シーン2 男ならこっそり聞いてみたい母と娘の秘密の話
稽古が終わって、瑞希は冬彦と連れ立って帰宅した。
これも亜矢を警戒してのことである。
秋といってもまだ9月だから、日はそれほど早く沈むことはない。
倫堂学園からの帰り道の間に、ようやく夕焼け空が見え始めるくらいである。
朝は兄に弁当を届けるために横切ることもある公園も、帰りは校則を冒してまで敢えて通ることもない。
だから、暗い夜道で襲われるなどということはない。
だが、亜矢の正体を知らない兄を一人にしたら、どんな罠にはまってしまうか分かったものではなかった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
一応、心配して見せる妹に返ってくる返事はない。
「あれ、事故だと思う?」
稽古中、冬彦を机から転落させたちょっとやんちゃそうな2年生は、亜矢に厳しく迫られて、しぶしぶながら謝りに来た。笑顔でそれを受け入れた冬彦だったが、誰が見ても目の焦点は合っていなかった。
頭を下げた方はさぞかし不愉快だったろうが、その気持ちは瑞希にも表情や態度の観察から察しがついたことであろう。
飛燕九天直覇流鬼門遁甲殺到法奥義「心眼」など使えずとも。
これができる母の一葉なら、その先々の考えまで読み取ることができたかもしれないが……。
兎にも角にも、魔がさした程度のいたずらで、まかり間違えば大怪我をするような真似ができるはずはない。
「ああいうの、嫌がらせっていうんだけど」
そう忠告する瑞希にも、その動機は見当もつくまい。
何が原因かは、やった本人にしか分からないだろう。
ただし、人の不幸を喜ぶといういやらしい側面を持つのが人間であるから、顔と成績を除いては何の取り柄もない不器用な冬彦が急に晴れ舞台に立つことになれば、面白くないという感情が、多かれ少なかれ部員たちの内心に生じても不思議はない。
瑞希は兄が自ら選んだ境遇について、素直な感想を述べた。
「人間関係、過酷すぎない? あの演劇部」
甘えた日常生活を送っているようで、部員たち同士は自分も相手も傷つかないよう、結構な注意を払っているのだろう。
だが、冬彦の表情にも姿勢にも緊張感はない。
魂が抜けてその辺をぐるぐるさまよっているような状態である。
瑞希は、じわじわと焼け焦げていく空の色を見つめながらつぶやいた。
「世話が焼けるんだから、お兄ちゃん……」
帰宅すると、リビングでは一葉が待っていた。
部活の顧問から事故の連絡が携帯に入り、慌ててパートから帰ってきたのだという。
だが、相変わらず呆けている冬彦を見て苦笑するなり、一枚のメモを渡した。
一葉の手の中にあるのは、薄い青の一筆箋だった。
瑞希には内容が見えないようにという配慮だろう、冬彦に示されたのは仔犬の顔のイラストが描かれた、端の辺りである。
「ポストに入ってたんだけど。誰かな?」
そこで冬彦は、はっと目が覚めたようだった。
ひったくるようにしてメモを受け取りや、リビングのドアを開けて2階へと駆け上がっていく。
だが、そのメモをスリ取るぐらい、瑞希には造作もないことだった。
一瞥しただけで、手元から消えたメモを探しに慌てて下りてきた冬彦に、何食わぬ顔をして返してやる。
冬彦は、妹の視線を気にしながら開け放しのドアを恐る恐る閉めた。
階段を一歩一歩、慎重に上がっていく足音がする。
まるで、またとない幸せは慌てると手の中からこぼれ落ちてしまうものであるかのように。
そのメモには、水の流れのように優雅な筆跡で、たった一言だけが書いてあったのだった。
今日はごめんね、と。
当然、一葉は興味津々である。
「ねえ、誰?」
瑞希は答えないで、早足に2階の自室へと着替えに走った。
その隣にある兄の部屋は、静まり返っている。
自分の部屋に入って、子猫のプリントが入ったTシャツとハーフパンツに着替えながら、瑞希は兄の部屋との間を隔てる壁を何度となくちらちら見た。
いつもはペン立てをひっくり返したり机に爪先をぶつけたりしたらしい呻き声が時折聞こえてくるのだが、それもない。
明かりを消して、ベッドにころりと横になってみた。
しなやかな手足を突っ張り、目を固く閉じてううんと伸びをするが、眠り込むことはない。
暗い天井を、じっと見つめている。
階下からは、一葉が夕食の準備をする音が聞こえてくる。
食事までは、まだ時間があった。
瑞希は、何か考えているようだった。
冬彦が遭った事故のことだろうか。
確かに、あれが嫌がらせだとしても、度が過ぎている。
たかが部活の主役に抜擢されたくらいで、身の危険が及ぶところまで冬彦が憎まれることはないだろう。
原因は、別のところにあるのだ。
それにしても、彼の負傷を未然に防いだ葛城亜矢の動きは俊敏だった。
瑞希の疾走よりも速く、しかも床すれすれを跳躍して、机の上から落下した冬彦を受けとめた。
あれも、迦哩衆の術のひとつなのだろう。
そうすると、瑞希の術は亜矢に及ばなかったということか。
事故が予期されたものでない限り、反射運動で後れをとったということになる。
曖昧に開いた唇の隙間から、ひとつの名前が漏れた。
「……葛城、亜矢」
瑞希はつぶやきと共に、唇を噛みしめた。
そのときである。
壁の向こうから突然、大きな声が聞こえた。
「兄者! 兄者!」
冬彦の声であった。
この家で、彼は瑞希の兄ではあっても、誰の弟でもない。
台詞の練習が始まったのだろう。
瑞希はいらいらと身体を起こすや、ベッドから跳ね起きて部屋を出た。
わざとらしく音を立ててドアを閉め、兄の部屋の前へつかつかと歩いていく。
冬彦の名前を書いたプレートの辺りで、ドアを叩いた。
互いの部屋に入らないよう一葉に言いつけられてはいるが、ここまではセーフである。
声がぴたりと止んだところで、瑞希は甲高い声で抗議した。
「お兄ちゃん! プライバシー!」
「瑞希! 静かにしなさい!」
下の階で台所に立っている一葉から一方的に叱られた瑞希は、その場で言い返した。
「事情も聞かずに感情で妹の方だけ怒るってのはどうかと思うんだけど!」
忍者の家にしては、いささか声が大きすぎはしないか。
だが、たまにうるさくするのも一般人としてのカモフラージュと言えば言えなくもない。
いずれにせよ、吉祥蓮の事情が冬彦に分かるはずもない。
か細い声が一言だけ謝った。
「ごめん」
それからのセリフはボソボソとくぐもったものになった。
瑞希は口を尖らせて、階段を降りていく。
ドアを開けてリビングに戻ると、さすがに一葉も気まずかったのか、何事もなかったかのように話題を変えてきた。
「さっきのメモだけど」
瑞希は無言でカウチにもたれ、テレビのリモコンを手にした。
一葉は不機嫌を態度に表す娘に一瞬だけ押し黙ったが、それでもテンション高く話しかけ続ける。
「かわいい犬の絵だったね」
瑞希は答えないでスイッチを入れる。
何度かチャンネルを変えた画面では、ご贔屓の美少年歌手が色鮮やかな照明の中で踊っていた。
一葉は咳払い一つして本題に入る。
「誰から?」
もちろん、葛城亜矢からである。
幸い、食事がまだなので冬彦が降りてくることはない。
迦哩衆の女忍者が絡んでいることは、この場で告げたほうが無難だった。
亜矢が冬彦の恋する相手でなければ、当然の情報共有であっただろう。
だが、瑞希は答えなかった。
台所に立ちながら、一葉は「誰だれ誰?」としつこく尋ねてくる。
そこは瑞希も、13歳の乙女である。
たとえ相手が迦哩衆の女忍者でなくても、兄が自分から母に告げない限り、亜矢の名前は出せなかっただろう。
いつものようにカウチにもたれてテレビを見ながら、「そう言えば今日さあ」とはぐらかす。
もちろん、そんな手に乗る一葉ではない。
経験を積んだ、吉祥蓮の女忍者である。
エプロンを掛けた背中を向けたまま「誰?」と突っ込んでくる。
瑞希は聞こえないふりをして尋ね返した。
「ねえ、ご飯まだ?」
台所に立ってせっせと手を動かしている母に対しては、愚問であった。夕食の支度で余裕がないことは、吉祥蓮の忍者とはいわず素人でも見て取れる。
当然の答えが返ってきた。
「今、作ってるじゃない……で、誰?」
同じ質問が畳みかけられる。
瑞希はそれでも粘った。
さらに話をそらす。
「最近眠れなくって」
月並みもここに極まれりという決まり文句に、母親は丁寧な助言をする。
「そういうときは、横になってるだけでいいの」
そこで同じ質問が襲い来る。
「で、誰なの?」
話をはぐらかそうとしても無駄なようだった。
瑞希としては、話を誰からのメモなのか答えられない理由を、兄の恋に触れないように言葉を選んで説明するしかあるまい。
今度は瑞希も観念したのか、丁寧に応じた。
「あのね、お母さん……」
「誰!」
瑞希の言葉は、一葉の問いに鋭く遮られた。
この敵失を逃す手はない。
釈明は、すかさず反撃に切り替えられた。
瑞希は一拍置いて呼吸を整え、冷ややかに言葉を返した。
「あ、そういうこと言うんだ」
娘の静かな抗議に、一葉はちょっとうろたえた。
「そういう、え?」
その隙を突いてさらに斬りこむ。
「子供にだって秘密はあるのにそういうこと言うんだ」
親としては痛いところである。
一葉は言葉に詰まった。
「あ、そういう訳じゃなくって……」
「実の娘が血のつながらない年頃の兄に人に言えない恋の悩みがあるって察して必死で話をはぐらかしてるのにそういう高圧的な態度に出るんだ?」
しどろもどろの守勢に回った母親に、長い抗議の言葉を一気に吐いて攻めかかる。
一葉は弁解したが、その言葉は最後まで続かない。
「高圧的とかそういう問題じゃなくて人の親っていうのは……」
すかざす瑞希は止めを刺す。
「それって人の親としてどうかと思うなあ!」
この親にしてこの子あり、とはこのことであろうか。
少女のような容貌をしながら尋問術では世界各国情報機関にもひけを取らない一葉であるが、相手がわが子となるとこの有様である。
急に猫なで声の懐柔にかかった。
「ただ、お母さんね、冬彦君にあんな可愛いメモ置いてく女の子ってどんな子かなって……」
瑞希はそこで深追いした。完全に調子に乗っている。
「なんで女の子って言い切れるの?」
「そこ突っ込むとこ?」
言い返す母親の声は落ち着きを取り戻していたが、どうやら勝利におごる瑞希は気づいていなかったようである。
相手の質問には答えず、さらに威勢よく攻めかかった。
「男の子がかわいい子犬の絵描いたらおかしいわけ?」
そこで一葉の反撃が始まった。
じゃあ常識として、と前置きしてから尋ねる。
「おかしくはないけど、確率的に女の子より少ないわよね?」
「う……」
瑞希は返答に詰まった。
クローズド・クエスチョンである。「はい」か「いいえ」でしか答えられない。
明確に否定しないかぎり、「はい」と答えたことになるのである。
しかし一葉は追い込むことはせず、淡々と説明を続けた。
「それから、ラベンダーの匂い」
「そんな匂いした?」
娘の疑いなど気にする様子もなく、「シャンプーか制汗剤ね」と言い切る。
だが、その娘は引き下がらない。
「でも、そんなの趣味によるじゃない」
一葉は嫌味ったらしく言い放った。
「年頃の男の子がそんな匂いさせてたらお母さん引くな」
今度は瑞希がムキになった
「断言はできないでしょ!」
「じゃあ、男の子が? 冬彦くんに?」
へえ、というような感嘆の声に、瑞希はしばし押し黙っていた。
確かに、昨日そんな発言をした知り合いが約1名いる。
ぶるぶると首を振る。
「違う! 絶対違う!」
そこで話は振り出しに戻った。
「で、誰? どんな子?」
再び少女のような無邪気な声を立てて、料理がひと段落ついた一葉が振り向くと、ドアが開いて冬彦が入ってきた。
「誰が?」
なんでもないなんでもない、とごまかした瑞希に牽制の鋭い一瞥を送られ、一葉は再び台所に向かった。
代わりに瑞希がその場を取り繕う。
「ご飯まだなんだけど」
「いや、誰かの話みたいだったから」
葛城亜矢に関することになると、そこは年頃の男の子である。
いくら冬彦であっても、カンが冴えるのだろう。
「いや、あたしのこと、あたしのこと」
「そうそう、瑞希の友達」
フォローに入った母親を再び睨みつける瑞希だったが、当の一葉は鍋の中身をせっせとかき回しながら知らん顔をしている。
冬彦はしばらく考えて、ああ、と何やら了解したようだった。
「玉三郎君か」
そうそう、と相手の手を入れる一葉に、瑞希は猛然と食ってかかった。
「違う! 絶対違う!」
だが、冬彦は何やら嬉しそうに微笑んで、何も言わずに2階へ戻っていった。
ドアが閉まったところで、瑞希はむくれて母の後姿を見つめた。
一葉はちらと振り向いて片目を閉じてみせる。
瑞希は不貞腐れたようにカウチで横になった。
つけっぱなしのテレビでは、既にご贔屓歌手の出番は終わっていた。
それから夕食までは沈黙が続いたが、別にそれほど険悪な雰囲気ではなかった。
一葉はひたすら料理を続けていたが、瑞希はときどき母の様子を伺いながら、もう見る必要のなくなった歌番組の映像をぼんやりとしたまなざしで眺めていた。
そこには、女同士の暗黙の了解があっただろう。
当事者の前で恋の噂話はしないものである。
その時、平凡な男たちを守る吉祥蓮を継ぐ少女の脳裏に、母があの夜語った物語が甦っていてもおかしくはない。
――太平洋戦争前夜。多くの社会主義者や自由主義者が弾圧された。
彼らが捕まるきっかけとなったのは、金銭問題と「女」であった。
その「女」たちの中には、国家権力が放ったものもあった――。
――一方で、祖国のために戦うはずの男たちの中には、女のために道を踏み外した者もいた。
ある男は徴兵を避けて女と逃げようと図った。だが、ありったけの財産を預けた女は、男と逃げ回るうちに姿を消した。
男は捕まるまで、日本中を着のみ着のまま彷徨することになった――。
――また、恋人の元に帰ろうと戦地で部下と共に奮闘し、終戦後に生きて帰ったある士官は、身に覚えのない虐殺の疑いで戦犯として訴追された。
だが、多くの現地人女性が証言に立ち、彼は無罪となった。
士官は釈放後、恋人を探したが、彼女は占領軍の将校と海を渡った後だった。
後に、その将校は横領の罪で失脚したという――。
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