2.4 霧の森
ノーヴが工房で寝泊まりするようになってから、数週間が過ぎた。
エズラは休日が来ても欠かさずに工房に来ている。しかも彼は、仕事がある日は必ず、鐘が町に鳴り響いても家に帰らなかった。
なぜなら、彼にとってノーヴと共に過ごす時間は極めて大事であったし、ノーヴ自身も彼といると出会った当初よりも遥かに輝いて見えるのだから、無下に彼女を一人にすることはないと、考えたからだ。でも、へファイスは昼夜問わずに工房へと入り浸っているから、もしかしたらノーヴは、寂しくないのかもしれない。
ノーヴは、色々な事を覚えた。それは抽象的なものだったり、理体的なものだったりする。エズラの身近にある事をとってみても、例えば、工房での仕事の手伝いを進んで出来るようになった。例えば、太ったおばさんの店に、三人分の食事を購入しに行くようになった。例えば、ヘファイスの汗を見るなり、進んで拭ってあげたりした。
そういった経験を繰り返しながら、徐々にノーヴの中の、人格らしきものが濃くなって来た事を、エズラは知った。だから彼は、少し前にズーにお願いをして、霧の森での彼女の狩りを手伝う約束を取り付けたのだった。
要するにエズラは、ノーヴに世界の事をもっともっと知ってほしかった。
「エズラ。今日は、どこに行くの?」
ノーヴが、訪ねてきた。彼女は、エズラの外行きの格好を見るなり、見るからにといった感じではしゃぎだす。ワクワクが、顔に張り付いて見える。それは彼女が、外行きの格好とそうでない時の格好の差異をきっちりと理解して情報を分別し、自分も一緒に外出できるかもしれないと、期待をしている証左だろう。
だからエズラは嬉しい。彼は出会った当初、彼女の持つこんなにも明確な人格や知識を読み取れなかったのだから。
「今日は霧の森でズーさんの狩りの手伝いをするんだよ。鉄砲で獲物を仕留めて、それを持ち帰るんだ」
ノーヴは「ふーん……」などと言っていたが、それがどういう意味だか、詳しい事はわかっていないだろう。
とにかく、実際に行って体験した方が早いとエズラは思ったので、「行けばわかるよ!」と言って彼女に微笑みかけた。エズラは、神様でもなければ、賢者でもない。寧ろ愚者なのだ。だから、経験的に学ぶ方が良いと、彼は知っている。
工房の外を眺めていたら、出入り口の隅っこから頭だけひょっこりと出したズーが現れた。彼女は緑の帽子をかぶっている。彼女が狩りをするときは、必ずこの帽子を被っている。
町一番の狩りが見れると歓喜したエズラは、飛び跳ねる。
「おいガキンチョ、騒いでどうした? ほら、準備出来てるなら行くぞ」
ノーヴもその言葉の意味を理解している様子で、ズーのそれを受けてから妙に嬉しそうに、手を口にあてて笑い始めた。
「おーい、弾丸入れ忘れてるぞ!」
休日にも関わらず、相変わらず工房の奥に引きこもっていたヘファイスから、エズラは忘れ物を指摘されてしまった。それだから、慌てて弾丸入れをひったくって肩にかけた彼は、「ありがとうございます!」とヘファイスに言ってから、「行ってきます!」と二の句を継いだ。
エズラの右ならえだろうか、ノーヴもぺこりと頭を下げて、小さな声で「行ってきます」と、告げていた。
町の南の方角にある広い森が、ズーの狩場だ。だから、比較的南側にある工房からそこへと向かうのには、そんなに時間はかからなかった。その証拠に、既に一行は、石畳が続く町の景色ではなく、周囲に比較的まとまりのある感覚で立ち並ぶ木々や、非常に背の低い草が辺り一面を覆い尽くす景色に囲まれていた。
ズーを先頭にして、エズラとノーヴはその後に続いた。ノーヴに放浪癖がある訳ではないのだが、いつも移動する時は、エズラは彼女と手をつないでいる。
一方的にノーヴの手を引っ張るエズラは、神様がどこかに行ってしまう事を懸念しているのだった。彼女は、外の世界について知らない事が多すぎる。そんな事実を知っていれば、誰でも彼女から離れてはいけないと思うだろう。
凛とした調子で歩いていたズーは、何かを発見したのだろうか、突然にして歩む速度を遅めた。それを受けて、エズラも彼女に倣った。突然停止したエズラが悪いのだが、どうやらノーヴは前を見ていなかったのか、ゴツンと彼の背中にぶつかってきた。見れば、身をかがめて、歩みを遅くしている。
ズーが、何やら集中した様子で、振り向かずに、小声で言う。
「音をたてないで構えろ。木の後ろに、いる」
エズラは、彼女が千里眼か何かを持っているのではないかと思って、目をぱちくりさせてズーをまじまじと見つめてしまった。どうやら彼女は、狩りの素人のエズラには全く理解できなかったのだが、どこかしらの木の背後に獲物がいるのだと、見透かしているらしい。
とにかくエズラは、『構えろ』と言われたのでその通りにするが、そうしてから、黒金のライフルのボルトを引いていない事に気付いて、あたふたしてしまう。
そんな自分の間抜け具合と、町一番の狩り人の一挙手一投足を見比べていたら、急に自信がかすんでしまったから、エズラは、ズーに任せようと、潔く決心するのだった。
ズーの動きが、何かの機械で出来ているのだろうかと、エズラに錯覚させる。彼女の頭に乗っている緑の帽子は、全くブレがないのだ。また当然のように、彼女が構えるヘファイスの鍛えた銃の先も、微動だにしない。その矛の先は、標的がいるであろう大きな木に向いている。
ズーは、そんな状態を維持しながら、音も立てずに、まるで精密機械のように、加えて、びっくりするような速度で前進して行く。彼女に狙われた獲物に、エズラは同情する。
完全に、町一番の狩り人に置いてけぼりにされているエズラとノーヴであったが、手伝いという名目で参加させて貰っている以上は、ズーの補佐をしなければならない。そう考えて、エズラは心から湧き出てきた焦燥に背中を押されるようにして、必死に狩り人の背中を追う。
流石に、ズー程とまでは行かなかったが、光の塔に侵入し続けてきたから、音を立てずに、それなりの速度で、標的に死角を提供しているらしき木へと近づくことに成功した。ここまで距離が縮まれば、緊張感も比例して大きくなってゆく。
と、突然にしてズーは、いつから持っていたのか、拳の半分ほどの大きさの石を、木の右あたりに転がすように投げた。勿論、この時の彼女も、精密機械の如き動きだ。
それを機として、木の陰に隠れていたであろう『何か』が、明らかに人間のものでない瞬発力と速度でもって、石から逃れるように、左側へ飛び出してきた。
ただ、エズラの視界の中で、黒い影が、動いただけ。たったそれだけしか、エズラには把握することができなかった。
しかしズーは違った。
パン! という小気味の良い音の、最も気持ちいい部分だけが、霧の森へとこだまする。かなり大きい音であったそれは、乾いていて、鮮明で、エズラの緊張感を開放するかの如く、爽快感を延々と残し続けた。
今まで生きていたであろう『何か』の抜け殻に、エズラは近づく。それは、イノシシの類であった。
イノシシの為の死角を提供していた木から、二ヤードも離れない位置で、血を流して転がっている。たったの二ヤード以内で獲物を停止させたのは、やはりズーの動体視力が半端なものではなかったという証左だろうか。
口を半開きにして、エズラはズーを見つめる。すると彼女はクルリと振り返って、エズラの顔を見てから、「フフッ」と、いつもの冷静な調子で笑った。
エズラにとって、ズーは憧れの的である。そんなズーの勇士が見れたから、今日はとても良い日といえる。
抜け殻を眺めていたら、トコトコと、ノーヴも近寄ってきた。
「どうしたの?」
エズラは、ノーヴを見て問う。しかし彼女の目線の先には、相変わらず血だまりに伏した、抜け殻だけだ。
ノーヴは一切エズラに興味を向けてくれなかったから、諦めて、しばらく肩を並べつつ、一緒に抜け殻を見ていた。
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