シーン3 忘れられたところにある本当の秘密

 そして、文化祭の前日、金曜日の朝。

 吉祥蓮の美少女忍者、菅藤瑞希の日課となっていた全力疾走は、その連続日数を一度リセットした。

 いつもと同じ時間に家を出てテンション高く登校する冬彦のオーラは、良く晴れた初秋の爽やかな朝の空気を通り抜けてくる太陽の光よりも眩かった。

 それは、忍者らしく足音と気配を殺して後をつける瑞希と玉三郎2人の歩みを押し戻した。

 といっても、 傍目から見れば早熟な中学生の男女が仲良く並んで早朝の道を登校するという、まことに健康的な微笑ましい光景である。

 だが、その会話は2人の見かけほど爽やかではなかった。

「で、おふくろさんには相談しなかったのか」

 玉三郎がやっと瑞希に聞こえる程度の最小限度のボリュームにもかかわらずクリアな声で発する問いかけに、冷ややかな答えが忍者の同じ発声法で返ってきた。

「自分だったらどうか、考えてみたら?」

 鳩摩羅衆の少年忍者は即答する。

「絶対にいやだな」

 でしょ、と玉三郎に言いながら、瑞希は10メートルほど前を歩く冬彦を見やった。

 ちょっと日差しは暑いが、空気はすがすがしい。

 だが、冬彦のテンションが爽やかなのは、必ずしもそのおかげというわけでもない。

 雲の上を歩くがごとき軽やかな足取りは、よく訓練されたバレエダンサーならまだしも、畑違いのその域からは程遠い。

 右へ左へと微妙にふらつき、ときどき足を滑らせて転びそうになる。

 その度にはっとして飛び出しそうになる玉三郎だったが、モーションを起こす直前に瑞希が一歩踏み出しては玉三郎の行く手を阻んだ。

「横に付かなくていいのか」

 何度となく前に出ては隣につく瑞希を横目で斜め下に見下ろしながら、玉三郎は面白くもなさそうに言った。

 瑞希は、その問いに答えなかった。

 ただ、冬彦の着たカッターシャツの背中を見つめながら、不機嫌にぼやいた。

「自分で弁当作って出てきたのよ、あのバカ兄貴」

 普通に考えれば喜ばしいことのはずである。

 何よりもそのおかげで、久しぶりに心穏やかな朝を過ごしているのだから。

 広い通りに出るまでの道はそれほど広くはないが、登校や出勤途中の人の姿はまだない。

 葛城亜矢センパイ恋しさが駆り立てる冬彦の目覚めは、それほどに早いのだった。

 だいたい、後をつけるといっても、冬彦は背後を妹が歩いていると知っている(はずである)。

 人の記憶に残ることなく全力疾走するための術「つむじ」にせよ、変装のための「化生ばけふ術」にせよ、飛燕九天直覇流鬼門遁甲殺到法を使う必要のなくなった瑞希は、当たり前の女子中学生の姿で、塀の上ではなく当たり前の道を、当たり前の歩みで歩いていた。

 当然、玉三郎も茶々を入れる余地はなくなり、ごく普通の中学生として瑞希の隣を歩いていた。

 上機嫌な冬彦の足元を見つめながら、瑞希のぼやきに笑顔で答える。

「そんな雰囲気でもないか」

 その声は何やら寂しそうでもあったが、瑞希は全く気にしていない様子であった。

 代わりに、セーラー服の一か所に触れて自信たっぷりに言う。

「ま、いざとなったら」

 このくらいの距離なら、何があっても「間殺」で距離を詰められる。

 更に、制服はこっそり改造してあり、流星錘を隠すポケットがあちこちに作ってある。

 飛び道具があっても、ある程度までは遠間から迎え撃つことができる。

 悠然というよりはどちらかというと好戦的にも見える笑みを浮かべる瑞希に、玉三郎はいささか低い声で尋ねた。

「昨日のメモ、葛城亜矢が置いてったんだよな」

 分かり切ったことを、とでも言うように聞き返す声が、鼻で笑うかのように返ってきた。

「他に構う女の子がいると思う?」

 玉三郎は無言で、すぐ隣を歩く瑞希に人差し指を向けた。

 だが、ものも言わずに両手で力任せにぐいと押し下げられた指は、おとなしく引っ込められる。

 玉三郎は神妙な顔で、冬彦の後姿を見つめながら忠告する。

「だけど、男はちょっかい出すと思うぜ」

「あんたじゃあるまいし」

 真面目な話を軽く受け流した結構失礼な物言いに腹を立てることもなく、玉三郎は静かな声をより低く抑えて言った。

「そういう意味じゃなくてさ」

 歩きながらスマートフォンを瑞希の前に突き出して、インターネットと接続された画面を見せた。

「いろんなサーバ渡り歩いてな、これだけやっと拾い出せた」

 瑞希はまじまじと画面上の文字を見つめる。

 いわゆる「ナントカ板」と呼ばれる電子掲示板である。

 灰色の背景の中に、見づらい白抜き文字が並んでいる。

 しばらく眉を寄せたり目を細めたりしてその内容を追っていた瑞希は、ようやく1つの名前を拾い出した。

「ミヨシ、ラン?」

「ビンゴ」

 スマートフォンに近づけた額へ玉三郎の人差し指を突きつけられた瑞希は、顔をしかめてのけぞってみせた。

 嫌味なリアクションに口を尖らせた玉三郎だったが、指で画面を二度三度撫でると、再び瑞希の前に差し出した。

 見ろよ、と言われて目をしばたたかせながら白抜き文字を追う横から、解説が入る。

「相当ヤジられてたみたいだぜ」

 画面上には、倫堂学園演劇部の者にしか理解できない、悪意ある言葉が並んでいた。


 87 名無しさん:ミヨシの台本つまんね

 88 名無しさん:大会でやりたいって?

 89 名無しさん:ボツボツボツ

 90 名無しさん:エミリーとリアルにつきあってるってホント?

 91 名無しさん:≪90 亜矢せんぱい?

 92 名無しさん:≪90 亜矢っていうの?

 93 名無しさん:≪92 隠れファン?

 94 名無しさん:≪90 リアルにつきあってます

 95 名無しさん:≪94 マジ(殺)

 96 名無しさん:ミヨシ台本ボツ(笑)

 97 名無しさん:亜矢せんぱいなにげにかばってた


 そこに映し出されていたのは、いわゆる「学校裏サイト」だった。

 学校では口に出せない、表の人間関係では見せられない誹謗中傷を、写真や住所、電話番号付きで晒す、パスワード付きのウェブサイトである。

 LINEやSNSが普及してからはマイナーになったが、なくなったわけではない。

 使い勝手は悪いが、ページを開けられる者なら誰でも閲覧できる。

 その上、アカウントが必要ない分、誰が書いたかは一目では判別しづらい。

 放置されているように見えてひそかに利用されている、知る人ぞ知る掲示板である。

 こういった点で、まだまだ性質が悪い。

 珍しそうにしげしげと見つめている瑞希に、玉三郎はいささか呆れ気味に言った。

「知らなかったのか?」

 横目で睨むまなざしは、結構恨めし気であった。

 ふくれっ面でぼやく。

「あたしんち、スマホもケータイも持たせてもらえないから」

 情報をつかんでなんぼの忍者にしては、やることがアナログというかアナクロである。

 もちろん、母親の一葉だって仲間の吉祥蓮とスマートフォンで連絡を取り合っているのはいうまでもない。

 ただし、本当に大事な連絡は吉祥蓮に遠い昔から受け継がれてきた方法で行われているのだった。

 これは、情報源が間違いなく仲間であることを保証するための知恵であった。

 もっとも、瑞希に対してはその前段階の教育的意義を持つ。

 それは、安易にツールに頼るのではなく、確実な情報を自分の責任で掴む方法を身体で覚えさせるためであった。

 だが、鳩摩羅衆の少年にとっては余りにも理解しがたい教えだったようである。

「信じられんな吉祥蓮」

 セコく細かく荒稼ぎするのを信条とする鳩摩羅衆にしてみれば、これほどムダの多いしつけは考えられないものだったろう。

 だが、その言葉には、それを敢えて課してきた、そして受け継いできたことへの驚きと共に一種の畏敬の念までもが込められていた。

 それに気づけるほど繊細な瑞希ではなかったが。

 面白くもなさそうにスマートフォンを押し返しながら毒づく。

「ていうか、こういうの気づいてたんなら教えなさいよ」 

 鼻歌交じりで画面を操作しながら、玉三郎は軽くかわした。

「振った振られたぐらいで分かるかよ。昨日気づいたのさ」

 そのリアクションは瑞希の感情を逆撫でする。

 目を向けた先には、足取りも軽く学校へ急ぐ冬彦のすらりとした背中がある。

 澄んだ空に、日は少しずつ高くなっている。

「いつ?」

 ちらりと振り向いてみせる瑞希から、玉三郎は済まなさそうに目をそらして答えた。

「冬彦さんの稽古見てて」

 昨日、稽古場に、玉三郎はいなかったはずである。

 しばらく額に人差し指を当てて考え込んでいた瑞希は、いきなり白い歯を剥いた。

「黙って見てたんか!」

 冬彦が頭から転落したのは、まかり間違えば大事故となったはずである。

 それに対する瑞希の怒りに怯むこともなく、答えは淡々と返ってくる。

 だが、その表情はいつになく険しかった。

「図書館からだったし、ちょっと間に合わなくて」

 そこで、言い訳がましい言葉には似つかわしくない舌打ちの音がした。

 瑞希は顔をしかめて、低い声で不快そうに言った。

「何よ、それ」

 反省の色が見られない態度への非難には応えず、吐き捨てるような悪態が続いた。

「あの女、許せねえ」

 脈絡のない会話を止めてしばし考えていた瑞希だったが、その意味に気づいたのか、さすがに「間殺」で飛びすさった。

 無論、早すぎて一般人には見えはしない。

 その距離、約3間(5.5m)。

 瑞希が思い浮かべたことを察したのか、玉三郎も食ってかかる。

「何想像してんだよエロガキ!」

 顔を真っ赤にした瑞希も、負けじと言い返した。

「どっちがよ!」

 口調だけを見れば激しい言い争いのようだが、その声は周囲に聞こえることはない。

 間を詰めることなく囁くだけで会話が成立するのは、忍びの者や盗賊が闇夜に意思疎通を図る術である。

 だが、日中に使えないことはない。

 瑞希の誤解に、玉三郎はムキになって言い訳する。

「あの密着プレイじゃなくって」

「意識してんじゃん、っていうか言葉の選択がオヤジ」

 言い返しはするものの、瑞希の顔は恥ずかしげにうつむいている。

 はるか後ろを歩く相手に振り向きもしないで、くどくどと玉三郎の釈明が続く。

「昨日のアレは偶然じゃないってことさ」

 そういいながら、制服のスラックスの前ポケットに片手を突っ込んで何やらごそごそやっている。

 瑞希はぶつくさとツッコミを入れた。

「こだわってんじゃん」

 少女の非難を背中に浴びた少年は、とうとう立ち止まって振り向いた。

 囁き声で、ムキになって「叫ぶ」。

「そっちじゃなくて!」

 突き出されたその手には、例の裏サイトを映したスマートフォンがあった。

 瑞希が足早に歩み寄って、その画面を覗き込む。

 玉三郎が問題にしているのは、机からの転落事故の方だった。

 裏サイトで、その「成果」が堂々と報告されている。さらに、あの「密着プレイ」への中傷も……。


159 名無しさん:フユヒコやばい

160 名無しさん:≪159 あれ本気かよ

161 名無しさん:≪159 顔面強打したら上演中止だろ

162 名無しさん:≪160 ≪161 パリスそこまで考えてない

164 名無しさん:≪162 いやだいぶ本気っぽかったぞ

165 名無しさん:亜矢センパイのチチクッション

166 名無しさん:≪163 オレ代わってもよかった

167 名無しさん:≪163 フユヒコ今頃ハアハア?

168 名無しさん:瑞希ちゃんいるだろ

169 名無しさん:≪166 ハーレムか


 スマートフォンを持った手をスラックスの前ポケットに突っ込んで、玉三郎は再び歩き出した。瑞希もすぐ後ろに続く。

 怒りの言葉が吐き捨てられる。

「全部計算してんのさ、あの女。冬彦さんを構えば、やっかみが集中するってことに」

 瑞希は冷ややかに応じた。

「そこでかばえば、バカ兄貴は余計に夢中になる……。でも、証拠は?」

「ない」

 言い切ったところで瑞希がずっこけたので、距離はまた1間ほど開いた。忍びの歩みは速い。

「強いて言えば、この間の『ミザントロオプ』さ」

 ミザントロオプ、ミザントロオプとおまじないのように繰り返して、瑞希は玉三郎の細い背中に向かって尋ねた。  

「あんたがページ差し替えた奴?」

 だが、玉三郎の答えはどちらかというと独り言に近かった。

「葛城亜矢に告白したのが三好のほうだったらしいって聞いたときからあの女、気に食わなかったんだが」

 2、3歩歩いて考えて、瑞希はかみ合わない会話を無理やりにつなげた。

「ミヨシもタイプだったわけ?」

 からかわれた玉三郎は突然、機関銃のようにまくしたてた。

「私モテます~ってタイプの女が嫌いなんだよ俺は! ……ってそういう話じゃないだろ」

 言葉の勢いにようやくブレーキがかかったのがおかしいのか、瑞希はくすくす笑った。

「冗談よ」

 ふん、と荒い鼻息ひとつ、強がりとも言い訳ともつかない答えが返ってくる。

「それなのに三好のほうから振ったってのが引っかかったんだよ」

 こめかみをポリポリ掻きながら、瑞希は尋ねる。

「それと『ミザントロオプ』どういう関係が?」

 そこで玉三郎は、冬彦の台詞を真似てみせた。

「これは他の男に貴女が書いた恋文……」

 冬彦が路地の角を曲がると、そこはもう大通りである。

 歩道を行き交う人は多かった。

「声が大きい!」

 瑞希が慌てて叫ぶと、すれ違った女子高生がくすくす笑う。確かに、中学生の痴話喧嘩と思われても仕方のない台詞である。

 だが、そんな周囲の目など気にすることもなく、玉三郎はくぐもった声で続けた。

「あの女、平気で受けやがったけどな」

 玉三郎の言いたいのは、つまるところ、こういうことだ。

 モリエール『ミザントロオプ』に倣って書いた冬彦用の偽台本には、ジュリエットがロミオではない男性に恋文を贈ったかのようなセリフのやりとりが記されている。

 恋を初めて知った純粋な少女を演じている葛城亜矢が急にそんな不実な女の台詞を吐かされれば、きっとうろたえるだろうという読みの下に玉三郎が書いたものだ。

 その読みは亜矢の機転と即興によって見事に外れたわけだが……。

 そこで瑞希の声が急に明るく変わった。

 ない色気を精一杯に振り絞って、誘いをかける。

「ねえ、玉三郎」

 だが、その名は少年をいらだたせるものでしかない。

「獣志郎……っていきなり!」

 玉三郎が振り向くと、瑞希は「間殺」で迫っていた。

 その耳元で囁く。

「頼まれてくれない? ……バカ兄貴に免じて」  

 こうして、その一日は玉三郎がそれまでの人生で経験した中で最も長い日となった。


 ――あの夜、吉祥蓮の物語に黙って聞き入る娘をまっすぐ見つめて、母親は言った。

 1000年の昔から現在に至るまで、女性のために平穏な生活を見失う男たちがいる。

彼らを迦哩衆の手から救うために、吉祥蓮は帰るべき平穏な家庭を築いてきた。

救えた者たちもいれば、救えなかった者もいる、と――。

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