シーン4 少年忍者の一番長い日
さて、それから半日が経った。
夕暮れ時の、町内のあるカラオケでのことである。
その一室に、ひとりの若者がモニターもつけずに閉じこもっていた。
ラフなTシャツに色あせたジーンズという冴えないいでたちではあるが、容貌やすらりとした体格は、モデルでもやっていけるほど見栄えがする。
手にしているのは、『外郎売』の冊子。
歌舞伎の市川家が代々、箱に収めて受け継いできたとされる、十八の当たり狂言のうちの一つである。得意技のことを「十八番」と書いて「おはこ」と読むのはこれに由来する。
現在の日本では、オーソドックスな滑舌練習の一つとされる。
「拙者親方と申すは、お立ち会いの中に御存知のお方もござりましょうが……」
もう一時間あまり、繰り返し繰り返し読み続けているが、まだ納得できないようである。
それでも一休みしないと身体が持たないと見えて、がっくりと長椅子に崩れ折れる。
そこへ、一人の少年が炭酸水のカップをトレイに乗せて入ってきた。
「頼んでないけど」
「サービスです」
そう言ってカップを若者の前に置いた少年は、その正面に座った。
ストライプの入ったカッターシャツとグレーの薄いスラックスを端正に着こなし、にっこり笑う様子は可愛らしいものである。
「君は?」
「アルバイトじゃないです、センパイ」
「ということは……」
少年は、顔を近づけて囁いた。
「察してください。あの人の件です」
「どうして?」
「理由は聞かないで。悔しくありませんか?」
「いいや」
若者は、顔を背けてカップを口につけた。
「せいせいしてる」
ひと言ひと言区切るような言い方に、少年は納得していないようだった。
腕組みをして長椅子にもたれかかる。
「だって、三年でしょ? 二学期で」
横を向いてドリンクを飲み続けながら、若者は鼻で笑った。
「棒に振ったって、たかが一年」
少年も口を歪めて笑った。
「結構、ズボラなんですね」
そこで若者は初めて、少年に向き直る。
「おおらかと言ってくれよ」
その開き直りに、少年はすかさず話をそらした。
「辞めちゃったの、彼女が原因ですか?」
「はっきり聞くね」
若者の声は低く、不機嫌に聞こえるが、顔は笑っている。
今度は少年が目をそらした。
「今、学園で話題ですから」
若者は深くため息をつく。
「それ聞いて安心した」
少年はしばし考えてから言った。
「安心?」
若者は目を伏せてつぶやいた。
「学校に残ってたら、いい晒しもんだ」
そこは少年にも納得できなかったらしい。
「あと六ヶ月かそこらでしょう?」
その問いが終わるか終らないかのうちに、答えが返ってきた。
「振った僕を許さないよ、彼女は」
「そうでしょうね」
少年の返答も早い。若者は身を乗り出した。
「なんで知ってる?」
「まあ、いろいろと」
目を合わせようとしない少年の思惑をあれこれと忖度するかのように、若者は眉根を寄せた。
やがて、ぽつりとつぶやく。
「あの台本か」
少年はうなずいて尋ねた。
「何のために?」
「今度はプロデュースに回ろうとしたんだ」
「彼女と?」
「彼女が舞台監督で」
ははあ、と少年は自分の額を指で叩く。
「好きだったんですね」
「やられたよ」
そのぼやきに、少年は飛躍した質問をした。
「セリメエヌですか」
モリエール『ミザントロオプ』に登場する悪女である。
青年貴族が集うサロンの注目を一身に集める才色兼備の貴婦人であるが、その場では男をおだててのぼせ上がらせ、本人のいないところでは散々に貶めて他の男の優越感を満足させるという、現在でもよくいる女である。
「察しがいいね」
若者は寂しく微笑した。
「僕はとんだオロントだったわけだ」
自分に文才があると自惚れ、セリメエヌに詩やら戯曲やら小説やらを見せびらかしては褒められて有頂天になる「イタい」男である。
こういう人も、ネット上にはよくいる。
間髪入れずに少年は混ぜっ返す。
「アルセストじゃなくて?」
引き合いに出されたのは、恋に恋して夢見る熱血中二病青年である。
セリメエヌに恋しているのに、その本性は見ようともせず、それを知っている友人の忠告にも耳を傾けない。
現代にも、よくいるタイプである。
こういう人に限って、相手に幻滅すると「裏切られた」と大騒ぎする。
そこで今度は、若者が声をたてて笑った。
「それはもういるんじゃないか?」
急に少年の表情が強張る。
「フユヒコさん?」
その目を、若者はじっと見つめた。
「気をつけろ、文化祭が終わったら僕の二の舞だ」
ひと息ふた息、間を置いてから少年が問うた。
「何があったんですか?」
ふん、と鼻を鳴らした若者は、吐き捨てるように言った。
「夏休み前、部内で配った台本がネット上に晒されて、酷評されたのさ」
ははあ、と少年は同情してみせる。
「それで部活内部で?」
若者は力なく言った。
「文化祭用の台本だったんだけど、みんな一気に引いてさ」
少年は露骨に相槌を打ってみせる。
「それが彼女の?」
「酷評されたポイントは、全部彼女が絶賛したポイントだった」
力ない声に、深いため息交じりの声が応じる。
「分かりやすい自作自演でしたね」
ふて腐れたように、若者は長椅子にもたれかかった。
「中傷される僕と、それを健気にかばう彼女って構図が出来上がった」
今度は少年が身を乗り出す。
「利用されたってことですか?」
若者は天井を仰いだ。
「僕は彼女が注目されるためのアクセサリーにすぎなかった」
「だからって、何で学校やめちゃったんですか?」
そういう少年は、いかにも残念そうである。
若者は、少年を見つめ返した。
「ただ別れただけじゃ、ただの負け犬だ」
そのまなざしを、少年は真っ向から受け止める。
「部活やめるだけで済んだんじゃありませんか?」
わかってないな、という口調で若者はたしなめる。
「卒業まで、一挙手一投足をネット上で笑われて暮らすんだよ」
同じ口調で、少年は切り返した。
「それで、通信制ですか?」
若者はムキになって言い返す。
「学生じゃない」
少しの間があって、少年は問い返した。
「劇団か何か?」
「何もしてない」
若者は不機嫌である。
「じゃあ、その外郎売は?」
「何かするための足場作り」
少年は静かに目を閉じた。
「最初の一歩のためですか」
「その一歩が踏み出せないのさ」
そう言う割には、低く柔らかい声をしている。余裕がある証拠だ。
「そのきっかけは?」
若者をまっすぐ見つめる。
「まだ」
若者のまなざしも真っ直ぐである。
「そのスタート、やり残した舞台で切りませんか?」
少年は微笑して、テーブルの上に紐で綴じられた一冊の台本を差し出した。
「これを」
若者は手に取った台本の題名を見つめる。
「文化祭の?」
「よく読んで検討してください」
若者が台本から顔を上げたとき、少年の姿はなかった。
どこからか、微かな声が聞こえていた。
……オロントがいれば、クリタンドルがいてもいいでしょう……
クリタンドルとは、『ミザントロオプ』に登場する「その他大勢」的扱いの青年貴族である。
若者は改めて台本に目を落とした。
しおり代わりに、名刺が挟んである。
衣料の生地屋のものだった。
名刺を取ってそのページを開いた若者は、無言で台本に読みふけった。
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