2場 妹・子猫と個人授業
シーン1 美少女忍者の秘術伝授 「まっすぐ・はやく」
倫道学園の図書館から瑞希が帰ってくると、まだ明るいのに冬彦が帰っていた。
ふすまの向こうから声がするので開けてみると、そこには制服姿で一枚のメモを片手にぶつぶつ言いながら畳の上にうずくまっている冬彦の姿があった。
「何してんの?」
「いや、セリフの練習」
と言いながら隠すメモの端には、かわいらしい仔犬の顔が落書きされていた。
冬彦のセンスではない。
「何、それ?」
「いや、何でもない」
瑞希を押しのけるように部屋を逃げ出し、階段を駆け上がる冬彦の背中に、無慈悲な命令が宣告される。
「着替えて30分後に集合!」
それから1時間後に冬彦が戻ってくると、瑞希が待ちくたびれた様子で体操座りしていた。
子猫の顔をプリントしたTシャツに、スパッツ姿。
ラフな格好とは裏腹に、その言葉は厳しく不機嫌だった。
「遅い」
いままでセリフの暗記を、という弁解を「座って」の一言で封じた瑞希は、唐突に本題に入った。
「まず、ここにりんごがあります」
きょとんとした顔で「ないけど」と反論する冬彦を、有無を言わさず一喝する。
「あることにするの!」
兄にはそれと告げずに強引な個人レッスンを始めた暴挙は棚に上げ、そこからかよ、とぼやきながら、瑞希は冬彦に歩み寄った。
「お兄ちゃんは、あのりんごを取りに行こうとしています」
「別にいらないけど」
「いることにするの!」
白い歯を剥いていきり立つ妹に、冬彦は身体をすくめる。
上目遣いに様子を伺う兄に、こめかみをぽりぽり掻きながら、瑞希は一言ひとことを粒だてて説教した。
「お兄ちゃんは、別人にならなくちゃいけないの……いろんな意味で!」
いささか震えながら荒い息をひとつ吐いた気持ちを分かっているのかいないのか、とにかく冬彦は、こくこくと頷いた。
さて、瑞希の言う「別人になる」こと。
決して不可能ではない。
ひとりの人間が別の人間に「なる」ことそのものは物理的に不可能であるが、「なりすます」ことは精神的に可能である。
なぜなら!
重ねて説明しておこう。
日本に歴史というものが語られ始めてから、瑞希たち吉祥蓮の女たちに脈々と受け継がれてきた門外不出の技である。
一夜の内に千里を駆け、拳の一撃でクマをも屠る。
その技は人を傷つけるためには用いられない。
世に泰平をもたらす器を持ちながらも、その力を発揮できない男たちが子孫を残せるよう守り抜くことを大義とする。
その技のひとつ。
「
人を守るためには、その敵の只中に飛び込み、情報を収集することも求められる。
その際には、正体を悟られてはならない。しかし、それを隠そうとすれば必ず怪しまれる。
怪しまれたくなければ、隠さなければよい。
では、隠すことなく、正体を偽るにはどうすればよいか。
別人格を作り上げ、その人物として生き抜けばよいのである。
瑞希が冬彦に伝授しようとしているのは、その秘伝中の秘伝であった。
「来て、お兄ちゃん」
瑞希は低くつぶやく。
ちょっと妄想の強い、事情を知らない人が聞いたら誤解されるかもしれない表現である。
だが、そうさせるには著しく色気に欠けるが。
もっとも、欠けていなければ、それはそれで大問題である。
そして、これは血のつながらない兄にとっても問題にはならないようだった。
次の一言でも分かる通り。
「どこに?」
「こっちだって言ってんでしょ!」
禁断の妄想も何もあったものではない。
冬彦はぶつくさと口答えする。
「言ってないし」
「見たら分かるでしょ」
瑞希は拳を握りしめて、短パンの腰を低く落とした。
畳の上の指が猫足立ちになる。
「さあ、りんごを取ってみて」
「だから、ないし」
「あのへんにあることにするんだって言ってんでしょ!」
しょうがないな、とぼやいて、冬彦は架空の「りんご」に向かって歩き出す。
脇をすり抜けようとした冬彦を、瑞希はくるりと回って背中で遮った。
妹が勝手に始めたワークショップに無理やりつきあわされて、兄は不機嫌そうである。
「邪魔なんだけど」
妹は自分より背の高い兄を見下そうとするかのように、Tシャツ一枚の薄い胸を張る。
「じゃあ、何とかしたら?」
そこで冬彦が横に跳ねると、体の正面にある子猫の顔のプリントが通せんぼする。
しばし右へ左へと冬彦は横這いし、そのたびに瑞希は軽いステップでくるくる回って行く手を阻んだ。
冬彦の足が止まった。
「じゃあ、やめた」
「考えなさいよ」
「めんどくさい。そもそもりんごなんてないし」
「だからそこにあることにするんだって」
早い話が、「もし、ある目的のもとに特別な状況におかれたら、人はそれなりの行動を取る」ということなのであるが、冬彦は、その「もし」の理解を明らかに拒んでいた。
「喩えじゃ分かんないか」
分からないのではなく、分かりたくないのである。
だが、不幸なことに、兄を一途に想う妹には、その事実は全く理解されていない。
再びこめかみを掻いた瑞希は、じゃあ、と勢いよく手を叩いた。
萎えた気分に気合を入れるというより、これまでのごたごたをすべてなかったことにしようという類の「じゃあ」であった。
「人間の動作は3つの観点で区別できるの」
「どういうポイント?」
カンテン、と聞いて寒天と聞き間違えずに別の言葉で言い換えられるのだから、冬彦は瑞希が言うほどバカではない。
溜まりに溜まった鬱憤を一気に晴らそうとするかのように、早口で答えが返ってきた。
「方向と速さと重さ」
「つまりベクトルで相対的に捉えるわけだね」
喩えを使わないと、妙にやりとりが早い。
むしろ、瑞希が言葉に詰まるぐらいである。
「そうたい……」
「ということは、2の3乗で8通りある?」
ちょっと首を傾げて、そう、と答えた。
冬彦は目を見開いてはしゃぎだす。
「速さに対しては遅さ、重さに対しては軽さを置けばいいと思うんだけど、方向についてはちょっと分かんないな」
「真っ直ぐか、曲がってるか」
答えるというよりも一息ついたというのが適当なひと言に、冬彦は有頂天になる。
「やっぱり相対性理論か! そうだと思ったんだ!」
何故ここにアインシュタインが出てくるかというと、「真っ直ぐなものでも、見方を変えれば曲がってることもあるんだよ」というのが大雑把な相対性理論だからである。
だが、飛燕九天直覇流奇門遁甲殺到法は理論物理学まではカバーしていないので、冬彦の興奮が瑞希に理解できるはずもない。
とにかく、と強く言い切って、瑞希は冬彦の鼻先にアッパーカットで拳を突き付けた。
「これが、
「何だよ、いきなり」
たじろぐ冬彦の手首を、小さな白い手が掴んだ。
「やってみて」
瑞希の手に導かれて突き出された拳は、虚空に潜む何者かを打ち抜くように直線を描いた。
「真っ直ぐ、速く、重く……」
言うなり、一歩退いて左右のジャブを繰り出してみせる。
「これが
更に両の掌を挙げて一度打ち合わせ、「来て」と両腕両足を開いて立つ。
きょとんとしていた冬彦だったが、「打ってこい!」の一喝で恐る恐る左右の拳を繰り出す。
瑞希は掌で、どの拳も打ち返す。
「真っ直ぐ! 早く! でも、軽く!」
……型はあと6つあるので、練習の内容を次に挙げていく。
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