1.5 Hide & Seek

 エズラは手を真っ黒にして、弾丸に火薬を込めては、薬莢の口を締めるという作業を繰り返していた。

 一週間の始まりは、彼にとっては非常に憂鬱である。にもかかわらず、今日の彼は様子が違う。

――そう、ノーヴの事だ。

 エズラは、自分が彼女にどういった感情を抱いているのか、どういった関係なのか、自身の胸中をいまいち把握できていない。ただ、休みの日には必ず、ノーヴと共に町を歩き回るなんて事をしているから、少なくとも町の住人は、ガールフレンドとでも思っているのだろう。

 そんな事ばかりが、次々と頭に浮かんで来た。だからエズラは、ここ数週間、上の空で仕事をしている。ヘファイスはそれに気付くたびに彼のお尻をひっぱたいた。

 今日も、しゃがみこんで火薬を詰めるエズラはヘファイスにお尻を叩かれる。「気合を入れろ!」などと言われながら。


「アッハハハハ! ガキンチョ、しっかり仕事しろー!」

 ズーは工房に入ってくるなり、一部始終を見ていたのか、尻を引っ叩かれて、それを抑えながら転がりまわるエズラに、一声かけた。涙目で「こんにちは」と挨拶したエズラは、いつもと違って、ズーが鉄砲を抱えていない事に気付く。

「ズーさん、今日は狩りに行かないんですか?」

 途端に、ズーの表情が変わった。

 明らかに、彼女には負の感じが、纏わりついている。いつもの憧れの狩り人らしい顔でなくなった彼女を見て、エズラは、まずい事を聞いてしまったと思う。だから、眉を歪めて、上目遣いで彼女を見るしか、出来なくなってしまった。

「いや、今日は狩りはしない。それどころじゃないからなぁ。お前、聞いてないのか?」

 エズラはてっきり、彼女が狩りを廃業にするとか、町を出ていくなんて事を言い出すんじゃないかと考えていたので、少しだけ安堵する。もっとも、『それどころじゃない』という台詞は、不穏そのものであるが。

 何も知らないエズラは、ズーが持ってきたであろう情報について聞き出す為に、首を振って無知をアピールする。すると彼女も、珍しく首を左右に小さく振って、良くない、と返して来た。

「トラキアの軍人が調査団を立ち上げた。エズラには言いにくいんだが……」

 語尾を濁したズーの顔つきが、殊更に厳しくなる。

「奴ら、光の塔に立ち入って調査をするんだってよ」

 ズーは、エズラの表情を伺うように見つめて、静かに言った。

 それは、突拍子もない事だった。バカバカしいとさえ、思えてしまう程だ。きっとトラキアの軍人達は、紫色に光る少女などを見つけたら、問答無用で彼女を拉致するに決まっている。だから、ズーの情報は、エズラにとって、間違いなく悪いものと言える。

 エズラはつい、頭に血を上らせる。

「そんな、どういう事ですか!」

「私に聞かれてもなぁ。しかし奴ら、町長の所に行って塔の不思議な力を調べたいって言ったそうだよ。奴らが塔の力を自分達のものにしようとしてるって、町じゃもっぱらの噂だ」

 流石にズーは、大人だ。彼女は、エズラの中でトグロを巻いていた負の感情が、怒声となって外に飛び出たとしても、その理不尽な問いに、冷静な調子を貫いたまま、言った。お陰で、エズラも感化されて、すぐにいつもの自分を見つけ出す事が出来た。

 それにしても、だ。


(一体僕は、どうすれば……)

 側頭部の両方へ手のひらを当てて、エズラは目を瞑り、俯く。彼は、自分がどうすれば良いか答えを出す事が出来なくて、固まる。仮に答えを出した所で、トラキアの軍人に刃向かったり、出し抜いたりすれば、ゴミのように切り捨てられるのがオチである。悩めるエズラは、ひたすらに、絶望を噛み締めるしかない。

 そんな彼を気遣ってくれたのか、ズーは、彼の肩にそっと手を置いて、言う。

「ノーヴはどうしてるんだ? まだ塔にいるなら、連れ出した方が良いんじゃないか?」

「でも、仕事が……」

 気遣ってくれていたならば、ありがたい話だが、生憎である。エズラは手を頭に添えたまま、ズーの言う通りに出来ない状況に、歯がゆい思いをした。だがそれは、直後に飛んできた大声に阻まれる。

「バカ野郎。お前、ぐずぐずしてねぇでさっさと行ってこい! お前が行かないで、誰が行くってんだ!」

 ヘファイスは、いつの間にか炉の前から移動してきたのだろう。彼は大きな腕を組んで、エズラの前に立って、勢いのある声を吐き出した。

 自分はどんなに間抜けな表情をしているのだろうと、エズラは思う。鏡があったら、見てみたい位だ。しかし、情けない気持ちなどは、微塵もなかった。へファイスの言う通りだ。どんなに間抜けでも、どんなに危険でも、ノーヴをトラキアの軍人から救う事が出来るのは、エズラだけなのだから。

 そして、これは強制でもない。ノーヴが神様だから助けなければならない、という訳でもない。ノーヴは、今のエズラにとって、神様以上の存在なのだ。

 故に、エズラの歯がゆい思いなど、数舜の内に散り散りになって、自らの感情に従順に、彼は立ち上がる。

 やる事など、既に決まっていたのかも知れない。輝く光の塔に入り、底のない暗澹に彼女を閉じ込める大きな扉を開けて、煌々とした外界へと連れ出すのだ。


 エズラの決意は、一切の間断を設けずに、彼の体を動かす。工房から転がり出た彼の視界に入るのは、遠くの丘にひっそりと、しかし聳える白い塔のみだった。




 今日の光の町の様子は、雰囲気が消沈していた。誰もが、トラキアの軍人達に厭わしさを抱いているのだろう。だからと言って、落ち込んだ雰囲気に呑み込まれている暇は、ない。

 エズラは、一つ角を曲がって、二つ角を曲がって、三つ角を曲がったら、町の走る一等大きな通りを、止まらずに直進する。町の中央の、鐘のある広場を駆け抜けて、木の荷車の出店に群がる客を押しのけて、町のはずれへと向かって、ひたすらに走る。

 全力で走り続けていたエズラは、息は上がるものの、疲労が気にならなかった。それほどまでに、ノーヴの存在が、大きい。

 もっと迅く。もっともっと、迅く。彼は心中で、ただ叫んだ。そうやって、止まってしまいそうな息を、自分をごまかす事で無理やり続けさせるのだ。

 やがて茶色の石畳は、その辺に生えている雑草の緑色と、乾いた土の灰色になって来た。エズラはいよいよ、塔の出入り口から一〇〇ヤード程の位置まで迫っている。もうすぐだと、彼は確信した。


「――全員、籠は用意したのか!?」


 エズラは広葉樹に視界を阻まれて、光の塔の下に人がたまっている事に気が付かなかった。だから、突然に聞こえてきた大声を受けるなり、転がるようにして背の高い草の中に隠れた。

「問題ありません、軍団長殿。いつでも開始出来ます」

 草むらからひょっこりと頭だけを出して、エズラは、停滞する鎧を着た男たちを見た。恐らく彼らは、ズーの言っていた、トラキアの調査団なのだろう。

 別段何をされた訳でもないのだが、彼らを見て憤りを感じる。だから彼は、歯を食いしばった。ノーヴの気持ちも知らないで、彼女の『家』を土足で踏み荒らそうという彼らが、許せなかったのだ。

 幸い、光の塔の内部は、かなり広い。そして、複雑に入り組んでいる。だから、あの部屋を直ぐに彼らが発見する事はないのだろう。そう思ったエズラは、一旦調査団の連中が中に入るまで待つ事にした。

 しばらく息を殺して観察していると、強引なトラキアの兵隊達は、彼ららしく、ズカズカと光の塔に踏み込んでいってしまう。エズラは、細心の注意を周囲に向けて、キョロキョロと辺りを見回しながら、忍び足で、光の塔の入り口に向かって進んでゆく。

 一歩、二歩、三歩。

 再び止まって、周囲を確認する。どうやら、問題ないらしい。

 四歩、五歩、六歩。

 まるで、コソ泥みたいだと、彼は自身に苦笑した。

 七歩、八歩。


「――小僧、何をしている」

「わぁ!」

 肝の小さい彼は、一々声をかけられただけで心臓が止まりそうなくらいに驚いて、大声を張り上げてしまう。声の主を見る前に、ひとまずは大きく息を吸い込んで、胸を一杯にまで膨らませてから、長息をゆっくり放って、ようやくエズラは、頭を動かす。すると、塔の入口には、流線形の鎧を纏った勇ましい男が、胸を張って堂々と立っていた。

 全く、気が付かなかった。自分は、どんなに間抜けなのだろうと思った所で、トラキアの軍人から逃れられる訳ではない。

「小僧、何をしていると聞いている。答えぬならば斬るぞ」

 恐ろしく落ち着いた声で、しかしおぞましい事を口にする男は、ピクリとも動かない。

「あ、あの! 僕は塔に忘れ物を……」

 男は鎧を纏っているので、エズラからは、表情が見えない。幸いだ。彼は、鎧の男の目を見る事なく、会話に成功できたのだから。おぞましい事を口走る人物の目を見て会話に興じるなど、彼にとっては非常に難しい。

 男は動いていないのに、鎧のどこかが軋む音がする。

「忘れ物だと? この塔は、お前達の町では立ち入りが禁止されているだろう」

「あ、僕はエズラと言います。この塔にこっそり忍び込んで探検していたりしたんです」

 男が、黙って聞き入っている。鎧が何かをしゃべりだす前に、エズラは言葉を継ぐ。

「鉄を打つのに使ってる、大事なカネを落としてしまって」

 頭をかいて、顔に微笑を浮かべる。

 虚言。

 嘘をつけたのも、男の顔を見ることなく話せたからだろうか。頭に片手を添えたままの彼は、ふと、どうでもいい事を考えてしまう。だが、次の瞬間には、彼は恐怖におののく事となった。突然男が、鎧の頭部を素早く脱いで、わきに抱えたのだ。

 エズラは、男が何かをするつもりなのだろうと、背筋を凍らせる。しかし男は、しばらく、じっとエズラの瞳を覗き込んできて、腰に携えられた剣――を抜かずに、おもむろに、口を動かす。

「名乗るとは見上げた小僧だな。こちらから名乗らずに失礼した。私の名はマヴィだ。トラキア軍の軍団長をしている」

 マヴィと名乗った男が、表情一つ変えずに、続ける。

「聞いているとは思うが、この塔の調査に来た。知っている事があれば私の所に来い。私も、お前の落としたカネを見つけたら、取っておいてやろう。しかし今日は諦めて、雇い主に叱られる事だな。なんなら私の名を出せ」

「は、はぁ」

 マヴィは、精悍という単語を体現したかのような、極めて鋭い顔立ちをしていた。日の光を浴びずとも黄金に輝く髪は、精悍を際立たせるばかりか、凛々しさも付け加えているようにさえ、見える。そんな男が、エズラの目線に合わせるようにしゃがんで、しかも握手まで求めて名乗ったのだから、先ほどのおぞましい印象は、どこに行ってしまったのだろうかと思って、唖然とせざるを得なかった。

 とにかくエズラは、会話が終わった事には、安堵する。

 だが。

 エズラは、恐ろしいトラキアの軍人が中でひしめいているであろう塔に、入らなければならない。それも、今日中に――。

――エズラは一旦、その場を退く。


 否。これも嘘。彼らの視線を無垢で騙す、極めて狡猾な欺瞞だ。


 ガシャガシャという大きな音がするので、後ろを向いていてもマヴィが遠ざかって行く事が、エズラには良くわかる。

 たっぷり時間をかけて、まるで壊れた木の車を引く車夫のように牛歩していたエズラは、背後から聞こえていた小うるさいガシャガシャ音の全てが塔に飲まれた事を確認してから、今度は全身に駆け巡る血やら筋肉やらを総動員して、全力で塔の入り口に、飛び込む。コソコソやっていて捕まったのに、再びそうする事もないと思ったからだ。




 塔の中に侵入したエズラは、紫色に光る広い塔のロビーを、一気に駆ける。広い所にいたら、先ほどのように見つかってしまうから、一刻も早く、入り組んだ通路に入りたい。彼に、二回目はないのである。仮に見つかれば、一回目の言い訳の時のように上手に見逃されるなどという結果は、有り得ない。

 もう幾度となく塔に侵入しては、塔の主の間に通い詰めていたから、エズラは地図を確認する事なく、迷うことも無くそこへと向かえる。彼は、最初の長いらせん階段を上り、横幅が二ヤード程の上り坂になっている通路を駆け抜け、大きな広間にでる。そこからそんなに遠くない距離走れば、ノーヴはいる。


 もう少しなのだ。そんなに長くない。それにもかかわらず。


 ガシャガシャと、耳を塞ぎたくなるような忌々しい音色が、エズラの耳に突き刺さった。絶対に見つかる訳にはいかない。そんな焦りからか、音が鼓膜を叩く度に、脳みその中身をまるごとかき乱されているような錯覚まで覚えてしまう。一体いつから聞こえてきたかなんて、エズラにはわからない。ただ、鎧を纏ったトラキアの調査団を名乗る男たちがすぐそばにいる事は十分に理解できた。

 息を殺して、潜む。彼のできる唯一は、これだけだった。こうしていれば、相手にも、エズラの位置は把握できない筈だ。

 彼が潜んでいるのは、高さや奥行がかなりある広間だが、幸運にも、等間隔で円柱の柱がポツリポツリと立っていた。更に幸運だったのは、彼の小柄な体が、円柱の柱の影にすっぽりと収まる事と、彼がそれを知っていた事だ。だから彼は、直近の一本の影に、素早く溶け込んだのだ。

 ガシャガシャと音を上げる恐怖は、彼が背中を預けている柱に、徐々に近づいてきた。もう数ヤードもない距離に、乱暴に闊歩するトラキアの調査団は、いるのだ。だからエズラは、一歩間違えば見つかってしまうと思い、焦る心を無理やり落ち着かせて、ひたすらに冷静となって、この局面を乗り切る決心をする。

 トラキアの調査団は、何をしているのかはわからないが、終始無言でそこら中を歩き回っている。広間全体を掌握する恐怖の音は、エズラの冷静を揺らがせようと、彼の心を激しく揺さぶったり、乱暴に蹴っ飛ばしたりする。それでも彼は、目を瞑る事もせず、ひたすらに耐えた。

 やがて、変化が訪れる。

 彼に狼狽を強要した忌々しい音は、一定の間隔で移動していたのか、彼の方に見向きもせずに過ぎ去ってゆく。それは未だ、彼の耳を刺激し続けるが、その刺激もエズラにとっては大したことのない程度に落ち着き始めていた。

(今だ!)

 すんでのところで、喉から声が溢れ出るのをこらえ、彼は、隣の柱に素早く移動してから、止まる。そして再び、素早く移動してから、止まる。

 警戒を一切解くことなく、それを繰り返していたら、いよいよ、広間の出口が近づいてくる。もう一度、彼は迅速に隣り合う柱へと駆けて、ピタリと止まった。

 間違いなく、”彼は”止まった。

 だが。

 ガシャン! と、エズラの肩にかかっていた鞄の中身、鉄の弾丸が、石の柱と衝突した。

 こんなものを、トラキアの軍人に放てる訳もない。だから、どうしてこんなものを持ってきてしまったのだろうと、彼は激烈に後悔したのだが、手遅れだ。意図せず発されたシグナルを受け取ったであろう調査団が、周囲にまき散らす恐怖の音色を、一瞬で消した。後に、振り返ったのだろうか、鎧が軋む嫌な音が、一斉に沸き立ったかと思えば、どうやら、こちらに向かって慎重に進んできているらしい。

 明らかにまずい。絶体絶命の状況だ。調査団の連中は、広間に再び戻ってきてしまった。しかし、ここで停滞している訳には、いかない。

 エズラは、決心を固めざるを得なかった。

 彼は、息を大きく吸い込み、強く目を瞑る。そして、ありったけの力を漲らせてから、見開く。間髪入れずに、薄暗く紫色に照らされた広間を、エズラは一気に駆け抜けた。

 勿論、彼らの真正面を走るなどという間抜けな事はしない。かなり広い空間に、無数に円柱の柱が立っているのだ、広間の中央を歩いて戻って来たであろう調査団の死角になるだけ身が入りこむよう、エズラは壁に手をつけて、それに沿いながら走る。

 調査団の連中に、エズラの足音は届いていないらしく、壁沿いに駆ける彼へ追従する様子がないと、音から容易に判断がつく。軍人達自身がまき散らす鎧の擦れる音で、エズラの移動音が聞き取れないのだろう。幸い、エズラは柔らかい革の靴を履いている。家がお金持ちであれば、良い靴を履きたかったのだが、この時ばかりは貧乏に感謝せざるを得なかった。




 息を吸おうにも、大の字に寝転ぼうにも、全てが許されない。大それた事をして失敗してしまえば、何もかもが終わりだ。それに、ノーヴが待っている。だからエズラは究極の疲弊と恐怖に締め付けられながらも、ひたすら彼女の事だけを考えて走り続けた。結果として彼は、いつもの石の扉の前に立っている。未だに彼は扉の開き方を知らないのだが、ノーヴには彼の足音が聞こえているのだろうか、大きな扉が、ゴリゴリと重くて鈍い音を発しながら、徐々に開かれる。 

 ドアの前に停滞していた紫の光をかき分けて、エズラは奥に進んでゆく。やがて点が、彼の視界に入る。初めての時と、全く同じだ。

 いよいよ、彼の視界を占める暗闇の中で、紫色の存在が大きくなった。

「ノーヴ! ここから出よう!」

 エズラは堪え切れなくなって、大きい声で紫に光る少女に言った。彼女はいつもと違う彼の様子が気になるのだろうか、毎度のように首を傾げていた。

 乱暴にノーヴの手を握って、引っ張る。彼女は、細くて軽かった。そんな彼女の脆さに構うことなく、エズラは走り出す。入って来た扉とは反対の方角に向かってだ。

 エズラは、このだだっ広い光の塔を案内してもらおうと思って、ノーヴに頼んだことがある。しかし彼女が知っていた事といえば、この広間に出入り口らしきものが二か所ある程度だった。一つは、彼が常に出入りする扉。もう一つは、絶対に外から入れないであろう穴。つまり今、彼は穴の方に向かって、彼女をエスコートしたのだ。

「ねえ、エズラ。そっちの穴は、危ない」

「いいから、僕に捕まってて!」

 ノーヴのか細い声を受けて、走りながらエズラは振り返った。彼女の顔には、いかにも不安といった色が浮かんでいたので、彼は決心を決めた。

「――ちょっと、エズラ!」

 エズラは一旦停止して、ノーヴの膝の裏に腕を回して、彼女の肩甲骨辺りを抱えるようにして抱き上げた。ノーヴの体を抱えたエズラは、走りながらにして、なんてか細くて脆い少女なんだろうと思った。

「捕まってて!」

 自身の体をお世辞にも屈強とは言えないとわかっていたが、少年なりに工房で鍛え上げられた腹筋を使って、エズラは大きな声を出す。腕の中でそれを受けたノーヴは、目を深く瞑ってから彼の首元に強く抱き付いてきた。

 足を目一杯に動かす事で地面をけり続けるエズラに、徐々に大きな穴が迫ってくる。


 そして。


「おりゃあああああ! ! !」

 エズラは渾身の力を込めて咆哮し、渾身の力を込めて、塔のどこよりも一等深い闇の入り口に、乱暴に飛び込んだ。先がどうなっているかなんて、彼にはわからない。ノーヴだって知らない筈だ。しかし彼にとっての問題はそこではなく、このか細くて脆い少女をこの場所から救い出さなければならない事にある。だから彼は、先の事なんていちいち考えない。兎に角、乱暴で野蛮なトラキアの調査団が徘徊するこの場所から、一刻も早く脱出するのだ。

 大穴の壁面が、彼の背中やら足やらにゴツゴツ当たってくる。無重力だったり、とんでもない落下感だったりを味わいながら、ひたすらにエズラは耐えた。もちろん、抱えた脆い少女に傷がつかないように、彼女の頭を自分の頭で守るようにして。

 エズラは目を見開いていた。ちゃんと着地しないと、ノーヴが怪我をしてしまうかも知れないと思ったからだ。彼の目の前、少し首を伸ばせば届きそうな位置に、ノーヴの顔があったものだから、このような場合にかかわらず顔を赤らめてしまった。

 幸いにも、彼女はギュッと目を瞑って、エズラの中で大人しくしていた。だから、彼は自分の赤くなっているだろう顔を見られなくてよかったと安堵した。


 その矢先に、ゴツン! と。


 強烈な衝撃が、エズラの頭部に訪れて、彼は視界を奪われた。心の拠り所たる紫の淡い光すらも見失った彼の五感は、痛みだけを最後まで残してから、途切れた。

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