2.5 抜け殻

 ノーヴは、側頭部から鮮やかな赤一色を垂れ流すイノシシの下に到達するや、それの正面で座り込んだ。そして、どうして抜け殻が、”そういった有様”を見せつけて来るのか全く理解が追い付かなかったので、彼女の中でトグロを巻いて蠢いている謎を解き明かす為、誰を対象ともせずに、問う。

「これは、どうして動かないの?」

 エズラもズーも、彼女の問いに答えてはくれない。一体なぜなのか、ノーヴには理解出来ない。とにかく、目の前の抜け殻は、いつまでも”そういった有様”を保ち続けている。

 赤い色に、茶色い色を見ていたら、ノーヴに影が重なった。気付いた彼女は、自然と頭を上げる。その半ばから、音もなく接近できる人物の事を考えていたから、案の定、影の主がズーであったと、頭を上げ切った段階で確信した。

 ズーは、ノーヴを見下ろす。

「それは、死んだから動かないんだ。死ぬというのは、無くなるって事だ。自分とか、意識がね。喋ったり動いたり感じたりも、しなくなる」

 ズーはきっと、何も知らないノーヴの事を思ってか、かなりやんわりと言ったのだろう。なんとなくではあるが、ノーヴにはそれがわかる。

 そして、ズーの言っていた『死んだ』という事も、ノーヴの中でプカプカと浮いた感じではあるが、理解できた。だから、彼女はその先を聞きたくなって、再び頭を『死んだ』イノシシに落として聞く。

「死んだら、死んでないに、戻らないの?」

「どんな事情があっても、死んだ者は元には戻らない。死んでない者は、生きているっていうんだ。ノーヴは神様だから、生きているか死んでいるかはわからないけど、私やエズラやヘファイス、それにこのイノシシだって、死ねば元には戻らない」

 ズーは質問に的確に、即座に回答してきた。

 自分がもし”神様”だったら、死んでたり生きてたりしないのだろうかとノーヴは疑問に思ったのだが、それは二の次である。『死』という概念が途方もなく空虚で、哀しくて、寂しいという事だけが、鮮明だったのだから。空虚な『死』を理解したら、心の底から湧き出てきた重くて、鬱陶しくて、暗い感情を押し殺す事に、精一杯になってしまった。

『死ねば戻らない』。ズーはこう言っていた。そちらも引っかかる。だからノーヴは、『死』という概念が、一体何であり、どのように発生するのかが気になって、物知りを見上げる。

「どうして、死ぬの?」

 恐らくはエズラよりも物知りで、明快に説明ができるズーは、どうしたのだろうか、「うーん」と、唸ってしまった。ノーヴは死んだイノシシから再び視線を外して、何とも表現できない顔で緑の帽子を弄るズーを、じっと見つめる。きっと、一生懸命考えているのだろう。

 やがて緑の帽子が、動いた。

「お前は難しい事を聞くなぁ? 生きてる者は、体に生が宿ってる。体が壊れてしまえば生は無くなって、死ぬんだ。私は、このイノシシの体を壊した。だから、イノシシの生が無くなって、死んだ。そして私は、食べないと体が壊れてしまう。だから、食べる為にイノシシを壊した。納得してくれたか?」

 いくらか、ズーはわかりやすく説明してくれた。エズラだったら、うーんと唸って、それからずっと唸り続けていた事だろう。ノーヴは、自分が食べなくても”壊れない”事を知っていたので、神様じゃない者達はなんて脆いのだろう、と思う。そしてエズラを見て、そんな脆い彼と共に過ごす為に、脆くない自分が守ってあげないといけないという使命感すら感じてしまった。

 エズラは終始黙っていたが、ノーヴの視線を受けてから、顔を歪める。彼が一体どうしてしまったのかなんて、ノーヴには絶対にわからない。とにかく彼女は、初めて世界に生と死の概念がある事を知り、自分にとって尊いものの存在を再認識した。


 それからしばらく、木々の騒めきだけが流れる。ノーヴの中にも、”何か”が流れた。しかし彼女には、それが何だか、わからない。

 ノーヴは、肢体や心の中までも纏わりついてくるそれを表現出来ないと思ったから、感じたままの活動を展開する事とした。つまり、彼女は場の流れに合わせて、一切口を動かしたりしない事にした、という訳だ。

 そうしている内に、ズーが黙ってイノシシの手足を縛りあげて、「ほら、手伝え」とエズラを見て言ったものだから、エズラはあたふたとしだした。そんな彼の動作は、ズーに比べていちいち洗練されていなかった。

 それにしても、どうもイノシシは結構重量があるらしい。ノーヴは、鉄のカケヤを持ったり、弾丸の入った木製のケースを運んだりした事があるから、重さという概念を理解していて、視覚を頼りにそう思った。エズラはそれの後ろの足をもって、ズーに引っ張られるようにして移動している。そんな彼の動きが何とも滑稽で、ノーヴは思わずクスクスと笑いたくなったのだが、先程の『死』の話が人間にとってどうやらタブーであったらしい事を思い出したから、慎んだ。

「いつもなら、解体するんだけどな。……事情だからな、ちょっと町に戻って木車をとってくる。お前ら、動くなよ」

 いつもなら解体するのに、どうして今は解体しなかったのかという疑問が、ノーヴの脳内を駆けた。どうしても聞きたいと思ったが、やはり『死』の話題が発生させたのだろう空気の為に、ノーヴはだんまりを決め込む。

 エズラはズーの発言に「はい」と比較的明瞭に答えたが、ノーヴから見れば、心なしか元気がないようである。ノーヴの知っている彼は、いつもなら工房にいる時のように、とても大きな声を張り上げる筈なのに。

 ズーは、先ほどの狩りから想像も出来ない程に普通な様相で、スタスタと歩いて行ってしまった。それだから、背中にのしかかってくる謎の重圧に、ノーヴはただひたすら耐えるしかなくなってしまった。ズーがいれば、色々な事を話すから、ちょっぴり気が楽なのだ。

 堅牢な太い縄で手足を縛られたイノシシの近くで、「よいしょ」と言いながら座ったエズラは、ふいにノーヴの顔を見て言う。

「僕達は生きる為に、殺さないといけないんだ。殺すっていうのは、生きるっていうのを奪う事なんだよ」

 どうやらエズラは、『殺す』という事をノーヴに教えたいらしい。彼の言う『殺す』は、密度の高い話なのか、彼の顔を少しだけ曇らせた。

 エズラは曇った顔のままノーヴを正面から見据えて、

「僕達のこと、嫌いになった?」

 と続けた。


――そんなこと、ない!


「あ……」

 ノーヴの心が瞬時に乾いたから、喉をつっかえて、発声を滞らせてしまった。彼女にとっての人間――エズラは、言葉にできない程に楽しく、嬉しく、そして尊い。だからこそ、彼の疑問に否定するべきなのだが、うまく言葉が出てこない。

 直後、ノーヴは自分自身に、”嫌悪”を覚えた。

 不思議だった。エズラの事は尊いと思ったのに、そんな彼に親切にされた自分は、自身を嫌悪している。彼は、本当にどうして、人間でないだろう自分にここまで親切にしてくれるのだろうか。ノーヴはそう考えだしてから、本当に彼と共に同じ時間を過ごす事が、尊い彼にとって良い事なのだろうかと思ってしまう。つまり、自分を嫌悪するような彼女と、大切なエズラが一緒にいて良い筈がないと思ってしまったのだ。

 それだから、彼女は駆けだした。

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