シーン2 遠いようで近かった鳩摩羅衆の存在

 そんな父の思いを胸に瑞希が通う倫堂学園の入学式は、半年前のことであった。

 まずは高等部、中等部はその翌日である。

 その式場となる講堂は、高等部と中等部の共有棟にある。瑞希の母は2日連続で防虫剤臭い一張羅を切る羽目になったわけだが、瑞希は瑞希で大変であった。

 原因は冬彦にある。

 倫道学園は厳格な学校で、校則も細かく定められていたが、入学してくる生徒は学力もモラルも高いため、それほど不自由を感じてはいなかった。

 さらに儀式も古風で、体育祭でも文化祭でも、なにかにつけて上級生と下級生の結束(本当にあるかどうかはともかく)が強調される。

 その最初が、入学式翌日の宣誓式だ。

 新入生総代が、生徒会入会にあたって校風を守ることを誓うのである。

 更に、上級生が学級別に新入生ひとりひとりと並んで立ち、生徒手帳を交換して互いのメッセージを書くのだ。

 従って、入学式では生徒手帳の携帯が徹底的に指導されたわけだが、こういうときに蹴つまずくのが冬彦である。

 この日ばかりは弁当を忘れることはなかったが、持ち慣れない生徒手帳は自宅に置き去りにされた。

 気づいたのは本人ではなく、妹の瑞希である。

 無論、高等部の行事など知ったことではない。

 ただ単に、入学式後、教室で最初のホームルームを終えて保護者と受ける講堂オリエンテーションで生徒手帳の話が出たとき、出掛けに玄関で見たことを母の一葉に告げたまでである。

「あれ、お兄ちゃんのだよね。何であんなところに?」

「昼から何か先輩に書いてもらうから忘れないようにって言ってたんだけど、いらないのかな」  

 それを聞いただけで、瑞希は席を立つや一言だけ母に言い残した。

「あと聞いといて」

 世話が焼けるんだから、とつぶやいて、瑞希は入学式によくある「気分を悪くした新入生」として、講堂の二つある大扉の一歩をそっと開けると、音もなく走り出した。


 無人の廊下を全力疾走する瑞希が向かう先は、自宅に他ならない。

 片道30分だから、往復1時間。

 冬彦が「何か書いてもらう」のがいつかは分からないが、まだ昼前だ。

 螺旋状になっている広い階段を駆け下り、玄関を出ると左右対称の花壇をはさんだ広い道を抜けて正門を出ることができる。

 中等部は入学式、高等部は授業中で、敷地内には誰もいない。

 郊外の昼下がりのこと、校門の外は人っ子一人通る者はない。

 だが、敷地の外へ出てゆくその途中で、すぐ隣に追いすがった者がいた。

 ふ、とわざとらしく鼻で笑って耳元で囁く。

「その技……飛燕九天直覇流鬼門遁甲殺到法『旋風つむじ』だな!」

 ぎくりと表情をを強張らせた瑞希だったが、横目でその少年を一瞥しただけで、足を止めることはなかった。

「アンタ……私が見えるの!」

 全く同じ速さで疾走しながら、少年は名乗る。

「覚えておけ! 鳩摩羅衆が一人、白堂獣志郎! 獣の志と書いてジュウシロウだ!」

「鳩摩羅衆だって!」

 それまで鳩摩羅衆の存在は、母の一葉から聞かされていただけだった。

 瑞希の驚きように、「獣志郎」は不敵に笑う。

「ここで勝負するか?」

「バカの相手は一人でたくさん」

 冷たく言い放つや、校門を目前にして踵を返して逆走した。

 一瞬遅れて再び隣を走る少年を振り切るように、再び反転して疾走する。

 フェイントをかけられた鳩摩羅衆の少年忍者は、その場で立ち止まった。

 ハイトーンの声が鋭く叫ぶ。 

「まだ温いな、吉祥蓮!」

 振り向きざまに、一本の鍼が放たれる。

 だが、校門へ走る瑞希が一回転して投げた鍼も、一瞬遅れて獣志郎を襲った。

 それを受けとめた獣志郎の手に、彼自身が投げた鍼が返ってくる。 

 瑞希が投げ返したのだ。

 獣志郎がそれを受け取った次の瞬間、瑞希も戻ってきた鍼を指先一つで受け止めて、校門に達していた。 

 だが、風のささやきが瑞希の足を止めた。

 ……その忘れ物なら、学園内でどうにかなるぜ。

 瑞希は息を詰めて、低い声で尋ねた。

「……なんで分かったの?」

「鳩摩羅衆だぜ、俺は」

 気負って答える獣志郎は、得々と説明した。

 保護者が帰らないのに入学生が全力疾走で校門を出るのは、その場で何か足りないものがあるからだ、と。

 吉祥蓮の少女忍者を背中から冷ややかに眺めてつぶやいた。

「世話が焼けるな」

「誰が!」

 挑発に乗るのは忍者として下策であるが、瑞希は一瞬で間合いを詰めてしまっていた。

「……飛燕九天直覇流鬼門遁甲殺到法『間殺まさい』……」

 興味深げに笑う獣志郎には答えず、瑞希は食ってかかる。

「別にアタシがドジったわけじゃないんだからね!」

「じゃあ、兄さん?」

 白々しく天を仰ぐ。 

 桜の花びらが舞い散る空は抜けるように青い。

 その空に、おそらくは忍者同士にしか聞こえない叫びが吸い込まれていった。

「何でそれを!」

 背の高い少年は、小柄な少女を見下ろして、諭すように説いた。

 この日は中等部の入学式。

 高等部では生徒会入会のセレモニー「宣誓式」がある。

 この学園で中等部に入った吉祥蓮の忍者が術を使ってまで取りに帰らなければならないほどの緊急性。

 それは、高等部にいる兄か姉が午後の宣誓式で使う生徒手帳ぐらいしかない。

 しかも、瑞希が言うには「バカの相手は一人でたくさん」。

 姉妹でも同性なら相手にもするまい。

 というわけで、鳩摩羅衆の読みは見事に当たっていたわけである。

 自信たっぷりの推理は続く。

「入学生が上級生と手帳を交換して、互いにメッセージを書く大事なイベントだからな。午後は高等部の購買は休みで手帳は買えないし……」

 みなまで言わないうちに、瑞希は獣志郎の喉元に鍼をつきつけた。

「どうにかなるのね? どうするか言わないと……」

 一瞬でその腕をすり抜けた獣志郎は嘲笑った。

「お前には無理だな」

 鍼の代わりに飛んできた鉄拳をかわすや、親指で学園講堂のある巨大な本棟をぐいと示した。

「俺にしか分からない。ついてこいよ」


 忍者の歩みは早く、二人が本棟裏の非常階段を上がるまでには5分とかからなかった。

 そのてっぺんには、ペンキの剥がれかかった鉄製の扉がある。

 ドアの取っ手にある鍵穴に鍼を突っ込んで開けられないこともないが、万が一の場合、見とがめられる恐れがある。

 こめかみを二度三度掻いた瑞希は、鍼を隠した懐に手を突っ込む。

 すると、獣志郎は自分の懐から複雑に曲がった針金を取り出して渡した。

 なにこれ、と眉をひそめる瑞希に、大仰な答えが返ってくる。

「鳩摩羅衆秘法『地獄極楽通行自由自在鍵』だ」

「長っ! 名前だっさ」

 吐き捨てる瑞希など気にも留めないかのように、自慢げな説明が滔々と始まった。

 まず、必要なものは講堂裏の倉庫にある。

 扉は講堂から入るものの他に、外から入るものがもう一つあるが、今は使われていない。

 そこからこの非常階段までには、ほとんど開かずの間と化した小部屋がいくつもある。

「全部通り抜ければいいんだけど、使った扉は……」

「全部閉めるわよ。万が一ってこともあるから」

 そんなこと忍者の常識、と言わんばかりである。

 もし、誰かが気づいたら一巻の終わりだ。

 滅多にないことだけに、言い訳が利かない。

 目立たずに行動するのは、忍術の基本である。

 だが、「地獄極楽通行自由自在鍵」を瑞希につきつけた獣志郎が強調したことがあった。

「この鍵で開けた扉は、自動的に鍵がかかるんだ」

 ふうん、と鼻先で返事をした瑞希は、相手の顔を見ていない。

 それに気づいていないのか、鳩摩羅衆の忍者は異なる組織の相手に、力を込めて説いて聞かせた。

「倉庫の裏扉は、内側からも鍵をかけるようになってる。これをなくしたり壊したりすると……」

 最後まで聞かず、瑞希は鍵穴に「地獄極楽通行自由自在鍵」を差し込んだ。

 軽く動かすと、鍵の回る音がした。

 話を中断して「ちょっと待て」と止める獣志郎を無視して、瑞希は扉の中に滑り込んだ。

 内側から閉じた扉に自動的に鍵がかかって、ドアノブにある縦のツマミが横に倒れた。

「へえ、便利」

 開けろ、という獣志郎に「閉めとかないと怪しまれるでしょ」とだけ言い残して、瑞希は人の気配がない、埃のかかった廊下を歩き出した。


 黄色く変色した壁紙の途中に塗装の剥がれた扉がすぐに見つかった。

 鍵を差し込むと簡単に開く。

 そこは、壊れた机や椅子の積まれた物置だった。

 扉を閉めると、再びかたりと鍵が勝手に回る。

 次に入った部屋は、カビ臭い布団の積まれた部屋だった。

 鍵を開けては部屋を次々に抜けていく。

 古い額縁や掛け軸、理科の実験道具などの間を通って、瑞希は倉庫に裏扉から入ることができた。

 壁沿いに高々と積まれた無数の木箱。

 歴代の制服を着たマネキンが並び、古い教科書が巨大な棚にびっしり並んでいる。

 校旗が壁にフック付きで何本も立てかけられた校旗。

 伝統ある倫道学園の歴史が埃をかぶった、大机や彫刻の施された肘掛け椅子に大きな鏡。

 その他、日の丸や校章のパネルなどがきちんと整理されて置かれている。

 その隙間を迷路でも歩くように探し歩いた末、瑞希は革に似せたビニールの表紙に校章の押された生徒手帳が並ぶ小さな棚を発見した。

 一冊取ってページをめくり、今年度のものであるのを確認する。

 よし、と懐へ収めようとしたが、そこで事故は起こった。

 薄暗い壁に一条の光が射したのに振り向いてみたところ、もう一つある講堂側の扉が開いていた。

 瑞希がとっさに鏡の後ろに隠れて息を潜めていると、足音が近づいてきた。

 気づかれることは、まずない。

 なぜなら、気配を消すのは忍術の基本だからである。

 さらに、薄暗い中で鏡に机や棚などが映れば、その場にあるものと勘違いしやすい。

 だが問題は、何を持ち出したのかは知らないが、倉庫への用が済んだ人影が扉を閉め、鍵をかけてから起こった。

 瑞希の用は、既に済んでいる。

 セーラー服のポケットに生徒手帳をしまって、収納物の隙間を擦り抜けた先にある裏扉を「地獄極楽通行自由自在鍵」で開けようとした。

 鍵は開かなかった。

 針金を引き抜いてみたが、どうという変化はない。

 というより、こんな複雑に曲がった針金をどうすれば鍵が開けられて、どうするとそれができなくなるのか、流儀の違う吉祥蓮の忍者に分かるはずもなかった。

 おそらく、獣志郎が最後に警告したかったのは「使いすぎると出られなくなる」ということだったのだろうが、瑞希はそれを相手のせいにした。

「最後の扉だけは開けといてもいいでしょうが!」

 全部閉めるというのは自分の判断なのだが、そこは棚に上げて、瑞希は次の行動に移った。

 鍵穴に鍼を差し込む。

 この鍼は独特の製法で作られており、ちょっとやそっとのことでは折れたり曲がったりしない。

 古くは職人の道具であったクナイと呼ばれる刃物を手裏剣などにも使ったものだが、かさばる上に目立つので、吉祥蓮でも鳩摩羅衆でも鍼を使うようになったらしい。

 だが、忍者としての技を使っても、鍵は開かなかった。

 どうやら、鳩摩羅衆の「地獄極楽通行自由自在鍵」で開けた扉は、他の鍵を受け付けなくなるようだった。

 違う流儀の忍法を中途半端に使うと、後始末ができなくなるといういい見本であった。

 再び難儀をして、先ほど閉じられた扉を確かめてみた。

 ツマミも鍵穴もなかった。

 当然といえば当然のことで、裏扉から入って鍵をかければ、人を閉じ込めてしまわない限り表の扉を内側から開ける必要はないのである。

 逆に言えば、設計者の想定外の行動をとった瑞希は、想定外の事態に直面したわけである。

 つまり、閉じ込められてしまったのだ。

 瑞希は腕時計を見た。

 正午を過ぎている。

 腹を押さえてみるのは、空腹のせいだ。

 ガヤガヤという声が天井から響いてくるのを仰ぐと、そこには排気ダクトが見える。

 講堂での説明が終わり、保護者が席を立ったのだ。

 母の一葉は、戻ってこない瑞希を心配してはいない。

 そこは吉祥蓮の忍者同士、阿吽の呼吸だ。

 だが、何が起こっているかはたぶん、分かっていない。

「こういうときのためにスマホ持たせてよ……」

 ぼやいてみるが、それはたぶん通らない。

 自分のことは自分で片づけろ、が一葉のモットーである。

 そんなわけで、瑞希は自力でここを脱出しなければならない。

 まず、大声を上げるのはNGだ。

 排気ダクトの反響で講堂まで届くかどうかという以前に、そもそも人知れず行動するのが忍者である。

 だから、方法は一つしかない。 

 天井の穴は、瑞希が十分通れる大きさがある。

 今、保護者と生徒が出て行ったということは、宣誓式が始まるまで講堂は空になる。

 それまでにこのダクトを通って講堂に潜み、入ってきた兄に生徒手帳を渡せばよい。

 ただ、問題は服装だ。

 中等部のセーラー服では目立ちすぎる。

 入学早々、妹に生徒手帳の面倒を見てもらっていては兄のメンツが立たない。

 そこを支えてやるのも吉祥蓮の忍者である。

 あまりのくだらなさにその宿命を呪いもしたが、そこで蘇るのは亡父の言葉だった。

「弱い奴を助けてまだ余る力が、本当の力だ」

 ふっ、と笑ってこめかみを掻く。

 したくないことに腹を括ったときの瑞希の癖だ。

「世話が焼けるんだから、お兄ちゃん……」

 誰も入ってこないのをいいことに、瑞希は暗がりに肌まで白くぼんやり光る下着姿になった。

 脱ぎ捨てたセーラー服の隠しポケットから、鍼や流星錘を取り出して下着の中に隠す。

 その上で、どう見てもはるかに身長の高いマネキンから制服を剥がして着こむ。

 当然、ブラウスもブレザーもぶかぶか、スカートに至っては30年ほど前の東日本のスケバン並みに長い。(このとき中部以西のスケバンは、スカートが短かった。)

 脱ぎ捨てたセーラー服を上半身に詰め込むと、瑞希は自分の姿を鏡に映して苦笑した。

 ぼってりと太った、ずんぐりむっくりの女子高生がそこに佇んでいた。

 瑞希はのたのたと壁際に積まれた木箱に歩み寄るや、足をかけ、手でよじ登りはじめた。

 やがて、そのてっぺんで排気ダクトにはめ込まれた金属製の格子の端に、下着の中から取り出した鍼を差し込む。

 吉祥蓮秘伝の術で鍛えられた鍼は、少し力を込めただけで折れもせずに格子を外した。


 開いた穴から排気ダクトに入り込んだ瑞希は、服を着込んだ身体がやっと入るダクトに頭から入り込みながら、なんとか格子を引き上げた。

 寝そべった姿勢で、入ってきた穴にに蓋をする。

 ちょっと見ただけでは、外されたことは分からなくなるようにするためだ。

 ダクトの中で寝そべりながら、鍼を掴んだ手を前に出してじりじりと進む瑞希の姿は、古い石垣の穴に潜む蛇にも喩えられるだろう。

 溜まった埃にときどき咽せながら講堂の出口を目指す。

 そこで更なる問題が起こった。

 なにぶん古いダクトなので、その管の継ぎ目が歪んでささくれ立っているのだ。

 服を着込んだ瑞希に怪我はなかったが、その分、生地が引っかかりやすくなる。

 ダクトの中で、瑞希はくしゃみをした。

 それは、埃のせいだけではない。

 いつの間にか、ぶかぶかのスカートが脱げていた。

 瑞希はせっかく進んだダクトを後戻りして、置き去りになったスカートを靴下をはいた足の先で掴むというきつい姿勢で、再び講堂まで這うことになった。

 どれほどの時間が経っただろうか。

 瑞希は前方に、無数の小さな光の柱を見た。

 排気ダクトの出口から、外の光が差し込んでいるのだ。

 全力で這っていくと、そこで耳を聾するばかりの鐘の音が聞こえてきた。

 午後の始業チャイムが、ダクト内に反響しているのだ。

 耳を押さえることのできない瑞希は、目を固く閉じてじっと耐えた。

 やがて音は収まった。 

 瑞希が鍼を格子の端に突き立てたとき、下から人のざわめく声がした。

 宣誓式のために、高等部の生徒が入ってきたのだ。

 鍼を握る瑞希の手が、微かに震えていた。

 絶体絶命である。

 格子をこじ開けることはなんでもない。

 見れば、この真下は講堂の隅らしく、誰もいない。

 だが、それは格子が落ちても生徒の頭に当たる心配だけはないということに過ぎなかった。

 金属製の格子が床に落ちれば、いかにけたたましい音がすることだろうか。

 当然、生徒たちの視線は集中する。

 そこへ、「腰には下着一枚の、上半身が膨れ上がった女子生徒が、足の先にスカートを掴んで真っ逆さまに降ってきた」としたら!

 たかが生徒手帳一冊のために、その代償は大きすぎた。 

 作戦は失敗したのだ。

 吉祥蓮の美少女忍者は小さな胸に敗北感を抱えて、狭い排気ダクトを足から先に這って戻るしかなかった。

 

 だが、まさに瑞希がそうしようとしたとき、奇跡が起こった。

 チャイムよりもさらに耳障りな非常ベルが鳴り渡ったのである。

 瑞希は目を固く閉じ、唇をかみしめて騒音をこらえていたが、下から生徒や教員が大騒ぎするこえが聞こえると、はっと我に返った。

 火事だ、地震だというデマが生徒の間に飛び交う。

 瑞希が目を開いた先にいる教員の中には、落ち着くように呼びかける者もあれば、原因究明にあたふたする者もある。

 絶好のチャンスが巡ってきた。

 瑞希は、排気ダクトの反響を利用して叫んだ。

「火が出たぞ!」

 講堂の生徒や教員にしてみれば、誰のものとも分からない声が、どこからともなく聞こえてきたように思えただろう。 

 生徒たちの足が止まったが、中には出口へと駆け出して、教員に制止される者もいる。

 瑞希の眼下は無人となった。

 敢えて格子を落として、瑞希は再び叫んだ。

「地震だ!」

 カラーン、という高らかな音に視線は一旦集中したが、格子が落ちたのを見た生徒たちは騒然となった。

 一斉に出口へ向かうのを、後ろから教員たちが呼び止める。

 その一瞬の隙を突いて、「腰には下着一枚、上半身が膨れ上がった女子生徒が、足の先にスカートを掴んで真っ逆さまに降ってきた」。

 更に、彼女は空中で一回転すると足先のスカートを器用に履きなおす。

 やがて騒ぎの中には、スカートを引き上げながらおたつく埃まみれの女生徒がひとり増えたが、誰も気にはしなかった。

 

 しばらく経って、非常ベルが何かの間違いであったことが分かると、その場は収まった。

 騒ぎになったのは先に入場する上級生であったため、新入生がパニックに巻き込まれることはなかった。

 新入生入場にあたっては、一人の男子生徒に地味な太めの先輩女生徒が駆け寄り、落とした生徒手帳を伏し目がちに渡すという微笑ましい光景が見られた。

 さて、その日の騒動はいかに冬彦であっても知らないはずはなかったが、彼がそれを美しい義母に語って聞かせることはなかった。

 ほこりまみれの女生徒から忘れ物を渡された冬彦は、それから3日ほど、誰から何を話しかけられても上の空だったのである。

 どうやら菅藤冬彦君16歳、惚れっぽいところに救いがあるとすれば、見かけではなく、心に惚れるところにあるようだった。

 さて、瑞希はといえば。

 義理の兄の惚れるのが容姿であるにせよ心であるにせよ、その結果、次の朝から3日間、弁当プラスαの忘れ物を届けに朝の疾走をする羽目になった。

 鳩摩羅衆の少年が並走するようになったのもその時からで、あまりのしつこさに、その素性を調べようと瑞希が思い立つのも無理はない。 

 生徒の個人情報を調べ上げることなど、吉祥蓮の忍者にとっては本来造作もないことだが、こればかりは勝手が違った。

 分かったのは、本名が「玉三郎」ということだけだったのである。


 さて、講堂の倉庫から瑞希が持ち出した高等部の制服がどうなったか。

 何をするにも痕跡を残さないのが忍者の業である。

 制服がないのがバレて、盗難だ何だと警察なんぞに入り込まれては吉祥蓮としての生活にも支障が出る。

 やむなく瑞希は入学3日目から、何のかんのと理屈をつけては教室も職員室も問わず校内を歩き回り、講堂を開けるチャンスを探して回らなければならなくなった。

 鍼を使って、講堂と倉庫の鍵を開けられないことはない。

 だが、その行動が見つかる恐れもあれば、見つからなかったとしても扉が2つも開けられているのが不審に思われることもあり得る。

 1週間ほど調べて、やっとの思いで講堂が放課後の行事に使われる日時を特定した瑞希は、家で鉤縄(フック付きの細い紐)を持ち出した。

 これも服の中に隠せる上に、女ひとりの体重を支えるくらいの強度はある。

 講堂が開いたら、隙をついて中へ入り込み、場所を間違えたとか何とか言いながら、もう一方の扉の鍵を内側から開けておく。

 講堂の行事が終わるのを待ち、責任者が扉を閉めるのと入れ違いに講堂へ滑り込んで内側から鍵をかける。

 無人になった講堂で、すでに直されているであろう排気ダクトの格子にロープのフックを引っかけ、天井まで登る。

 鍼でこじ開けた格子と共に床まで落下し、再びダクトにロープを引っかけて入り込む。

 ロープの端には、制服を括りつけておき、引き上げる。

 狭いダクトを通り抜けて倉庫側の格子をこじ開ける。

 中に入ったらロープで制服を引き寄せ、元の場所に返しておく。

 戻る際に倉庫側の格子は元通りの位置に戻しておく。

 講堂側の格子は、ダクトの上からフックで引き上げる。

 ロープを持って飛び降りると、元の位置に戻る仕掛けである。

 だいぶんまどろっこしいが、たとえ格子が2つ外れているのが分かったとしても、それはかなり後になってからだろうし、まさかダクトから人が出入りしたとは誰も思うまい。

 講堂の扉の一方が閉め忘れられていた、で済む。

 そして決行の日。

 制服とロープの入ったカバンを持って登校した瑞希は、放課後すぐに講堂へ向かった。

 共有棟なので、中等部の生徒がいても不思議はない。

 それでも静かに、足音も立てずに講堂へと忍び寄った瑞希は、鍵がかかっているはずの扉に、念のため手をかけてみた。

 軽く引くと、何の抵抗もなく開いた。

 幸運に思わずガッツポーズを取って中に入り、今度は倉庫の扉を確かめてみた。

 鍵は開いていた。

 一瞬、呆然としたものの我に返り、棚だの机だのがゴタゴタ置いてある隙間を縫って裸のマネキンにたどりつき、制服を元通り着せた。 

 その時である。

 入るとき閉めたはずの扉が、大きな音を立てた。

 あわてて収納物の隙間をもたもた抜けてたどり着いてみると、やはり閉まっている。

 その向こうで、講堂の大扉が閉まり、鍵の回る音がした。

 また、閉じ込められたのかもしれない。

 倉庫の扉に手をかけてみると、鍵はかかっていなかった。

 開けて外へ出ようとすると、大扉の鍵が開く音がする。

 慌てて扉を閉める際に、その隙間から外を覗いてみると、先生方がぞろぞろやってくる。

 やがて、集会か何かが始まった。

 ジョセイキンがどうの、タイグウがどうのという長い話と議論が始まり、瑞希は出るに出られなくなった。

 もう少し語彙が豊富で世間知に長けた生徒なら、学園内の労働組合が集会を開いているのだと察しがつくだろうが、吉祥蓮の中学生忍者にはかなりどうでもいいことである。

 瑞希にとって当面の危機は、ここから出られないということであるが、それはどうにでもなる。

 排気ダクトの格子をこじ開けて逆ルートを通ることには、意味がない。

 集会が終わったら、大扉の鍵を開けて出れば予定通りだ。

 問題は、こんなくだらない悪ふざけをしたのが誰かということだ。

 考えるまでもなく、一人しかいない。

 入学式と宣誓式の日、都合よく非常ベルが鳴ったのも、玉三郎の仕業であろう。

 そう見当づけるのは、彼の瑞希に対する日ごろの態度を見ていればそれほど難しいことではない。

 やがて集会が終わり、数百と思しき無人のパイプ椅子の間を大扉に向かって通り抜けながら、瑞希はぼやいた。

「感謝なんかしないからね、あんな奴あんな奴あんな奴……」


 そんなことがあって、瑞希は危機を救ってもらった礼は今に至るまで言っていない。

 確たる証拠がないということに加えて、礼を言う気もなければ必要も感じていないからであろう。

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