内に、既にエズラは頭上に黒金のライフルを振りかざし、それを、一気に振り下ろした。

 一瞬、黒く光った。エズラの瞳は、それを受け取った。


 再び、痛みや重みと言った事を連想させる音が響いた。しかしエズラは止まらない。それだけで相手の動きを停止させられるなどと、彼は思っていないのだから。

 一発、二発、三発、四発。そして、五発。

 エズラが振り上げて、そして振り下ろす黒金のライフルは、彼の腕の動きに従順に追従した。だから、幾度となくその体を灰色の塊の頭部にぶつける事になったのだ。最後の一発は、動きが鈍くなったオオカミをほとんど停止させるに至った。その証左に、頭を下にしてオオカミはぐったりとしだした。

 恐らく、オオカミはまだ生存しているのだろう。しかし大変正確に、それも渾身の力を込めて振り下ろされた鉄の塊の暴力を前に、オオカミの頭部は耐えられなかった様子である。生ものの香りが、エズラの鼻を刺激した。

 死の迫るオオカミの近くで、全く警戒を緩める様子を見せずに、エズラは腰を低くした。耳を澄ませば、彼の周囲では未だに、あちらも警戒している様子が感じ取れる。だからこそ、草を静かに踏み躙る音がこの空間を支配しているのだ。

 ふとエズラは、自分の皮膚の表面を万遍なくなめまわしてくる生暖かい感触を覚えた。彼はそれをすぐに理解した。視界を埋め尽くす霧が薄くなっている。いや、正確には、霧が高速で揺らめいて、それから吹き飛んでゆく。つまり、風が出てきたのだ。

 霧は、一定方向に通り過ぎて行く生暖かい風によって、左右に揺らめいては過ぎ去ってゆく。時には木にぶつかって、その本体を二個、三個に分裂させながら。だから、濃い霧が遠くから運ばれてきたり、薄い霧がひょっこりと現れたり、亀裂が広がったりして、彼の視界は平均的に、少しだけ向上する。と同時に、恐らくオオカミ達の嗅覚は低下して、エズラと同じように視界が向上したのだろう。

 転機か、否か。それはエズラにはわからない。とにかく、一刻も早くここから脱出し、ノーヴの下に向かわねばならないのだ。

 生暖かい風は、エズラの全身から染み出したべっとりとする濃い汗を乾かしてなどくれない。ただ彼の中では、研ぎ澄まされ過ぎた五感や精神によって、濃い汗がにじんできている感覚など、ほとんど埋没してしまっている。それが向けられる先は審判者なのだから。握ったライフルが少し滑ったから、何となくは気付いている、という位だった。

 灰色の霧の亀裂。

 彼は、生暖かい風が作り上げたそれの先に、一匹を見た。それは、どこの光を集めたのだろうか、黄色くギラリと輝く瞳をエズラに向けて、外さない。しかもオオカミは、体の進行方向をもエズラに向けている。今まで彼の周囲をぐるぐる回っていたと思ったのだが、そいつだけは彼を、黄色に輝く瞳でしっかりと見据えてくるのだ。

 行動しなければ、悲惨な結果は明白。

 今度は、黒金のライフルの重心を自分の体に引き寄せるエズラ。ライフルの、ライフルたる最も重要な機構が詰まった部分が、彼の体に密着した。がっちりと抱え込むようにしてそれをホールドしたエズラは、ストックを肩にぎりぎり押し付けて、光の塔で初めて未知の扉を前にしたとき以上に慎重に、標的に弾道の軸を合わせる。正しくは、標的の頭部の中心に。

 ゆっくりと、オオカミは近づいて来ている。しかし、全身の筋肉を収縮させ、それを一気に解放した野生の審判者の秘めたる力は、圧倒的という言語以外で表現できるものなのだろうか。エズラはその現象を前にして、何瞬か、反応を停滞させてしまった。

 余りにも迅速である。見るからに警戒した調子でこちらに迫って来たかと思えば、灰色の塊は彼の視界で、本当にその通りに見えるよう、動いた。ただ、二つの黄色の閃光は、嫌みな程に目立つ。それこそ、エズラの生命を奪うと宣言しているような嫌み。

 数瞬遅れたと言えども、彼の魂の行く先を分ける一発を外す事など、絶対に有り得る事ではない。二発目の弾丸を込める時間は、恐らくないのだから。

 灰色の面積が、エズラの視界に即座に広がって来た。同時に、黄色い死の輝きも、彼の視界で目立とうと、でしゃばる。それでも彼は、手にじっとりと汗をかくだけで、絶対に一歩も動く事はしないと決めていた。だから、その通りになる。彼を動かす事など、野生の審判者に出来る事ではないのだ。

 それは、乱暴だが、余韻は繊細だった。綺麗な部分だけを残して、音はエズラを中心に広がった。

 エズラは迫りくる黄色と黄色の間を、心をぶれさせる事なく、非常に丁寧に撃ち抜いた。放たれた一発の凶器は、柔らかくも頑丈なそれの体毛をかき分けて、やがて堅牢なそれの皮を引き裂いて、頭蓋にポツリと穴を穿った。行きつく所は、生命が生命たりえる重要な機構。勿論弾丸は、それにも大穴を穿ちながら、衝撃をまき散らす。だからこそ灰色の塊は、自身の発生させた速度を殺す事も出来ずに、また、目的とする事も当然達成できずに、自然の摂理に従順となって大地に転がった。

 しばらくは、それは亡霊のように左右に頭を振ったり、手足を無理やりに動かそうともがき散らしていたが、やがて亡霊はどこかに過ぎ去ったのか、とうとう抜け殻になってしまった。エズラは自分でそのような状況を作り出したのだが、一切迷いなどなかった。迷ってなどいられないのだ、一歩でも間違える事があったなら、彼もやがて抜け殻となってしまうのだから。

 いや、抜け殻さえ、彼らは残してはくれないだろう。

 オオカミが眼前で死亡した事を確認して、抜け殻に近寄ってから屈んだエズラは、まだ周りに生を持ったそれらが徘徊している状況を一気に打開したかった。少しの時間のロスも惜しい、ノーヴは遠ざかっているかも知れないのだから。故に彼は、これ以上それらとやり合う事は無意味な事だと思って、どうにかして脱出できないか考える。そうしながらも、少しチャンスができた事で、――彼の思考と矛盾があるようだが――再び弾薬鞄から取り出した一発を黒金のライフルに込め直せた。

 今度は、ボルトをコッキングしてもオオカミ達の内の一匹が飛び掛かってくるような事は無かった。先ほどの一発の小気味の良い音は、彼らにとって禍々しいそれだったのかとエズラは思った。

 相変わらず、生暖かい風は彼の前から後ろに向かって、それなりのペースを維持しながら吹いているが、オオカミ達は先ほどのようにペース良く彼を仕留めようとかかってこない。考えてみれば、人間の放つ大きな音は、彼らにとっては警戒に値して然るべきなのだろう。彼らだって、命を懸けて戦うのだ、エズラと同じように。だからこそ、チャンスがあればかかってくるだろうし、危険を感じたら退くだろう。つまり、駆け引きをしているのはお互い様なのだ。

 そう考えて、再び霧の切れ目を探し続けるエズラ。オオカミが見当たらない。もし発見できれば、それはそれで望ましくはないが。

 と。突然にして、霧の移動する速度が向上する。どこかで発生した空気の壁が、いっぺんにエズラやオオカミ達のいるエリアを吹き抜けていったのだ。それだから、このエリアで彼らの視界を阻んでいた霧は、次のエリアを支配せんと座標を変えた。当然、それと同時に彼らの視界は回復する。まだいくらかの霧が残っているものの、少なくとも人間の視覚にたいした障害にならないレベルにまで、霧の量は減った。

 すぐさま体を左右にねじりまわして、エズラは周囲を確認した。すると彼は、丁度自分の背後に二匹のオオカミがいる事に気付いた。そのオオカミ達は、先ほど牙を交えたそれらよりも、若干ばかりたくましさが劣るように、エズラには感じられた。そこから彼は、恐らくこのオオカミ達はまだ大人になり切っていないであろうと推測する。

 といってもエズラも大人ではないのだ。問題はそこでは無く、残ったオオカミ達が、先ほど生死の駆け引きを行っていたそれらと比較して、明らかに好戦的でないと伺える事だ。エズラはそれを察知できる。色々な感情が漂う、生死の駆け引きを行ったのだから。極限まで研ぎ澄まされていた彼の精神は、それを理解すると、すぐに彼の四肢を操って行動させる。


「おらあぁぁぁ――――!」


 バカになってしまったのかと思う程に、大きな声を張り上げて、エズラは手に握った銃を振り回した。彼は出来るだけ自分を大きく見せようと、眉間を皺くちゃにして、大きく手を開いて、前のめりに、且つ慎重に、オオカミ達との距離を一歩一歩縮めた。彼の中での確信は、どうやら真実であったらしい。

 それを見るなり、黄色に輝いて宙に浮いていた四つの光は、すぐにエズラの視界から消え去った。たくましく、そして流麗な動作で。

 エズラは、オオカミ達が去った事をたっぷりと時間をとって確認した。時間が惜しい彼であるが、自分の身が朽ちてしまっては、大切なノーヴを追う事すらかなわないなど、説明する必要もなく理解しているからだ。どどっと、疲れが彼の全身を絡め取るようにしてなだれかかって来た。筋肉がエネルギーを生成した代償として、疲労の塊をまき散らした事もそうであるが、針先のように鋭く鋭くとがれた彼の精神は、引き換えに、安堵という疲弊を生んだのだ。

 かといって、彼はこんな所で、グズグズするつもりなど、一片もない。ノーヴの下に行かねばといった使命感は、彼の中でやっと広がれた疲弊を蹴散らして、彼の体に再びエネルギーをみなぎらせる。

 両の腿をパチン、と二回叩いてから、エズラは走り出した。風を切り裂きながら、人はここまで強くなれるものなのかと、彼は一驚を喫した。

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