2場 妹・忍者13歳

シーン1 冷静かつ堂々たる亡き父の思い出

 瑞希が実の父について語ることは、一葉の再婚前からもほとんどなかった。

 各地を転々とする日々が続き、母と思い出にひたる時間がなかったせいもある。

 そもそも、伴侶を失った吉祥蓮の女は一つところに居を構えてはならないのが掟だった。

 それは、お互いに支え合うという組織体制の上では、独身になったらそれだけ任務を背負わなければならず、身軽にあちこち動き回らなければならないという忍者の事情による。

 だが、それには多くの男を支え、励ますという吉祥蓮の使命のために、寝食を共にした過去の男にこだわらせないという意味もあった。

 そんなわけで、各地の吉祥蓮ネットワークのつてにより、頼ったり頼られたりしながら一葉は幼い瑞希を連れて日本中を飛び回っていたのである。

 瑞希にしてみれば、実父の死で思わぬ転勤族家庭になってしまったわけで、転校に次ぐ転校のために幼馴染といえる友達は全くいなかった。

 ましてや、男友達など……。

 そうした事情から、男性については瞼の母ならぬ父の雄姿がオリジナル状態で固定観念として定着していた。


 撮影が始まると何日も帰ってこない父であったが、休むときには徹底して休んでは幼い瑞希と遊んだ。

 当時の瑞希の家は、大きな町を貫いて流れる幅の広い川を遠くから遠くまで眺めることができる、マンションの最上階にあった。

 そこは一葉が選んだ場所のようである。

 吉祥蓮としてのメリットは2つあった。

 町全体が見渡せるということ。

 帰宅時に全ての階を通って、助けの必要な男性(あるいは家庭)や敵対勢力の干渉を確認できるということ。

 だが、その一方で「何があっても逃げ道がない」という弱点もあったが、差し引きでは仕事がしやすい場所であっただろう。

 もっとも、父親がそんなことを知るはずもない。

 晴れた日には瑞希を連れて、エレベーターを使わずに階段をえっちらおっちら下りた。

 父親の足が遅かったのではなく、小さな瑞希のかわいらしい足に合わせたのである。

 もちろん、一番下まで行けるわけがない。

 常識では。

 実をいえば、父のいないときに一葉は吉祥蓮たるに必要な体力と運動能力は少しずつ鍛えていた。

 その気になればできることをせず、父におんぶをせがみ、駐車場に出た途端に下ろしてくれと愚図ったのは、ここぞとばかりの甘えにほかならない。

 地に足がついたところで、あたかも自分だけの力でたどりついたかのようにマンションのてっぺんを見上げてみせたのも、父のウケ狙いであった。

 

 川の堤防までは歩いて行けた。

 父に手を引かれた堤防沿いの道は車が進入できないようになっており、子連れの母親や散歩するお年寄りなどをよく見かけた。

 すれ違うたびにいちいち頭を下げた父は、瑞希にも同じことをさせた。

 河岸と、堤防の草むらに伸びる白い階段はコンクリートで固められており、駆け下りてはしばらく川沿いを往復して駆け上がる、という運動を繰り返すことができた。

 瑞希も真似をしてみたが到底できるものではなく、父を追ってみては疲れて立ち止まった。

 そのたびに、先を行く父は戻ってきては瑞希をおぶって小走りに川沿いを行くのだった。

 父の背中で、幼い瑞希の目には自分が空を飛んでいるように思われたことだろう。


 雨の日はどうだったかというと、父はひたすら筋トレに励んだ。

 フローリングの床にバスタオルを敷いて、その上で腹筋や背筋に励んだ。

 幼い瑞希も仰向けになったりうつぶせになったり、真似をしたが、最期までやれることを途中でやめてみせたのは、これまた父がからかってくれるからである。

「まだ小さいんだから」

 べったりと伏せて笑いながらたしなめる父に、幼い瑞希は「もう大きいもん、お姉ちゃんだもん」とむしゃぶりついていったものだ。

 しばらくじゃれ合ったあとで床にころりと転がっては、バスタオルの上の父を横から眺めたものである。

 ランニングシャツから伸びる逞しい腕や、その上からでも分かる背中の筋肉を見ながら、瑞希はどうしてこんな大変なことをするのか尋ねたことがある。

 父は自信たっぷりに答えてみせた。

「なぜ鍛えるかって? 俳優さんのため、お客さんのためさ」


 その現場を、瑞希は一葉と見に行ったことがある。

 たくさんの大人たちが和やかに声を掛け合い、時には罵り合いながら右へ左へ駆けずりまわっていた。

 もし、その言葉を瑞希が知っていたなら、「戦場のよう」という喩えが適当であった。

 だが、一葉は暴力や殺戮に関する言葉を娘の前で使うことはなかったのである。

 吉祥蓮としての体術を仕込んではいたが、いずれ過酷な宿命をも背負うことになる瑞希に、少しでも子どもの時間を味わわせたかったのであろう。

 さて、街角のセットが組まれ、カメラが回り、録音マイクが高々と掲げられている撮影現場に、幼い瑞希が探し求める父の姿はなかった。

 あちこち眺めて、背格好のそれとおぼしき人影がなくはなかったが、それは後ろ姿がよく似ているだけの別人だった。

 黒いスーツにソフト帽。

 メガホンを持った髭面のおじさんが叫ぶ。

「アクション!」

 カメラの前で、ハサミみたいの木の棒がカチンコ、と鳴る。

 建物の陰に隠れた、サングラスをかけた父親くらい背の高い男が、辺りの様子を伺いはじめた。

 突然現れた深紅のスポーツカーから数人の若者が現れ、男を取り囲む。

 たちまち乱闘が始まった。

 瑞希の目から見ても男の動きは鈍かったが、なぜか若者たちは簡単になぎ倒されてしまう。

 やがて男は、若者たちの乗ってきたスポーツカーに飛び乗った。

 タイヤを鳴らして急発進する車に追いすがろうとした若者たちは、次々に土煙を上げて地面に転倒する。

 その中で一人だけが身軽に立ち上がり、懐から拳銃を引き抜いて構えた。

「カーット!」

 メガホンおじさんが叫ぶと、またカチンコと音がした。

 また大人たちが右から左へとせわしなく動き出す。

 その中に、父がいた。

 黒いスーツにソフト帽。

 サングラスをかけていたが、幼い瑞希がそれと気づいて大声で呼ぶと、一葉は少女のように笑った。

 父も手を振り返す。

 同じ格好をしたさっきの男が出てきて、瑞希を見ながら何か囁いた。

 父も何か囁き返して、軽い小突き合いが始まった。

 やがて、さっきのと同じ型の赤いスポーツカーがやってきた。

 幼い瑞希は母に尋ねた。

「あれ、さっきのと違うね」

 よくわかったわね、と一葉に頭を撫でられたカンのいい吉祥蓮の担い手は、えへへと照れ笑いをした。

 やがて父は新たな車に乗り込んだ。

 何人もの大人たちが車を取り囲み、一斉に離れる。 

 メガホンおじさんの掛け声。

「アクション!」

 カチンコ、の音と共に再び急発進した車は、横から走ってきた車に跳ね飛ばされた。

 幼い瑞希の目が見開かれる。

 お父さん、の叫びは、一葉の手で口の中に押し戻された。

 一方のヘッドライトを粉砕され、頭の片方を潰されて大破した車は、高らかにタイヤの音を立てて回転し、大きく弧を描いて止まる。

「カーット!」 

 カチンコの音が鳴るが早いか、大人たちが一斉に車へと駆け寄る。

 喧噪の中で、一葉の手を口から引きはがした瑞希は叫んだ。

「お父さん!」

 人だかりの中から、黒いスーツの男がひょっこり顔を出して瑞希に手を振った。


 撮影が終わって、スタッフが差し出した紙コップのコーヒーを口にした父親は、不満げな瑞希を諭した。

「お父さんは、テレビに映らないんだ」

 どうして、と瑞希は膨れる。

 さっきの、とスーツの襟をつまんだ父は、通りかかった同じ姿の俳優に会釈した。

 俳優も、「ありがとうございました」と丁寧に一礼する。

 次の仕事があるのだろう、いそいそと立ち去るスーツの背中に、瑞希はどこで覚えたのか、思いきりアカンベーをして一葉に頭をくしゃくしゃやられた。

 だって、と父を尊敬する娘は食い下がった。

「お父さん、本当は強いのに」

 それを聞いて、見上げる娘の抗議のまなざしを一身に浴びたスタントマンは千両役者のごとき満面の笑みを浮かべた。

「そうさ、強いんだよ」

「だったらテレビに出てよ」

 こら、とたしなめる母に片目をつぶって見せて、父は娘の目線にまでしゃがみこんだ。

 じっと見つめ返して、ゆっくりとたしなめる。

「本当の強さっていうのは、目には見えないものさ」


 父は、別の意味でテレビに映ることになった。

 撮影現場での事故を電話で知らされた一葉と共に、小学校に上がったばかりの瑞希は警察に行った。

 そこで現場監督から聞いたのは、スタント中の車が崖から転落して炎上したのだということだった。

 父の亡骸を確認したのは母だった。

 瑞希はドアの外の長椅子の外で、付き添ってくれた婦人警官と共にずっと座っていた。

 その場ではおろか、母と警察署を後にするときも、声一つ立てることはなかった。

 あらかじめ、泣いてはいけないと言われていたからである。

 マンションに帰ってから、幼い瑞希は尋ねた。

「泣いていい?」

 まだよ、といつになく厳しい声で告げた一葉は、無言で荷造りをはじめた。

 瑞希も、小学1年生とは思えないほどの手際の良さで手伝ったので、その日のうちに引っ越しの準備は済んだ。

 それでも、問題があるといえばあった。

 父の遺品である。

 写真からメモの一枚に至るまで残らず処分するという母親に、瑞希は抵抗したのである。

 その日、生まれて初めて母の平手打ちを受けた。

 瑞希は、母の言いつけに背くかのように泣いた。

 その娘を抱きしめた一葉の身体は震えていた。

 ごめんね、と瑞希の髪を撫でながら囁いたのは、生前に父が残した言葉だった。

「弱い奴を助けてまだ余る力が、本当の力だ」

 そこで時計を見た一葉が、テレビリモコンのスイッチを入れた。

 夕方のニュースが流れる。

 撮影現場での事故を伝えるニュース画面に映った父の顔を、瑞希と一葉は呆然と見つめた。

 やがて、母は幼い娘に「こっちを向きなさい」と言った

 崖っぷちでの車の転落と爆発を告げるだけのアナウンサーよりも多くのことを、監督は瑞希の前で土下座ついて一葉に語っていた。

そのときは目を伏せ、首を深々と垂れ、話を黙って聞いているだけだった母は、娘と二人きりで見つめ合い、そこで初めて自分の気持ちを語った。

「たぶん、あの現場では誰かが死んでいたの」

 6歳の娘には重く、また難解な言葉であった。

 瑞希は「どうして?」としか聞けなかった。

 一葉は娘の目をまっすぐに見た。

「そうでなければ父さんが事故に遭うわけがないわ」

 人が死ぬような現場ではなかった、と吉祥蓮の技を現代に継ぐ忍者は断言した。

 そんな厳重に管理された映画撮影の現場で、人の生き死にに関わるような事故はそうそう起きるものではない。

 そこでさらに瑞希は「どうして?」と尋ねた。

 それは、なぜ父が死ななければならなかったのかという意味だ。

 張りつめていた一葉の表情が、ふっと緩んだ。

「事故の原因はお父さん」

 今度は瑞希の表情が強張った。

 無理もない。ほかならぬ母が笑顔で、父の死の原因を父自身としたのだから。

 だが、母の目からは涙が一筋こぼれ落ちた。

「長い間のスタント生活で、落ちたり殴られたりぶつかったりしているうちに、脳に影響が出ていたんじゃないかな。お父さんは気づいていたかどうか分からないけど。多分、車で崖っぷちを走るスタントをしている間に、手元が狂ってきちゃったのね。俳優さんやスタッフの中に突っ込みそうになって、咄嗟に崖に向かってハンドルを切ったのよ」

 必死で笑おうとする可憐な一葉の顔はくしゃくしゃに歪み、やがて涙と鼻水でべっとりと濡れた。

 自分の顔が汚れるのも構わず、瑞希は母の首にしがみつき、その頬に顔を寄せた。


 その晩のうちに吉祥蓮のネットワークが動いて、マンションの部屋は人の住んでいた痕跡を残すことなく引き払われた。

 瑞希も一葉も、そのマンションであったことを再び口にすることはなかった。

 残ったものは、父の貯金と生命保険金、所属していた事務所から支払われた事故の補償金である。

 それは、菅藤冬獅郎の家族となるまで、母と娘の生活を支えることとなった。

 金に名前が書いてあるわけではないが、少なくとも父の気持ちは守るべきものと共にあったわけである。

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