シーン5 美少女忍者が決断するに至る背景
既に述べた通り、冬彦は朝が遅い。
その理由は、瑞希は寝てからも机に向かっているからであった。
彼が学校の成績を上位に保っていられる理由は、その弛まぬ努力にある。
その努力を自己管理に向けられればなおよかったのだが、それは彼にとって別次元の問題だったようである。
小学生として共に暮らした1年間はまだよかった。
昼は給食があるおかげで、瑞希は兄の弁当を持って毎朝の疾走を強いられなくてよかったからである。
赤いランドセル背負って「お兄ちゃん遅いな」で済んでいた。
ところが中学に入ってからは、兄の色恋沙汰の面倒までみる羽目になった。
これもまた、本人の努力では如何ともし難い問題を含んでいるといえばいえなくもない。
しかも、彼の失恋は毎年やってくる。
そのうち、瑞希の我慢が限界に達したのは2回目に起こった引きこもり事件のときであった。
兄を倫道学園の中等部まで送っては、「更衣遁走術」で私服に着替えてランドセルを背負う毎日。
道行く人の視界の死角を突きながらセーラー服を脱ぐ恥ずかしさは、いかに人から走りながらの着替えを見られない術とはいえ、吉祥蓮と母親への抗議に足るものであった。
冬彦が帰る前の菅藤家の居間から。
先に帰宅した瑞希は、母の一葉から朝の見送りが必要なくなった旨を伝えられるや、一気に感情を爆発させた。
「あたし、もうイヤ!」
「そうでしょうね。そう感じてくれてよかった」
母は瑞希の言い分を否定しなかった。
確かに、一葉自らが伝えた吉祥蓮の術である。
しかし、それは11歳の女の子なら感じて当然の思いであった。
「言ってること全然分かんない!」
「分からなくて当然。それが女の子だから」
「だったら!」
瑞希はそこで言葉を呑み込んだ。
吉祥蓮の血を受け継いでいることは、どうすることもできない事実である。
ここで吉祥蓮であることを否定することは、母をも否定することになる。
瑞希がそれを理解していることは承知していたのであろう、そこでようやく一葉は娘を諭し始めた。
「もし、あなたが吉祥蓮の宿命を捨てることを選んだとしても、それは責められないことよ」
事実、そうやって歴史の闇に消えていった女たちもいるのだった。
いわゆる抜け忍を探し出して抹殺するという掟は、吉祥蓮にはない。
仲間たちと娘たちを信じ、宿命と技を受け継ぐことで、吉祥蓮は1000年以上も歴史の陰で普通の男たちを支え続けてきたのだった。
一葉の語る思いは、その誇りに根ざすものとも言えた。
「だから、あなたが冬彦くんを助けてくれたことは、本当に嬉しい」
その言葉で、瑞希の表情は一瞬だけほころんだが、唇は再び真一文字に結ばれた。。
「あたし、吉祥蓮として戦うことは嫌じゃない」
一葉はゆっくりと頷く。
母と目を合わせた瑞希は、これが最初で最後になるであろう問いを、切々と投げかけた。
「でも、戦うからには、吉祥蓮だからっていう理由だけじゃ納得できないの。守る相手を、本当に好きになりたい」
一葉は、微笑んだようでもあった。
娘の揺れ動く気持ちが、女としてあるべき成長を感じさせるものだったからだろう。
その感情は、ほとばしる言葉となってとどまることを知らなかった。
「お兄ちゃんのことは、嫌いじゃない。でも、好きでもないの。だって、素敵なところってある?」
一葉は首をかしげる。
あるともないとも言わない。
だが、感情に身を任せている瑞希にとって、それはどちらでもいいことだったろう。
「朝は遅いし、弁当は毎日忘れるし、何するにも一拍遅いし、何考えてるかわかんない割に色気づくときはきっちり色気づいて、このザマじゃない」
それは一葉にも、否定できない事実であった。
11歳の小学生とは思えない罵詈雑言をたしなめようにも、それは難しかったろう。
「お兄ちゃんから勉強取ったら、何が残るの?」
冬彦の成績は、倫道学園中等部に入ってからこの時まで、上位3位から落ちたことがなかった。
そんなところまでこき下ろした娘だったが、一葉は叱らなかった。
「たまたま家族になったからって、何でそこまで守んなきゃいけないの?」
それは誰が口にしても傲慢であったが、叱責が返ってくることはなかった。
だが、続く一言を一葉は許さなかった。
「父さんだって、ろくに帰ってこないじゃない。どうして父さんを選んだの?」
そこではじめて、瑞希の目から涙がこぼれた。
何に対する抗議であるかは、言わずとも一葉の目には明らかであったろう。
だが、一葉は微笑を崩すことなく、ただ一言だけを告げた。
「吉祥蓮が人を愛するのに理屈はいらないわ」
瑞希は言葉を返すことなく、憤然とその場を去って二階の自室にこもった。
不貞腐れて、しばらくベッドにもぐりこんでいたが、やがて微かなすすり泣きの声が聞こえたので階下に下りてみた。
その声は、玄関脇にある和室の中からのものだった。
微かにふすまを開けて中を覗くと、母の震える背中があった。
母さん、と瑞希は呼んだ。
振り向いた一葉は、指で目の辺りを拭った。
その手には、畳の上の封筒から出したのであろう一枚の手紙がある。
「それ、何?」
瑞希の問いは、母の涙に対する詫びの気持ちであったろう。
だが、はっきり口にできなかったとしても無理はない。
瑞希の気持ちに対しては、まだ明確な答えがなかった。
「何でもないわ」
一葉は手紙を封筒にしまうと、瑞希の前に立った。
娘は、母を部屋から出さなかった。
「見せてよ」
母の答えはその中にあると言わんばかりの口調で迫る娘を哀しげに見下ろして、一葉は一言だけ告げた。
「あなたに、誰か好きな人ができたら見せるわ」
瑞希は再び、無言で母の前を去った。
口を開いたのは、兄が帰った直後である。
合成皮革で出来た学園指定のカバンを手にした冬彦が居間へやってきたところで、夕食の準備をする母を前に言い放ったのである。
「もういい加減にして」
きょとんとする兄の顔に、義理の妹は散々な悪態を叩きつけた。
「何があったか知らないけど、もうあんなことやめてよね、恥ずかしいんだから! 何よ、去年たまたま妹になったばっかりのアタシにあんなカッコさせて学校まで送らせて! 兄として一緒に住むのは嫌じゃないけど、男だなんて思ってないから、そのつもりでいてね。あ、でも風呂とかは一緒に入らないから誤解しないで」
冬彦の手から、カバンがよく磨かれたフローリングの床に音を立てて落ちた。
母が包丁で野菜を刻む手が止まった。
鍋の中の湯だけがコトコト言っていた。
瑞希は兄から目をそらし、一葉の方を見た。
母は目を伏せていた。
再び冬彦の方を向くと、その顔には微笑が浮かんでいた。
しばらく妹を見つめていた冬彦は、深く息をつくと共に口を開いた。
「ごめんね」
カバンを拾って居間を出ようとした冬彦は、ドアを開けて振り向いた。
目を明るく見開いてみせて、付け加えた。
「今までありがとう。もう大丈夫だから」
ドアが静かに閉じられ、階段を駆け上がっていく音が聞こえた。
2階で兄の部屋の扉が閉ざされる音がしたとき、瑞希の背後には母が音もなく立っていた。
勿体ぶって振り向いた娘が見上げる視線を正面から受け止めた一葉は、テーブルにつくよう告げた。
母と向かい合って座った瑞希の前に、あの封筒が差し出された。
すぐに取ろうとはしない娘のまなざしを受けて、一葉はいつにない険しい表情で尋ねた。
「何があろうと、冬彦さんのために戦える?」
瑞希はゆっくりとうなずいた。
そこにあるのは、「愛することに条件などつけない」という、吉祥蓮の宿命を背負う女の顔だった。
一葉は、その手紙の由来を告げた。
「それは、母さんが再婚したとき、冬獅郎さんが渡してくれたの。亡くなった、前の奥さんの手紙よ」
瑞希は先祖伝来の秘伝書でも託されたかのように、粛然と封筒を手に取った。
丁寧に開いたその手紙は、縦書きの便箋であった。
美しい、流れるような筆跡でしたためられていたのは、冬獅郎の次の妻、冬彦の母となる女性に託した思いであった。
――あなたがこの手紙をご覧になっているということは、冬獅郎さんとご結婚なさったのですね。
おめでとうございます。
そして、彼を選んでくださってありがとうございます。
あなたならきっと、彼と息子を大切にしてくださるだろうと信じています。
私は冬彦を産んで間もなく体の具合がすぐれず、病の床につきました。
ガンだということで、もう余命いくばくもないと医者に告げられております。
冬獅郎さんは私のために身を粉にして働いてくれたと思います。
あの通り不器用で要領も人付き合いも悪く、あなたを困らせることになるかもしれませんが、どうか許してやってください。
決して悪い人ではないのです。
本当は遅くまで働いて少しでも給料を稼ぎたいところなのに、無理をして定時に帰って来ます。
たいして美味しくもない夕食を作るためです。
自分の食事くらい作れないこともないのですが、私は彼がしたいようにしてもらっています。
私がこの世を去っても、自分が至らなかったせいだと後悔させないためです。
冬彦も大きくなりました。
ちょっと頼りない子ですが、私がこの世を去っても、きっと耐えられるだろうと思います。
こんな身体になってたいしたことはできませんでしたが、そのくらいの躾はきちんとしているつもりです。
不器用で要領の悪い子です。わたくしもほとほと困り果てることもあります、仕方のないことと諦めております。
半分は冬獅郎さんの血を引いておりますから。
でも、彼の子ですから、いつも誰かのためにひたむきになっています。
この手紙を書いている今でも、「母さんのために学校で一番になるんだ」と机に向かって勉強しています。
私がいなくなったら、きっとあなたのためだと言うことでしょう。
その時は、ただ抱きしめてやってください。
あの子が欲しいのは、それだけです。
冬獅郎さんと冬彦をお願いします。
できることなら、もう一人、あなたとの間に家族を。
あなた(もし既にいらっしゃるなら、あなたの子どもも含めて)の幸せを、心からお祈り申し上げます――。
瑞希は手紙を、開いた時と同じくらい丁寧な手つきで畳み、まっすぐ封筒に収めた。
上下をひっくり返して差し出された封筒を、一葉は両手を揃えて受け取った。
儀式にも似た手紙の受け渡しを終えた瑞希は、椅子からぽんと飛び降りるや、ドアに向かって駆け出した。
見送る母の顔を見もしないで、開け放ったドアを抜けて階段を駆け上がり、兄の部屋の扉を乱暴に叩く。
ふがふが言いながら出てきたパジャマ姿の冬彦の目は、少し赤くなっていた。
瑞希はものも言わず、兄の体に泣きながらしがみついた。
目をしばたたき、冬彦は戸惑いながらも妹の細い背中に腕を回した。
鍛えてはいないものの、その年齢にふさわしい太さの腕に抱かれて、瑞希はしゃくりあげながら泣いた。
そのせいかどうかは分からないが、「ごめんなさい」の一言は、妹が兄にぷいと背中を向けて自分の部屋にこもるまで聞かれることはなかった。
ただ、瑞希が冬獅郎のことをどうこう言ったのは、確かにこれが最初で最後となったのである。
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