1.2 未知

 ノーヴの視界の先、遥か数十ヤードは完全な暗闇一色である。彼女は、自分が発する紫色の光の届く範囲から外が、完全に見えない。従って、近づいてくる音の正体が何であるのかは、彼女にはわからない。だがノーヴは、幸か不幸か、恐怖という概念がぼんやりとして定まらない。

 もしも自分に心があるのならば、それは恐怖かあるいは……好奇心という色で完全に染まり上がっているのだろうか。




『それ』は、意図的に音や気配を殺すようにゆっくりと、確実にノーヴに迫っていた。彼女は相変わらず、自分の意志の有無に関係なく、薄い紫色の光を放っている。もしも『それ』に視覚があったとすれば、彼女の位置が相手に伝わっている事は明白だろう。


「だ、誰だ……君は?」

 恐らく、『それ』が、そう発した。

『それ』はどうやら、ノーヴと同じく言語を知っているらしい。幸い彼女は『それ』の発した音に含まれる意味を理解できた。だから、恐る恐る言ったのであろう『それ』の、震えている声を何度もかみ砕いてから、少し間を空けて答えた。

「私はノーヴ。あなたは、なに?」


――ノーヴの問いに、『それ』は答えない。

 一体どうしたというのだろうか、ノーヴにはわからなかったが、彼女は質疑に対する応答が返ってこない事に、得も言えぬ感覚を味わう事になる。これは何だっけ、と頭をひねったところで、彼女には、その感覚の正体を思い出せそうになかった。

 しばらく『それ』は沈黙していたが、そうしつつも着実にこちらに向かって歩みを進めてくる事がわかっていたので、彼女はいい加減に、正体を暴きたくなり、誰から教わったのかも分からない方法を駆使して壁一面に紫色の光を走らせた。

 ノーヴが相手の正体を視界に収めようと決意してから、すぐさま、彼女を中心として、波が広がった。その波は、光の波。色は、彼女の体が放つものと同じ、薄い紫色だ。

 広がった波紋は、何ヤードも先にある壁にぶつかった瞬間に壁全体を光らせた。どうしてそのようになるのか、彼女には理解できなかったのだが、少なくとも自分は、このようにする方法を知っていた。

 壁に這う紫一色で、すぐに部屋が染め上げられる。だからノーヴは、ようやく『それ』の姿を確認する事が出来た。意外にも『それ』は、自分と似た形をしている。

 びっくりしているのだろうか、いつからそうしていたのかノーヴにはわからなかったが、『それ』は尻もちをついて目を瞑っていた。両の手を彼女にかざし、遠ざかるか避けようとしているように見える。相変わらず『それ』の存在は、ノーヴにとって理解するのに難しかったので、今一度、相手の名前を確認する事にした。彼女にも名前があったのだから、相手にもあるのだろうと考えたのだ。

「あなたの名前は、なに?」

 二回も質問したにも関わらず、『それ』は延々と沈黙していた。といっても、恒久の時間に比べれば大したことはない。だからノーヴの気持ちには余裕があった。自分に気持ちがあり、気持ちは余裕があったり、なかったりするのだと思い出せる位には。

 ノーヴは自分の声が相手に伝わっていないのかと思って、大きく息を吸って、大きい声で相手に伝えようとして――。


「ぼ、僕の名前は……エズラ」


――ノーヴは拍子抜けしてしまった。

 折角大きい声を出すというチャンスに恵まれたのに、エズラと名乗る、恐らくは少年に、それを阻まれてしまったのだから。だから、まだ聞きたいことがあったのにも関わらず、彼女はストンと段差にお尻をつけて黙り込んでしまった。

 そんな彼女の表情をじーっと眺めて、彼は何を考えているのだろうか。そう思って、エズラと名乗ったおかしな少年と見つめあっている内に、彼は立ち上がって、ノーヴの下へゆっくりと近づいてきた。

 なぜか彼は腰が引けている。

「あ、あの、君はここで何をしていたの?」

 何をしていたかなどと聞かれても、ノーヴには答えられない。だから、「何もしていない」と当たり前の事をエズラに伝えると、彼は「なんだそれ!」と言ってから表情が変わった。

「君は変わっているね。きっと、人間じゃないんだろう? 君は神様か何かなの?」

 神様とはなんだっただろうか。ノーヴには思い出すことが難しい。

 久しぶりに頭を使ったような気がしたから、いっぺんに質問を浴びせかけられても、困るしかなかった。先程から怯えていた彼の様子が変わった事も含めて、疑問やらなにやらで頭がいっぱいだ。

 エズラはノーヴがお尻をついた近くに腰かけてくる。そして、同じ方向を見て言った。

「君は、きっと不思議な力を持つ神様か何かなんでしょう? 神様が自分の事を知らないのって、へんなの」

 ノーヴは不思議と、少年との距離が縮まった気がした。いや、端から警戒などしていなかったので距離感も何もないのだが、このように話すなどという行為は記憶に埋没してしまっていたから、彼女は斬新な感覚を覚えた。

(私の事も何か話さなきゃ)

 なぜだかそのように思ったノーヴは、今までの経緯を、知っている事を、とりあえず彼に聞いてもらう事にした。

「私は、ずーっと昔からここにいたの。どうしてここにいるかはわからないけど。私は今みたいに誰かと話をした記憶もない。だから、エズラがここに来て、不思議な気持ち」

 つい『不思議な気持ち』などと言ったが、どうしてそんな気持ちになるのかは彼女には理解出来ない。とにかく、ノーヴの台詞を横で黙って聞いていたエズラは、「よいしょ」と言いながら立ち上がって彼女の正面で振り返った。

「これから、塔の外に行かない? 君はきっと、ここから出た事がないんだろ? 外の世界には面白い事がいっぱいあるんだよ。 ……あ、でもヘファイスさんみたいに怖い人もいるから、それは注意しないとね」

『ヘファイスさん』とは何だろうかと思ったノーヴは、どうやら自分が塔にいて、外の世界が面白い事に満ち溢れているらしいと知る。そんな情報を手にしたからか、自分の中で『外』への魅力が大きくなったと、彼女は感じた。

 だから彼女は、ニコッとしながら言ったエズラを見てから、自分でも何故そうしたのかはわからないのだが、彼の真似をしてニコッと笑い返してから立ち上がる。エズラはきっと外の世界に案内してくれるのだろう。だが、ノーヴはその前にどうしても彼に聞きたい事があったので、さあ行こうとなる前に、問う。

「エズラ。さっきの大きな音は、一体なに?」

「僕の撃った鉄砲の音かな? 驚いた?」

 鉄砲とは、ノーヴは初めて聞く。だから、「それは何?」と二の句を継いだ。するとエズラは、「狩りの道具さ」と振り向かないで答えるものだから、大したものではないのだろうとノーヴは判断をする。

 エズラは、自分よりも遥かに物知りらしい。そう考えるだけでノーヴは、彼の後に付き従う事に、不思議と安心感を覚えた。




 ノーヴはエズラに手を握られて、彼に引っ張られるようにして駆けている。もう、ずっとこうしていた。彼の表情は見えないが、駆けだしてから、彼はハァハァと、呼吸を乱しつつある。

 ノーヴは、彼と自分は少し違うのだろうと、何となしに理解したけれど、彼女にとってそれは、大した事ではない。彼女は、塔の内部がこんなにも広かったのかと、驚いていたのだ。

 ずっとここに張り付いて来たノーヴでも、塔の中がここまで広大だったとは、夢にも思わなかった。尤も、自分は眠る事をしないのだが。それより、一等いっとう彼女が驚いたのは、塔の外からやってきたであろう彼が、長い事住んでいた自分よりも、曲がりくねった薄暗い道を迷うことなく駆けてゆくところだ。本当に、エズラは何でも知っていると、彼女は関心せざるを得ない。


 薄暗い景色は、どこまで走っても、全然変わらない。でも、ノーヴは楽しかった。

 初めて誰かと話した気がした。初めて走った気がした。そして、初めて誰かといる事が、楽しいと知った気がした。

 そんな楽しさは、終わりを迎えたのだろうか、それとも、始まったばかりなのだろうか。彼女にはわからない。とにかく彼女の手を握って走るエズラの肩口から、光が見えてきた。その光は、彼女が今までに見たことのない、淡い紫以外の色をしていた。

 ノーヴを光へと導くエズラは、駆ける速度をゆっくりと落とす。だからノーヴは彼の背中にぶつかりそうになって、彼の手を強く握って、突っ張った。

「エズラ、どうし――」「シッ!」

 エズラは、手を強く握り返してきて、こちらに振り向く。彼の表情は心なしか、ノーヴに怖いと感じさせるものだった。ここにきて自分はようやく、怖いという概念を思い出したらしいと、ノーヴは思う。

 彼女は彼の行動を見て、自分はどうやら静かにしていなければならないのだろうと直観的に感じたものだから、彼に何かを問う事をやめた。すると彼は、「外に出るところを見られたら、まずいんだ」というものだから、ノーヴは首を傾げる、という行為の意味を思い出すこととなった。

「ちょっと見てくるから、ここにいて」

 そういうと、彼は握った手をスルリと離して、光の方へと歩んでゆく。またも彼は、なぜか腰が引けていた。


 遠くから見ると、エズラが何をやっているのかわからない。だからノーヴは先ほど言われた事を無視して、彼の元へと、彼の動作を丸々真似して、歩いてゆく。すると彼は何やら、頭を右へ左へとさせて、周囲の様子を伺っているらしかった。

 彼がしばらくそうしているものだから、ノーヴは退屈してしまって、彼が初めにそうしたように、彼の手を後ろから握る。すると彼はビクリ! と体を震わせてから、こちらを見る事なく、「いくよ」と、小さく小さく言った。

 どういう意味だろうと考えていると、エズラはノーヴの手を握り返して、突然、一目散に光の中へと駆けだした。彼の瞬発力や走る速度が余りにも速いものだったから、ノーヴは繋がった右腕を軸に、彼の体に向かってすっ飛んで行く。当然エズラ自体が移動しているので、彼女が抗うか、もしくは停止するまで延々と、すっ飛ぶ事になるのだろう。

 それでもノーヴは、自分の体がすっ飛ぶ事など気にならない。周囲の景色が、彼女の心を奪うのだ。

 どれくらい走ったかなど、とっくに忘れた。それよりも、どうやら塔の外では、移動すると見える景色が大きく変わるらしい。ノーヴの周囲は、暗い色だったり、明るい色だったり、光っていたり、黒ずんでいたりしていた。

 ノーヴはそれを思い出す。緑とか、茶色とか、金色とか、そういう名前があった筈だ。彼女の周囲に立ち並んでいるのは、植物といった名前を持つ生き物だろう――。


 広葉樹が等間隔に生える少し高い丘の上で、エズラは走る速度を徐々に落としていった。やがて彼は止まるとわかったから、ノーヴは強く握った手をほどいた。するとエズラもそのつもりだったらしく、応じるように、掴む力を弱めていった。

 完全に二人が走る事を止めた所で、エズラは、手近にあった大きな樹に右腕を付け、持たれるようにしてから乱れる息を整える。やはり彼と自分は違うらしい。不思議と、同じ距離を走っていたにも関わらずノーヴは息が上がらなかった。

 エズラは手をついたまま頭を下に向けて、目だけをノーヴに向けた。

「ここから、僕の住む光の町の全部が見えるよ」

 エズラがそう言ったので、ノーヴはエズラよりも数歩程前に出て、それを見た。




 キラキラと輝いていて、空は青くて、風は心地よくて、それで。それで。

 そうだ。とても、美しい――。




 彼女はそう思った。

 美しいという概念を知っていた事よりも、この景色が余りに衝撃的である事に、ノーヴの心の比重は傾く。彼女の眼前に広がる石で出来た町は、雲のない空から降り注ぐ日光を余すところなく浴びる事で、黄金色に輝いて見える。その黄金色の隙間にポツリポツリと人が行きかい、明らかに町に活気がある事が伺えた。

 そんなものを恐らく初めて見たので、ノーヴはかなり長い時間、一言も発する事無く止まってしまった。


 ノーヴは、視界の右端にひょっこりと現れたエズラに気付いて、ふと我に返る。彼は、ノーヴの心を掴んで離さなかった景色を並んで見ながら、同じ方向を向いて語りだした。

「この町はね、光の町っていうんだよ。君がいた光の塔から溢れ出る力の恩恵を受けてるから、光の町」

「……」

 エズラの言葉を聞いて、ノーヴは初めて自分のいた場所が光の塔と呼ばれている事を知った。そして、冷たい石の塔の外が黄金色の光に満ち溢れている事を知った。そして、風が心地よいものだという事を知った。

 だから彼女は、多分もっともっと、知らない事で溢れているであろう外の世界の事を知りたくなって、先ずは些細な事からエズラに質問をする。

「ねえ、エズラ。力は、どうやって使われているの?」

「不思議な力は、手で触れるものなんだ。それは、紫色に光ってる。君みたいにね。それが湧く場所から持ってきて、病人に飲ませたりけがのある所に触れさせたりするんだ。そうすると、病気の人は元気になるし、怪我した人は傷が治る。僕は工房で働いているから、不思議な力を火にくべる。それに意味があるかは、僕にもわからないや」

 そう言って、エズラは笑った。

「工房って、なに?」

 何となくではあるが、ノーヴは彼の言っている事を理解できる。だから彼女は、彼の言っている事を完璧に理解する為に、もうちょっと踏み込んで聞いてみた。

 エズラは「うーん」としばらく唸ってから目を瞑る。そうしたかと思えば、ノーヴの両手を握って、胸の辺りまで持ち上げて、「今から行ってみようよ!」と、顔を近づけて言った。

 もっと外を知ることができる。そう考えると、ノーヴは嬉しくなって、すぐに頷いた。

 彼は、先ほどのようにもの凄い瞬発力で走ったりしなかったのだが、ノーヴよりも歩幅が大きい。なのでノーヴは、精一杯の努力でエズラの歩幅に合わせつつ、彼の後に続いて、黄金色に輝く町へと向かった。

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