シーン5 伝統ある倫堂学園演劇部の物語

 ところで、話題となっている割に表舞台に顔を出すことのない三好藍について語っておかなくてはなるまい。

 退学した頃にはすでに、葛城亜矢との関係も公認の事実だったが、入部当時の彼は違った。

 浮いた話などひとつもない、純粋にパフォーミングアーツを愛する熱心な部員だったのである。

 そんなわけで、それから1年間はひそかに憧れる女子も数知れなかったが、その分水面下の暗闘と牽制はすさまじかった。

 女子の間のパワーバランスは国際政治よりも絶妙に機能し、誰一人抜け駆けする者はなかっのである。。

 こうして無垢な美少年は恋を知ることなく、仲間たちと男女を問わず清らかな信頼関係を築くこととなったのだった。


 一方、入学当時の葛城亜矢はといえば、まさに掃き溜めにツル、もっと修辞を利かすなら、不毛の荒野に舞い降りた熾天使(してんし)ともいうべき美少女であった。

 初めて部室に入ってきた瞬間、部員はおろか顧問にいたるまでが息を呑んだ。

 流れるような黒髪の少女は、倫道学園の制服のデザインが本来持つ意味「燃えるような(ブレザー)」を、その紺色の生地にもかかわらず醸し出していた。

 それでいて、立ち居振る舞いは常に清楚で冷静だったのである。

 彼女に対しては、入学当時の三好の場合の女子と同様に、男子の間で「抜け駆けなし」という暗黙の紳士協定が結ばれた。

 女子の間なら多少のやっかみがありそうなものであるが、亜矢については「張り合うだけムダ」という空気が流れた。

 下手に喧嘩を吹っ掛ければ逆に男女を問わない集中砲火を浴びかねない有様だったのである。 

 つまり、葛城亜矢は部室に足を踏み入れた瞬間から、メンバー全員の崇拝を受ける立場になったのであった。


 それが全校にまで広がったのは、去年の秋に文化祭でソーントン・ワイルダー『わが町』を上演したときである。

 伝統ある倫堂学園高等部は演劇部も古い歴史を誇り、かつては全国大会を制したこともある。

 現在でもそれなりの実力はあるのだが、時代が下ってくると大会の出場校も増え、メソッドも普及したために他校の後塵を拝することとなって久しい。

 だが、少子化が進んで私学が生き残りを図るようになると次第に学力が重視されるようになり、大会結果もそれほど問題にされなくなっていった。

 かくして、倫堂学園高等部の生徒たちは毎年、実力ある部員たちが学業の合間を縫って丹精込めた舞台を堪能できるというわけなのであるが、それを支えるのは3年生引退後の後輩たちであった。

 引退といっても、3年生にとってはこれが最後の公演となる。

 その大切な公演にあたって、三好は日ごろの鍛錬によって鍛え上げた体躯と磨き抜かれた表現力で、農場主ギブス家の息子ジョージ役に抜擢された。

 大学進学を目指す野球少年の役どころである。

 一方、亜矢はその相手役であるエミリー役に選ばれた。


 エミリーは地元新聞編集長の娘である。

 ジョージとは家が隣同士で、幼いころから部屋も向かい合わせということになっている。

 この可憐な少女は、プロの劇団でも看板となる新人女優が演ずることが多い。

 ジョージ役を演ずる方にしてみれば、願ったり叶ったりというところだ。

 ところが、この亜矢を前にしたプロポーズのシーンになると、三好は萎縮した。

 当然、そのたびに稽古は止まる。

「おい、ジョージ!」

 その頃、三好を役名で怒鳴りつけていた演出担当も、今の部長である。

 面倒見の良さが買われ、引退する3年生から部長を任された彼は、入部当初から三好のよき相談相手であった。

「何だよ」

 渾身の力を振り絞って、亜矢の演じるエミリーの前で人生最大の選択をしていた三好は不貞腐れる。

「ちょっと休憩。ごめんね亜矢ちゃん……おまえちょっと来い」

 まぶしい笑顔で小さく手を振る亜矢をステージに残して、部長は稽古場のある校舎から出て、秋だというのにまだ蝉の鳴く外へ三好を引きずっていく。

 この措置は、演出のダメ出しに役者がキレたときによく使われる。

 人のいないところで罵詈雑言を浴びせるための手段である。

 三好はそうそう逆上する性質ではなかったが、よく話を聞いてくれる部長に甘えることは多かった。

 稽古場の規律を保つのも演出の仕事であるから、他の部員の前では相当に怒っているように見せかけることも必要なテクニックだったのである。 

 実際のところは、そこらにしゃがんで休憩時間いっぱい脱力トークが続く。

 まず、情けない声でぼやくのは部長である。

「悪いけどお前、下手」

「うわ、直球」

「回りくどいのイヤなんだよ、時間ないし」

「はい、稽古」

 ふざける三好に覆いかぶさるように立ち上がって、部長は凄む。

「話聞けコラ」

 はい、と小さく頷く三好は小首をかしげて部長を見上げる。

「お前がやっても可愛くない」

 そこでダメ出しがくどくど始まった。

 内容は、最後の一言でまとめられる。

「幼馴染に恋してない」

「だって葛城は」

 そこで言葉に詰まった三好の肩を、部長はぽんと叩いた。

「分かる。言いたいことは分かる。確かに違う。すでに違う」

 本来なら、無垢な心を持つが故に子どもっぽいジョージは、それにいら立つエミリーに罵倒され、男としての決断を迫られる立場である。

 だが舞台上の三好は、声を張り上げて怒鳴り散らすやんちゃ坊主でしかなかった。

 それは、葛城亜矢の放つ、厳しくも妖しい霊気に圧倒されまいと強がっているようでもあった。

 いわゆる高嶺の花についての不毛な会話も途切れ、男2人がうなだれてしゃがんだまま、時間だけが過ぎていく。

 三好は深い溜息をついて、「悪いな」と立ち上がった。

「ま、気楽にぼちぼちいこうや」

 そう答える部長は、わざとらしく右へ左へ身体をふらつかせながら稽古場へ戻る三好の頭をつかんでまっすぐに歩かせた。

 やがて同じシーンが再開されたが、葛城亜矢はともかく、三好は相変わらずだった。

 

 そんなある日のこと。

 その日も、何の解決もないまま部長のダメ出しは繰り返された。

 重苦しい雰囲気の稽古を終えて、三好は暗い帰り道を一人で歩いていた。

 公演まで、1週間を切っていた。

 セリフは完璧に入っていた。

 だが、覚えたセリフを動作付きで間違いなく暗唱するだけでは、学芸会とそう変わらない。

 入学当初から、倫堂学園高等部の演劇部ではそのポリシーを叩き込まれる。

 人一倍、それを守って真剣に取り組んできた三好が、決して寒くはない初秋の夜道で肩をすくめて歩くのは、無理もなかった。

 そこへ、亜矢が追いすがってきたのである。

「センパイ!」

 それは、学校では絶対に聞くことのない嬌声だった。

 後ろから飛びついたとき、その夏服のブラウスを突き上げる豊かな胸は、三好の背中に押し付けられる。

 それは、三好にとって生まれて初めての感触だったろう。

「か、葛城?」

 三好は夜闇にも分かるほど真っ赤になって、亜矢を振りほどこうとする。

 だが、悩める上級生の首に巻き付いたしなやかな腕は、もがけばもがくほど締まっていく。

 さっきとは別の意味で真っ赤になった三好は呻く。

「ぐるじい」

 その耳元で、亜矢は囁いた。

 可愛らしい唇が、ラベンダーの甘い香りと共に微かに耳をくすぐった。

 その吐息は、微かな声でこう告げた。

「エミリーは、ジョージを待ってます」

 茫然と立ち尽くす三好の首から、亜矢の腕が白蛇のようにするりとほどけた。

 身じろぎひとつできない少年を、長い黒髪の少女が追い越す。

 夏服の背中が、闇の中へ溶けるように消えていった。

 その次の日からである。 

 三好がジョージとして、亜矢の演ずるエミリーに「進学も野球もやめて、君と結婚したい」と告げられるようになったのは。


 文化祭公演は終わり、三好藍と葛城亜矢は会場の大喝采を浴びた。

 普段はお互いを牽制しあっていた隠れファンたちも、この日ばかりは無礼講とばかりに、二人への積極的なアプローチを試みた。

 文化祭の喧騒が静まっても、学園内にはしばらく、三好や亜矢と共にスマートフォンやデジカメで取った画像がサイバー空間を通じて飛び交ったのである。

 亜矢の可憐さや演技力もさることながら、生徒も教員も保護者も驚嘆させたのは三好の演じるジョージのリアルさであった。

 特に、エミリーへのプロポーズには多くの女生徒が胸をときめかせた。

 さらには幕切れで、老いたジョージが夭折したエミリーの墓の前で泣き崩れるシーン。

 切ない雰囲気と、舞台上に出現した世界のはかなさに、客席のあちこちからすすり泣きの声が聞こえた。

 三好の演技にそこまでの真実味を与えたのは、初めて知った恋であったのはいうまでもない。

 そして、公演後の部室で打ち上げが行われ、一同が散会するのを待って、三好は亜矢を校舎の屋上に呼んだ。

 モニュメントや垂れ幕の撤収が終わって、山の端に沈む夕日の最後の光が、裏山のダケカンバやツブラジイの枝葉を一瞬だけ朱に染めて消える頃だった。

 三好は亜矢に、励ましの言葉を聞いたあの夜から秘めてきた思いを伝えた。

「ありがとう。君のおかげだ」

「……私、そんな」

 亜矢はうつむいた。

 言葉が続かなければ一生後悔すると言わんばかりの勢いで、三好はまくしたてる。

「あの時、分かったんだ」

「……何が、ですか?」

 昼間の公演からは考えられないようなたどたどしい言葉が、つっかえつっかえ尋ねた。、

 薄青い闇の中で、彼を見つめているであろう表情はよく見えなかった。

 それがかえって良かったのかもしれない。 

 まっすぐ見つめ返されていたら、三好は何ひとつ話すことはできなかっただろう。

 だが、かなり回りくどい、言葉の上で行きつ戻りつする、長い長い告白がようやく終わって短い沈黙が二人の間を通り過ぎた後。

 亜矢は微かに頷いた。


 やがて秋は深まり、三好と亜矢の関係は、祝福とまではいかなくともある種の諦めと共に好意的な噂となって広まっていった。

 ところが、ひと冬が過ぎる頃、事件は起こった。

 きっかけは、次年度の大会上演作品の台本選定である。

 三好は年末年始に、亜矢に会う時間を我慢の限界まで割いて、一本の戯曲を書き上げていた。

 こんな話だった。


 ――何の取柄もない、正直だけが取り柄の炭焼きが山奥の滝で沐浴する乙女を目撃する。

 その美しさに、炭焼きは乙女が木の枝にかけた衣を取り上げ、自分の妻になってほしい、それが叶えばいつ死んでもいいと哀願する。

 女は恥じ、また憤って、このことを人に話せば死ぬと告げるや滝壺の中に姿を消す。

 やがて男のもとに一人の娘が現れ、一夜の宿を乞う。

 泊めてやると次の朝、娘は炭焼きの妻になると言う。 

 二人は共に暮らし始めるが、娘はある日、男が滝壺から持ち帰った衣を発見する。

 過去に別の女がいたのなら正直に教えてほしいと迫る。

 男は女の一途さに嘘がつけず、命がかかった秘密を語ってしまう。

 その時、娘は正体を現す。

 衣をまとったのは、滝壺に消えたあの乙女だったのである。 

 実は竜宮の姫だった乙女は、炭焼きを自分にふさわしい男にするべく、その日から読み書きに武芸と厳しい稽古を課した。 

 惚れた弱みで逃げることもできず、彼は言われるがまま、されるがままに文武を磨き、遂には近隣に名の聞こえた勇士となる。

 その噂を聞きつけた都の帝は、勇士となった男に海の向こうへの出征を命じる。

 乙女は山の頂上に上り、海の彼方に消えてゆく戦船を見送っていたが、別れに耐えられなくなり、滝壺から流れる川に沿って走りだす。

 いつしか女は蛇に変じて川に飛び込み、海へと下っていく。

 戦を終えて帰ってきた男は、帝から海を荒らす龍を退治するよう命じられる。

 荒れ狂う海を前に弓矢を携えて待つ男は、現れた龍がかつての妻であることを知る。

 人を愛したが故に龍であることを捨てた妻は、男を追うために再び龍となっても、元の世界には帰れない。

 帝を取るか、龍と化した妻を取るか。

 弓矢をなげうって海へ身を投げようとした男に、妻は二人の間に生まれた子を託し、海の中へと消える――。


 三好は予め、メールで亜矢にデータを渡していた。

 なぜなら、これは亜矢のために書かれたものだったからである。

ただし、舞台監督として。

 三好が演出として、共に作り上げようとした舞台だった。

 彼女への称賛と感謝と敬愛を込めて、彼女をイメージした龍神の姫君を描いたのである。

 だが、冬休みが明けて、部活で発表した彼の作品は酷評された。

「これ、いわゆる民話劇ってやつ?」

 部室内で並べかえられた机や椅子に座る、知ったかぶった一人の2年生男子部員が不愛想に口火を切ると、同学年からからダメ出しの集中砲火が三好を襲った。

 日頃の稽古ではいかに和気あいあいとやっていても、自分たちの名誉がかかった台本への評価は厳しい。

 その辺りは、人格攻撃がない限り、同席する顧問は静観している。

 そんな中で、プロットから人物像からセリフの端々に至るまで、三好の作品は滅多切りにされたのだった。

「なんか、ちゃっちい」 

 普段から感情でしかものを言わない、ちょっと幼い雰囲気の女子部員がたどたどしい物言いで文句を言う。

「展開が唐突すぎるんじゃないですか?」

 このアニメオタクの男子部員は、重箱の隅をつついては喜ぶところがある。

 彼がここで問題にしたのは、 しょっぱなからいきなり炭焼きが美女に求婚したり、いきなりやってきた娘が押しかけ女房になったりという点である。

 観客はついていけるのか、という点が問題になった。

「場面多すぎです」

 稽古よりも舞台装置やタイムテーブルにやたらとこだわる近眼の女子部員が眼鏡を拭きながら不満を漏らした。

 高校演劇大会では、上演時間は1時間と定められている。(正確には1時間と59秒)で、どれだけ舞台装置を動かさなければならないのか。

それだけ場面転換の手間がかかり、時間のロスにつながる。

「結局、この人たちは何者なんですかね?」

 台本をめくりながら嫌味な物言いをする猫背の男子部員。

 そもそも、炭焼きが勇士となり、女が龍になるという点で、人物像の変化があまりに甚だしすぎると非難した。

 もっとも、この部員が稽古中にこっそりその場を抜け出しては、校内では使用が禁止されているスマートフォンでこっそりSNS上を荒らしているのを部の誰もが知っている。

「ちょっとアナクロですね」

 いつも良識派ぶっては人のすることに難癖をつける、いつも顔だけは笑っている女子部員が批判を加える。

 最後に子供を引き渡すことでオチがつくのは、まさに「子は鎹(かすがい)」という古い価値観によるというのだった。

「高校演劇っていうより、学芸会だよね」  

 1年のときも2年になっても、県大会で落選するたびにヒステリーを起こして部室で喚き散らしていた、万年しかめっ面の女子部員が、今回ばかりは冷ややかに言った。

 何のノウハウもないまま試行錯誤しながら書いたものがどのように批判されても、また否定されても、三好は特に反論しなかった。

 だが、稽古場に並んだ長机に向かう部員たち中のからある一言が漏れたとき、三好の態度が変わった。

「彼女持ちの自己満足だよね」

 男子のものとも女子のものともつかないつぶやきに、顧問が制止する間もなく、黙っていた三好が初めて反応した。

「それは関係ない」

 声を抑えた静かな反論だったが、誰一人として言い返すものはなかった。

 部長が立ち上がって、「待てよ」と止めたが、それでも別の声がつぶやいた。

「えこひいき」

 部長が「誰だよ」と叫ぶ。

 顧問がそれを制して、誰の発言か厳しい声で尋ねた。

 だが、それを無視して、亜矢が椅子を鳴らして立ち上がった。

 三好が目を伏せたまま、囁いて制止する。

「やめとけ」

 亜矢は聞かなかった。

 まず、三好を見下ろして微笑む。

「私も、つまらないと思う」

 その場の空気が凍り付いた。 

 亜矢の持つ独特の雰囲気もあるが、それ以上に恋人の努力の結晶を大人数の前でこき下ろしたことに、顧問を含めて一同が唖然としたのである。

 それは、三好本人も例外ではなかった。

 だが、冷徹な美少女の表情には慈しみさえあふれていた。

「まず、民話劇が高校生の大会で演じられたのは、民主運動華やかなりし60年代から70年代が主流よ。今やっても、年配の観客にしかウケないでしょうし、年配の方はそんなに来てくださらない」

 民主運動どうこうは置いといても、観客層についての批判は事実を述べていた。

 地方ブロック・全国大会レベルではともかく、地区・県レベルの観客動員は日本全国、どこでも悩みの種である。

 その現実を前に考え込む一同を見渡して、亜矢は「でも」と言葉を継いだ。

「審査員が高齢なら、評価される可能性はあるわ。観客に審査権があるわけじゃない」

 それは言い過ぎだという声は上がらなかったのは、県大会止まりという現実を考えれば無理もないことである。

 亜矢は論評を続けた。

「チャチになるかどうかは私たち次第。かつては優れた民話劇があったわけだから」

 文句を言った女子学生が恥ずかしそうにうつむいた。

「いきなりの求婚は、神話や伝説では珍しくないわ。たとえば、浦島太郎だって、『丹後国風土記(たんごのくにふどき)』では……」

 おい、と顧問が止めたのは、別に人格攻撃云々の問題からではない。

 海で釣りあげた亀が、舟の上で美しい女に姿を変えたために、男がその場で「感(たけ)りて婦(め)に」した点は、学校では伏せたい話題である。

 すみません、と頭を下げる亜矢に、顧問は「訳が分からないひとは調べておくように」とだけ言う。

 亜矢は、中断された話題に戻る。

「押しかけ女房については、最初からそのつもりだったと考えれば済むことじゃない? 現代だって、いつの間にかそばにいて、いつの間にか一緒に住んでいて、気が付いたら結婚に持ち込まれてた、なんて男は結構いるんじゃない?」 

 一同がどっと笑った。

 その場が和んだところで、亜矢は具体的な演出の話に入った。

「場面転換は、それこそ腕の見せどころじゃないかしら? 暗転は、音楽で場面をブリッジ(橋渡し)して観客に考えてもらう時間だし、それが多すぎるっていうんだったら、演技や演出の一環として装置を動かせばいい。アイデアが面白ければ、観客はダマされてくれるわ」

 舞台ってウソの空間だもの、と付け加えると顧問は頷いた。

 高校1年生とは思えない知識で教員を完全に味方につけたところで、亜矢は人物描写について説明した。

「それこそ、観客をどう納得させるかの問題だと思うの。たとえば、押しかけ女房のスパルタ教育でダメ男が変身すると考えたらどう?」

 顧問が口を挟む。

 韓国の「ピョンガン姫とオンダル」だという指摘だった。

 三好が「すみません、パクりました」と頭を下げると、部室内がどっと沸き返った。

 その様子を笑顔で見渡し、一息ついた亜矢はアイデアを膨らませてみせる。

「女は蛇になれるわ。姿や形じゃなくて、観客のイメージの中で」

 舞台ってウソの空間だもの、と繰り返す亜矢の言葉を、「それは道成寺縁起(どうじょうじえんぎ)だろう」と顧問の蘊蓄(うんちく)が遮る。

 再び三好がパクリを自白して、部員たちは大爆笑した。

 そして、最後の批判に亜矢はこう答えた。

「一緒にいたいけど事情があって言い出せない、って男女が子どもを口実にするのは、アリだと思う」

 感情の機微に触れた発言に、これには一同が静まり返った。

 顧問は「古典落語の世界だね」と講評したが、「空気読めよ」というニュアンスたっぷりの視線が突き刺さり、いい年こいて縮み上がった。

 そして最後に、亜矢は個人攻撃にも応じた。

「えこひいきだっていうけど、この台本、私が出るの前提とは限らないんじゃないですか?」

 それだったらそれでうれしいんですけど、という微妙な表現が付け加えられると、冷やかしの口笛があちこちから上がった。

 部長が立ち上がって、その場をまとめた。

「それじゃあ、個人的な感情抜きで決めてくれ。多数決で行こう」

 OK、の声は上がったが、反対する者はない。

 部長が黒板に「賛成」「反対」と評決の準備を始めると、三好が「待った」と止めた。

 立ち上がって、深々と頭を下げる。

「台本を撤回します」

 一同がざわめく中、亜矢だけが三好と見つめ合い、笑顔で頷いた。

 再び、どこからかつぶやきが聞こえる。

 それじゃ俺たちが悪者じゃん、と。

 だが、亜矢はそこで厳しく言い放った。

「誰が悪いわけでもないわ。大会で何をやるか話し合って、書いた本人が台本を引っ込めた、それだけじゃない」

 部長が「それでいいか」と三好に尋ねると、軽い返事が「ああ」とだけ返ってきた。

 顧問が、「それじゃ解散」と告げて部室を出ていくと、何やらぶつくさガヤガヤいう声と共に部員たちが出て行って、その場は収まった。

 数日後、上演台本には別の台本が選ばれて、再び稽古が始まった。

 

 やがて新年度。

 卒業した先輩と同じ立場で新入生を指導することになった三好は、かつての卒業生たちと同じように、結果は出ないが満足のいく形で最後の大会を終えた。

 文化祭公演に向けて、引退を控えた演出担当の部長は、相当のゴリ押しで自分の書いた台本『走れ! ジョン』を通した。

 冬彦の指導に困ったときに聞いた、ブレヒトに関する顧問のアドバイスをヒントに書いたものである。

 ポリシーは次の4つ。

 ただ観客を信じる。

 技巧にこだわらない。

 どんなに不自然でもデタラメでもいい。

 やりたいことを思いきりやる。

 それは、上演作品の選定で辛い思いをした三好へのフォローのつもりだったろう。

 三好が演ずる愚かなジョン修道士と、その背後で進むジュリエットの悲恋。

 ジュリエット役の亜矢との最後の舞台に臨むべく稽古を重ねる三好だったが、その情熱を挫く出来事が起こった。

 それは、些細なことだった。

 ある日、部長が三好に見せたスマートフォンの画面には、台本投稿サイトにアップロードされた民話劇があった。

 三好の書いた、龍神姫の物語だった。

 部長は訝った。

「まだ気にしていたのかよ」

「部活の中でウケなかっただけだしな」

 広い世間に出れば理解者はたくさんいるさ、と口では強がった三好だったが、台本を撤回してからは、パソコンの中のデータに手をつけたことはなかった。

 投稿サイトに寄せられた、感想は最初のうちこそ好意的だったが、重箱の隅をつつくようなコメントをきっかけに、悪意ある中傷でログは一気に炎上していた。


 >いい話だけど、私の趣味じゃありません。年配の方にはいいかな。

 >>明らかに審査員狙いじゃねえか 

 >>観客見ろよ観客


 >昔の民話劇ほどじゃないかな。

 >>木下順二とか矢代静一とか?

 >>そのレベルじゃねえよ

 >>意外性狙える腕かよ


 >これ、神話伝説結構入ってますよね

 >>朴李(ぱくり)だな


「気にすんなよ」

 慰める部長に、三好は笑ってみせた。

 それが精いっぱいだった。

 声も出なかったのである。

 データを渡した相手はたった一人。

 しかも、酷評されたポイントは、全て亜矢がフォローした箇所だった。

 次の日、倫堂学園高等部には、三好の退学届が提出された。

 一夜の間に、彼と両親の間でどのような葛藤があったかは定かではない。

 だが、夜中に響き渡る口論と怒号と号泣の声は、近所迷惑でしかなかった。


 ……ただ、それが何を意味するか、吉祥蓮が気にかけないはずはない。もっとも、瑞希にその情報は入ってこなかったが。

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