宣告

2.1 離脱

 生ぬるい風が運搬してきた、緑や土のふくよかな香り。それを、エズラは確かに嗅ぎ取った。

「……! エズラ!」

 同時に彼の聴覚は、かすかな声を拾う。

 それらに完全な覚醒を促されて、エズラは瞼を開く。すると、顔からかなり近い位置で、風に揺蕩う白い線があった。未だはっきりしない頭が視覚をはばかったが、余りに白くて綺麗な線だったから、彼は、寝ぼける意識を無理やりに引っ張り起こす。

 ノーヴの顔が、ある。

「ぁ……ぅわ!」

 叫んで、しかしその場で動きを止める。どうやら白い線は、エズラの顔の前で、彼女の柔らかそうな髪の毛がなびいたから見えたものだったらしい。しつこく体へ残るちくちくとした痛みに唸りをあげている暇など、彼にはない。か細い少女を抱えて大穴に飛び込んだ自分は褒めてやりたい所だが、本来なら、いちいち驚く方が、らしいのだ。

 瞬間的に拍動を増した心臓へと両手を当てて、とにかく落ち着こうと取り計らう。そうしていると、ノーヴが覗き込んできた。

「エズラ。慌てて、どうしたの?」

 相変わらず、ノーヴの白い髪の毛と、可愛らしい顔が、エズラのすぐそばから離れない。距離がとても近いものだから、彼女の吐息が顔にかかってきて、エズラはどうしようもなくなって、深く目を瞑った。

「ト、トラキアの兵隊が塔に勝手に入ったんだ。君が見つかったら、きっと連れていかれちゃう」

「変なの。エズラだって、勝手に塔に入って、私を連れてきたのに」

「……確かに」

 仰る通りである。しかし、事情が事情だ。エズラは、トラキアの凛々しい軍人の顔を思い出して、この場所で長々と話すよりも、工房に戻るべきだと思いなす。瞑っていた目を無理やりこじ開けて、全身に力を込め、器用にノーヴを避けつつ、体を起き上がらせた。

 勢いよくそうしたからだろうか、ノーヴはか細くて小さい手を、自分の胸に押し付けて、大きく仰け反った。妙な形になったから、エズラは笑いたくなったが、それどころではないと、何とかこらえる。

「とにかく工房にいこう」

「工房に、行くの? やったね」

 ノーヴは小さく跳ねた。どうやら彼女は喜んでいるらしい。エズラの心配とは裏腹に、神様は人間の事情などお構いなしのようだ。

 ともあれ、ノーヴと時間を共にするのは休日だけであったので、こうして平日に出会った事が、彼女は嬉しいのだろうか。そう思ったエズラであったが、よく考えてみれば、彼女には時間の概念があるかどうかわからないので、単純に言葉通りの意味で歓喜しているのだろう。

 適当な所で思考を止めて、エズラはノーヴの手を掴む。光の町を眺めれば、歓迎するかの如く、いつもと変わりのない潤沢な黄金色をまき散らしていた。




「エズラ! ……ったくこのガキは心配させやがって」

 工房に戻るなり、エズラに大きな声が飛んできた。だから彼は、誰が見ても痛そうな動作をへファイスに見せつける。しかしヘファイスの言葉通り、彼がエズラを心配して待っていた事考えたら、当のエズラは「すみません……」と、ただ謝るしかない。

 ヘファイスに頭を下げつつ、チラリと横目でズーを見ると、彼女はいつもみたいに壁に寄りかかって腕を組んでいた。エズラの謝罪から少しの間は沈黙が場を掌握していたのだが、壁にもたれていたズーは、丸太に大股を開いて腰かけてからそれを破たんさせた。

「とにかく無事に戻って来たんだ。それで良しとしようじゃないか」

 そう言ってにんまりとした彼女につられて、エズラもにんまりとしてしまった。ヘファイスは太い両腕を小さく広げて、「まったくよぉ」などと悪態をついてから、大きな体を木で出来た椅子に支えさせた。

 ノーヴはと言えば、渦中にも関わらず何が起こっているのか全く理解していない様子だ。むしろ、神様は直近に置いてあった鉄でできた大きなカケヤの方が気になるらしく、目を輝かせてそれを凝視している。

 無理もない、ノーヴは何も聞いていない。じりじりとカケヤににじり寄る彼女には、何の罪もないのだ――。

「危ない!」

 ガシャン! という大きい音がしたと同時に、ズーもへファイスもそちらへ振り返る。エズラの注意喚起は間に合わなかったのだ。

 詳しく見ていた訳ではないが、ノーヴが鉄でできたカケヤに抱き付いたのか、弄くっていたのか、カケヤは倒れてしまった。直後に、カケヤの取っ手のあたりがスコップに直撃する。それを受けてスコップは規律正しい兵隊のようにビシっと立ち上がって、スコップの上に乗っていた木炭が宙にぶちまけられた。

 全ての木炭は、まるでショットガンから放たれた拡散する弾丸のように、いずこへと飛んでゆく。その軌道上に運悪く立っていたのは、エズラだ。

「いっててててて!」

「はっ……!」

 黒い塊は軽いが、意外と痛い。それらが命中する度にエズラは叫んだのだが、事の元凶たる紫に光る少女は、驚いたのか、目を丸くしていた。

――と、エズラは思ったのだが、どうやらそれは間違いらしい。ノーヴの目は、輝いている。

「こら!」

 エズラは軽く怒鳴る。

 ズーやへファイスは相変わらず笑っているのだが、ノーヴは怒られているなどという認識がないのだろう、全く気にしていない。逆にエズラは、「どうしたの、エズラ」などと心配されてしまった。




 ふと、窓の外から入り込んでくる太陽の光が目に入る。それは、炉の中で鉄を溶かす火の色と同じ、橙一色だった。つまり、エズラが工房を出て、ノーヴを連れて戻ってきてから、かなりの時間が経っている。もうじき光の町は、鉄が真っ赤に焼ける色の光に照らされるだろう。

 エズラが仕事を終わらせる時間はとうの先刻、いつもの彼なら帰る支度をして、元気よくヘファイスに「さようなら」と告げている。だったとしても、エズラはこの状況で別れの挨拶を全員に告げられないし、そのつもりもない。とにかく今は、ノーヴをどうしようかという事で頭がいっぱいだった。また、全員同じ事を考えているのだろうか、先ほど和んだ空気は一変して、重たさだけを残している。

 そもそもこういう事になったのは、エズラが原因であると言っても過言ではない。それを彼は自覚している。だから、この責任をいかにして取るか考えて考えて、脳みその隙間からひょっこりと出てきた台詞をとりあえず口にする。

「今日はノーヴを、僕の家に連れていきます。連れてきたのは、僕ですし……」

 提案した動機に言及すれば、責任感からだ。エズラにとってこの提案は、極めて重要である。にも関わらず、やっぱり自分は臆病ものであるのだろう、語尾の発音がやたらと小さくなってしまった。

「そうか。それも構わんがな、エズラ。別に嬢ちゃんが工房にいてもいいだぞ? 俺は二四時間工房にいるからなぁ」

 縮こまるエズラを穴が開くほど見つめていたヘファイスは、突然机に肘をついて、手に顎をのせながら、さも面倒くさそうに言う。

「……え?」

「なんだ、間抜けな顔してよ。嬢ちゃんはここに置いても良いってんだ」

 間抜けな声を出してしまったとは思っていたが、顔まで間抜けだったとは、エズラは知らなかった。それよりも彼は、後から考えても突飛な提案をしたと思っていたから、へファイスに一喝入れられると覚悟していた訳だが、心配は無用だったと知って、信じられない気分だった。

「ほ、本当ですか?」

「本当も何もよぉ、町の神様をのけ者にする奴があるかってんだ」

 どうやらへファイスも、ノーヴの事を大切に思っているらしい。それを聞いて、エズラはことさらに素っ頓狂な顔をして、瞼をこれでもかと開く。

「やった!」

 抑えきれない歓喜を叫びという形で爆発させると、エズラは今までの疲労や緊張から、ようやく解き放たれたと感じる。エズラはノーヴを、救ったのだ。

 それを見ていた頑固職人は彼に背を向けて、炉の方へと行ってしまった。ズーへと視線を移すと、彼女は相変わらずクールで、目を瞑って下を向きつつ、にんまりとしている。

 そして、当事者のノーヴと言えば。


 丸太に抱き付いて、いつからだろうか、目を瞑って静かに呼吸を繰り返していた。


「神様って、眠るんだ」

 ノーヴの意外な一面を見て一言漏らしたエズラは、木の椅子を手繰り寄せてそれに腰かける。彼は、幸せそうにも見える神様の寝顔を見て、それを守った自分がどれだけ誉れ高いであろうと思った。

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