3場 悪女と黒いちゃんねる

シーン1 吉祥蓮が救えなかった破滅と男なら一度は経験してみたい甘い罠

 ――これも、母があの夜、瑞希に聞かせた物語。

 明治初期、政府に雇われた外国人が色町の女に夢中になった。

 源氏名は「いずな」といった。

 彼はその女を妻に迎えるべく、祖国の妻を捨てて日本に帰化した。

 だが、やがて女を請け出すために日本政府の公金に手を付けたのが明るみに出た。

 異国での孤独の中、彼は拳銃で頭を撃ち抜いて死んだという。

 瑞希は居住まいを正し、母の話に息を呑んで聞き入っていたが、明治の話は遮った。

「どうして、その外国人を助ける女の人はいなかったの?」

 一葉は一言で答えた。

「海の向こうに私たちはいなかったから」

 はっとする瑞希への、母の話は続いた――。


 そして木曜日。

 瑞希は放課後の高等部で、早足に廊下を歩いていた。

 補習や部活動のために行き来する高等部の生徒は多い。 

 その中で、小柄な瑞希の姿は目立つと言えば目立った。

 目立たないと言えば目立たない身長なのだが。

 並んで歩きながら談笑する生徒の目に、その姿が映らなくとも無理はない。

 だが、先を急ぐ瑞希はいかに行く手を阻まれようと、怯むことはなかった。

 巧みなフットワークで、その身体は瞬きする間に右へ左へと音もなく現れては消える。

 常人の眼ではとても捉えられない早業である。

 しかし。

 自分より遥かに背の高い生徒の間を器用にすり抜けた、中等部のセーラー服に振り向く者は多かった。

 もちろん、主に男子である。

 さて、瑞希がささやかながら吉祥蓮の秘術を操って目指す場所があった。

 もちろん、図書館から見える演劇部の稽古場である。

 迦哩衆の女が巣食う敵地を再び訪問するにあたっては、それなりの読みと目的がある。

 亜矢が迦哩衆なら、狙いは冬彦を操り人形にすることだ。

 確かに、冬彦本人にはそれほどの利用価値はない。

 それは瑞希本人が一番よく知っている。

「あたしならパスだな」

 瑞希の声を背後で聞いた男子生徒が呆然と硬直する。

 無論、悪気があってのことではない。

 面倒見のいい義理の妹がそうぼやくのも無理のないことで、どれだけひいき目に見ても手間暇かけて誘惑するほどの男ではないのだ。

 菅藤冬彦17歳は。

 だが、何事にも順序というものがある。

 瑞希はこめかみを指で掻きながら、自分を納得させるかのようにつぶやいた。

「最初の手駒ってわけね」

 葛城亜矢にとっていちばん引っかけやすかったということである。

 それが聞こえたのだろう。

 さっきまで談笑していた女生徒の顔を不信のまなざしで見つめている男子生徒が、瑞希の背後に残されていた。

 2人の間が知らないうちに中等部の女子に突破されたことなど、気づいてはいない。

 更に瑞希は、鼻で嘲笑う。

「どう使う気かは知らないけど」

 とにかく、これを抑えれば、迦哩衆の勢力拡大を挫くことができるのだ。 

 だが、瑞希が気づかれることなくすれ違った女生徒は、明らかに士気を挫かれていた。

 さっき何か小さなプレゼントを贈った男子生徒が軽い足取りで去っていくのを見送っていた女生徒の表情は、どこからともなく聞こえてくる不吉な予言に凍り付いていたのである。

 これらの独り言が吉祥蓮の使命に背いているのは言うまでもないが、本人に全く悪気はない。

 これをもし知ったら、いかに温厚な母であったとしても、一葉は瑞希を正座させて厳しく叱責することだろう。

 だが、こんな毒のある言葉をまき散らしてまで、夏の白いセーラー服をまとった美少女忍者が稽古に同席しようとしたのには訳がある。

 たとえ葛城亜矢と対峙することになったとしても、こうしたほうが手っ取り早いのだ。

 いかに迦哩衆の女とはいえ、演劇部内の、いや、高等部はおろか学園全体の注目を浴びながら、吉祥蓮の女の前で冬彦をどうこうできるわけがない。

 その一方で、一度自己紹介してしまえば稽古場に顔を出しても誰にも怪しまれない。

 しかも、夏の白いセーラー服をまとった中等部の女子生徒なら、男子部員からは大歓迎されること間違いない。

 瑞希は、それを利用したのだった。

「お兄ちゃ~ん! 来たよ~!」

 稽古場でハイトーンの挨拶をすると、無数の「お兄ちゃん」が歓声を上げる。

 ロリコン、の声が女子たちの中から上がるが、それは稽古前のテンションを上げるためであって、決して悪意はない。

 やがて部員たちの心は日常を離れて、限られた時間と空間の中で約束事によって育まれる共同幻想の世界に片足を突っ込む。

 そんな雰囲気の中で。

 おじゃましま~す、と甲高く愛想を振りまいて、瑞希は作業や出番のない部員の間を探して、体操座りにちょこん、と座り込んだ。

 口の中で、「やってられるか」とつぶやきながら。

 その本音など知る由もない部長兼舞台監督が、演出と音響効果、照明担当のスタンバイを確認する。

 演出は舞台と同じ広さに白の体育館用ラインテープで仕切られたスペースの前にパイプ椅子を置いて座る。

 その隣にはバインダーを膝に載せた演出助手がペンを片手に待機している。

 音響効果担当は片耳当てのヘッドホンを頭に載せ、ミキサーのフェーダーに指を置いている。

 照明を吊るわけにはいかないので、担当者が前にしているのは操作卓の模型である。

 数人の部員が大きな机を運んできた。

 部長が冬彦を役名で呼ぶ。

「ジョン、机のバミリ確認して」

 バミリとは、「場を見る」から派生した言葉で、「後で見てわかるような印」のことである。

 冬彦が立ち上がって、机に貼られた×印の上に立った。

 これが、そのシーンで冬彦に与えられた立ち位置である。

 亜矢も、その背後のバミリに着いた。

 演出が状況を説明する。

「ヴェローナの町の一軒家。そこでジョン修道士は病人を介抱していた兄弟子を発見しましたが、町役人に疫病感染の疑いをかけられ、そのまま監禁されてしまいます。兄弟子は要領よく脱出しますが、ジョンは手紙と共に置いていかれ、机に上って脱出口を探します」

 よーい、の一声、部長兼舞台監督が手を叩くと、芝居が始まる。

 ジョンが立つ机の向こうから、ジュリエットが死んだという知らせを聞いたロミオが現れる。そこは納骨堂の入り口で、机の下が扉に見立てられている。

 

 ――立ち尽くす修道士は、ない知恵を振り絞って天井を仰いだ。

 頭上から差し込んでくる光を浴びながら固く目をつぶる。

「いいかジョン、考えろ考えろ考えろ……」

 その頃、納骨堂の扉の前では、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、うろうろしていたロミオがついに立ち止まった。

「考えても仕方がない。まず確かめろ、ロミオ」

 二人同時に頷く。

「落ち着け」

 机の上にいるジョンと、その下にいるロミオが各々、ラジオ体操のように両手を高く上げて伸び伸びと背筋を立て、腕をゆっくり回して深呼吸を繰り返した。

 やがて2人はそれぞれの考えをまとめる。

 ジョンは上を指さして確かめた。

「窓は、ここにある」

 ロミオも背後を指さして自分に言い聞かせる。

「扉が、ここにある」

 続いてジョンは兄弟子が出て行った方向を指さし、ロミオは扉から手を引っ込める。

 2人同時に「扉には」と言ったところで、答は一瞬の時間差で聞こえる。

 ジョンにとっては「鍵がかかっている」と。

 ロミオにとっては「鍵がかかっていない」と。

 修道士と貴公子は、同時に結論に至る。

「ということは、ここから……」

 ジョンは考えた。「出るしかない」と。

 ロミオは決断した。「入るしかない」と。

 だが。

 机を降りようとしたジョンと、扉に手をかけようとしたロミオは、そこではたと立ち止まった。

 同時に「待てよ」と考えなおす。

 ジョンは気が付いた。

「手が届かない」

 ロミオは事実を口に出して確かめる。

「手紙が届いた」

 2人とも何かに気づいたように叫ぶ。

「ということは!」

 ジョンが机を下りると、ロミオは机の後ろに回った。

 観客の前を行ったり来たりした末、ジョンは舞台端に待機して見守っていた役者の一人から椅子を手渡された。

 これは、歌舞伎で黒子が果たす役割で、「その場にいない」という舞台上の約束ごとによっている。

 手渡された椅子を持ってジョンが机の上に戻ると、ロミオは観客の前を行ったり来たりした挙句、机の前に戻ってくる。

 それぞれがそれなりの結論を、ひとり口にする。

「これで開けられるだろう、手が届きさえすれば、兄者が戻らずとも、ジュリエット様が生きておられることはロミオ様に伝えられよう」

「それでも開けなくてはいけないんだ、手紙が届いて僕が戻るまでの間に、ジュリエットの美しい顔が朽ち果てていようとも」 

 2人の男は、言ったことをそのまま実行に移したが、すぐに悲鳴を上げた。

「開いたぞ~!」

ジョンは椅子に登って、なんとか窓を開けることに成功した。

 だが、いざ出て行こうとして窓枠に手をかけたところ足が滑った。

 なんとか椅子の上でつま先だけキープするが、窓からぶら下がっている体勢になってしまった。

「登れると思ったんだけど~!」

 机から逃げるロミオは、結局は扉に触れてもいなかった。

 自分に言い訳する。

「そんな気がしただけだ」

 何とか椅子から降りたジョンは、力尽きて机の上に倒れる。

 ロミオはというと、納骨堂に入る決断の出来ない自分を叱っている。

「何を恐れているロミオ!」

 ジョンのほうは、机の上に横たわったまま、自らの非力を嘆く。

「私の力が足りないのだ」

 だがロミオはというと、身震いして自分を奮い立たせた。

「いや、僕の愛はそんなことでは挫けはしない」

 ジョンはジョンなりに、乏しい知恵で解決策を導き出す。

「そうだ、ロープを引っかければいいんだ」

 ロミオも自分を納得させることができたようだった。

「冷たい骸となろうが、骸骨ばかりになろうが、ジュリエットはジュリエットなんだから」

 そこで2人は叫ぶ。

「そうと決まればすることは一つ!」

 ジョンは、ロープを探すために机を下りようとした。

 一方、ロミオは納骨堂の扉を、愛するジュリエットがそこで「眠っている」のが文字通りの意味だとも知らずに開けようとする。

 そこへ、ジュリエットが「命を絶つ」原因となった、親の決めた婚約者のパリスが現れる。

 ロープを机の上から見渡して探すことを思いついたジョンはともかく、ロミオは自らの行動を妨げられた格好になった。

 パリスにしてみれば、結婚式の前に花嫁を失った悲しみは耐え難い。

 せめてもう一度だけでも死に顔を見たいと願うのも無理はない。

 だが、その愛する人の亡骸を収めた墓所をうろつく者がいる。

 許しがたい相手を懲らしめようと呼び止めるのも、恋する男としては当然だろう。

「待て!」

 ジュリエットとの二人きりの対面を邪魔されて、ロミオは不愉快そうに問いを返す。

「何者だ」

 そうした男の戦いが起こりつつあることなど、ジョンの知ったことではない。

 彼は手紙を届けたい一心で、窓へとよじ登るためのロープを高いところから探そうとする。

「待っていてくださいロミオ様!」

 その言葉を受けるかのようなタイミングで、その場にいないジョンの代わりにパリスが言い放つ。

「誰かは知らんが、貴様ごときに名乗る名などないわ!」

 襲い掛かかって来たのが誰か、その剣を自らの剣で受けたロミオは気づいて激高する。

「さてはおまえがパリスだな!」

 力任せに突き放されたパリスは、軽やかにバックステップを踏んで剣を構える。

「なぜ僕の名を知っている……さてはおまえがロミオか!」

 その問いを肯定も否定もしないで、怒りに任せて繰り出される切っ先が何度となくパリスを襲う。

 ようやく絞り出した言葉は、最後まで続かない。

「お前のせいでジュリエットは……」

 ロミオの剣を冷静にかわしながら、パリスは浴びせられた非難を一言で切り返した。

「その言葉、そっくり返させてもらおう」

 ジュリエットを死に追いやった張本人の一人に軽くあしらわれ、ロミオはムキになって叫びと共に斬りかかる。

「言いたいことはそれだけか!」

「さて、ロープはどこでしょう?」

 ジョンの質問は自分に対するもので、別にロミオに返事をしたわけではない。

 だが、パリスの返事は、ロミオのしつこさではなく、ジョンのまどろっこしさに対する苛立ちにも見えた。

 初めて怒りの言葉が発される。

「そんなことはどうでもいい!」

「一刻も早く手紙を届けないと」

 そういうジョンの独り言は、もう戦いはやめろという意味にも聞こえる。

 だが、その調停をロミオは足蹴にした。

「もう遅いんだよ! 何しに来た!」

 剣の腕ではなく、怨念に狂った男の気迫に圧倒されたパリスは、何歩かあとじさった。

 ロミオはその隙を逃さず、剣を振るった――。


「あ、冬彦、悪い!」

 パリスを追って机の周りを走り回っていたロミオが、役名ではなく、本名を呼んだ。

 パリスの反撃で斬り払われ、足をもつれされたのである。

 よろめいて机に倒れ込むロミオに、見ていた部員一同はどよめいた。

 だが、それよりも大変なことが起こっていた。

 押された机が揺れたせいで、冬彦が机からつんのめって足を滑らせたのである。

 その高さはそれほどではなかった。

 小学生が飛び降りても怪我一つすることはあるまい。

 それでも、不器用な冬彦のことである。

 床に頭から落ちたりすれば、とっさに手で顔をかばうこともできないかもしれない。

 悪くすれば、首の骨を折ったり、打ちどころを悪くしたりするかもしれない。

 その時は、命にかかわる。

 咄嗟に瑞希が、座り込んだままの部員たちの間を縫って疾走した。

 音を立てることもない。

 いや、それどころか部員たちは、身体と身体、また楽な姿勢で組んだり伸ばしたりした足の間で正確なステップを踏む爪先に気づくこともない。

 一方、冬彦は案の定、手を突き出すこともできず鼻から落ちかかっていた。

 瑞希の目の前で、冬彦の顔は今にも稽古場の床に激突しそうになる。

 その身体の下へ、吉祥蓮の美少女忍者はその使命を果たすべく、スカートがめくれるのも構わずスライディングをかけた。

 華奢な脚は揃えられたままの形で、白いソックスの足首からふくらはぎ、膝から太ももへと露わになる。

 だが、瑞希の小さな身体が冬彦のクッションになる必要はなかった。

 滑り込んだところに落ちてくるものは、塵一つなかったのである。

 だが、事故は現実に起こっていた。

 机の上に、冬彦の姿はない。

 だが、セーラー服の少女が横たわる辺りにも、頭を強打して血を流す少年はいなかった。

 代わりに、惨事を未然に防いだ者がいたのである。

 その人物による、澄み切った、しかし怒りに満ちた声が稽古場に響き渡った。

「ロミオ、気を付けなさい!」

 本名ではなく役名を呼んだ亜矢が、冬彦に柔らかく密着していた体を起こす。

乱れた黒髪が流れるように床を撫で、美しい上級生の顔の前にかかる。

 少年を抱いていた豊かな胸を揺らして髪をかき上げた亜矢は、うつむいて冬彦の安否を確かめるや、安心したように微笑んだ。

 冬彦を事故から救ったのは、亜矢だったのだ。

 落下の瞬間、冬彦はいつのまにか飛びついていた亜矢に抱き止められていた。

 そのまま怪我一つすることなく、柔らかい身体に守られて床を転がっていたのである。

 電光石火の早業に、稽古場は一瞬、静まり返った。

 それに負けた少女忍者は、スカートの尻を押さえながら立ち上がる。

 瑞希の一瞬の疾走にも上がらなかったどよめきが、床にしゃがみ込んで唖然としていた部員たちの中から稽古場中に響き渡った。

 そこで我に返ったように、亜矢は頭を振る。

 かき上げた髪が再び躍った。

 今度は妹のほうへ、亜矢の気遣いの言葉が投げかけられる。

「瑞希ちゃん、大丈夫?」

 そう言いながら、亜矢は乱れた髪をさあっと撫でて歩み寄ってきた。

 小柄な下級生の目の高さまでしゃがみこむ。

 年上の美しい少女に見つめられた緊張からか、兄の危機を救ってもらったことへのお礼の言葉はたどたどしかった。

「大丈夫……です。ありがとう……ございました」

 しどろもどろな敬語と共に、瑞希はまっすぐ見つめる美しい先輩から視線をそらす。

 その先には、天井を見上げて横たわる冬彦の姿があった。

 日本の可憐な忍者ではなく、水の都ヴェローナの令嬢によって危機一髪のところを救われた若き修道士は、うっとりと呆けたような表情をしていた。

 その目もまたどこを向いているのやら、すっかり虚ろだったのである。

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