シーン2 美少女忍者の母が、一念発起した息子の晴れ舞台を期待すること
そんなわけで始業式の日は半日で終わり、菅藤家の兄妹が早く帰ってきたので、その日の夕食も早く済んだ。
「ロミオとジュリエット~?」
夕食後、テレビで歌番組を見ていた妹の瑞希は、素っ頓狂な声を上げた。
洗い物をしている母に、2週間後に行う高等部の演劇部の文化祭公演で急に役がついたと兄が嬉しそうに報告する声が聞こえたのだった。
ご贔屓の歌手が出演するのもそっちのけで、ねそべっていたカウチから小柄な体を起こしたボブカットの少女は、兄の顔をまじまじと見つめる。
確かに、どちらかといえば、悪くないほうである。
鼻筋の通った、端正な、品のいい……少なくともブサイクではない。
まあ、町で女の子10人とすれ違ったら1人か2人ぐらいは振り向くかもしれないが、兄と外出したことがない瑞希には確かめようもないことである。
ひょっとすると、瑞希の同級生には密かに兄への想いを募らせる女子がいてもおかしくないが、その件で声をかけられたことは生憎となかった。
ましてや、兄を紹介して欲しいと頼まれたことなどない。
なぜなら、瑞希には友達がいなかった。
もっとも、いないほうが気楽な身の上なのであるが……。
それがいかなる境遇であるかはとりあえず置いておくとしても、年頃の少女がそんな兄と一つ屋根の下で暮らしていれば、悪い気はしないはずである。
それでも瑞希は、 「兄貴がねえ」と溜息つくなり、再び横になってテレビに見入るばかりであった。
そのあたり、兄への信用と尊敬からいかに遠いかは一目瞭然である。
たとえ友達がいても、とても紹介できない美形の兄、菅藤冬彦は母と4年前に再婚した相手の連れ子である。
この春、倫堂学園中等部を卒業して高等部1年生になった。
そのとき、どういうわけか入部したのが演劇部だったのである。
色も白い。確かに、白ければいいってもんでもないだろう。
どっちかというと、ちょっと白すぎる。
血管が透けて見えるんじゃないかと陰では言われているかもしれない。
どの陰かというと、体育館の裏とか、男子トイレの手洗い場とか。
まあ、その辺に集う醜男のやっかみを差っ引いても、ちょっと不健康である。
ただ、近眼である。
メガネの度は強い。
結構、頑丈なフレームが必要である
どうしても、四角い、ごっついフレームのメガネになる。
因みに、黒縁である。
どうみても、舞台に立つタイプではない。
しかし、母は10代の少女のように、単純に喜んだ。
「え~! 冬彦くんがフユヒコくんが冬彦くんが~?」
実際、容姿や立ち居振る舞いから、10代にしか見えないときもある。
女性の年はあまり云々すべきではないが、春に中学生になった瑞希が13歳である。
余程の早婚でない限り、だいたいの計算は可能であろう。
さて、女性の年齢のことはさておき。
どこにでもありそうなこの再婚家庭には秘密がある。
この母と娘、実は現代に生きる忍者なのである。
もちろん、兄は知る由もない。
父親はというと、仕事の都合でかなり長いこと家を空けている。
「お父さんにも報告しなきゃ」
はしゃぐ母親に、瑞希はテレビを見ながら突っ込む。
「九州に単身赴任中でしょ」
娘にたしなめられて悔しいのか、一葉は口を尖らせて反論する。
どっちが子どもだか分からない。
「1日で来られるじゃない? 海外じゃないんだから」
「始発で来させて終電で返すつもり?」
冷ややかに切り返す瑞希に母親としての威厳を見せつけたいのか、傲然と胸を張る。
「休暇取ってもらうのよ」
瑞希は淡々と、しかしはっきりと言い切る。
「ここは日本! 簡単に言わない!」
どっちが親だか分からない。
だいたい、一葉は忍者として、日頃の情報収集や情報操作もかねてパートに出たりもしている。
世間一般には、井戸端会議とも言うらしいが。
そのシフト交代に比べれば、有給休暇のほうがよほど権利を主張しやすい。
それを望むときに取れないというのが、日本社会の不条理である。
それを、娘の方がよく分かっているというのは悲しい現実と言わずばなるまい。
娘に言い負かされてバツが悪いのか、一葉は、話をそらして息子に振った。
「で、何の役?」
「ジョン修道士の代役」
興味津々といった風に尋ねた一葉は、何の屈託もなく答える冬彦に、そう、とだけ答えた。
さらに、お風呂入ってきたら、と精一杯の笑顔で促す。
冬彦はこっくりと頷いて席を立った。
着替えを取りに2階へ上がる足音が消えてから、一葉は苦笑いした。
「そりゃそうよね。1年生だし、まだまだ冬彦君じゃね」
ご贔屓歌手の出番が終わって、瑞希は再び体を起こした。
「代役がまずいの? それとも、そのジョン修道士がまずいの?」
歌を聴きながらも会話の内容は理解していたらしい。
一葉は洗い物を終えて、テーブルに着き、頬杖を突いた。
「だってね……」
ここで、まず『ロミオとジュリエット』について説明せねばなるまい。
16世紀のイギリスで活躍した劇作家であるウィリアム・シェイクスピア。
『ハムレット』『マクベス』『リア王』『オセロー』の「四大悲劇」で知られるが、どちらかというと、この『ロミオとジュリエット』の方が有名であるといえる。
なぜなら。
四大悲劇のあらすじを説明しろと言われて即座に答えられる人は少ない。
しかし、『ロミオとジュリエット』なら、一葉を含め、誰でもこんなふうにまとめられるからである。
「まず、身分は高いけど仲の悪い親たちがいてね」
子どもがいるわけね、と瑞希が先読みする。
「その息子と娘が恋に落ちるの」
親が許さないわけね、と、展開が前もって補足される。
「で、二人が周りの大人を散々振り回して」
そこ具体的に言わないとわかんない、と瑞希が突っ込むが、一葉は話を押し切る。
「その挙句に知り合って3日ぐらい後に自殺してしまうっていう話」
瑞希は一言でオチをつけた。
「……5秒で分かる『ロミオとジュリエット』ね……」
だが、ジョン修道士についてはもう少し説明が必要である。
「ジョン修道士は、ロレンス神父の弟子なの」
そう言われても、ロレンス神父が誰なのか分かる人は、瑞希を含めて世間一般にはほとんど居はしない。
「ロレンス神父はロミオを分かってるただ一人の大人」
ロミオってどんな奴なの、と口を挟むと、「やんちゃな子」という答えが返ってくる。
瑞希はちょっと天井を仰いで考える。
おそらく、「どっかの誰かみたい」ということになるのだろう。
それは、毎朝、登校中に現れてはひと悶着起こす一人の少年のことだ。
だが、そこは口には出さない。
「やんちゃなもんだから、友達の喧嘩に巻き込まれるの」
現代なら夕方のニュースでちょっと流れるかもしれない。
「で、ジュリエットの従弟を殺害したため、追われる身になるの」
夜のニュースと翌日の朝刊が追加されるだろう。
「で、ジュリエットは両親から望まない結婚を強いられる」
そこで瑞希は根本的なことを尋ねた。
「ジョン修道士は?」
確かに、話がそれている。
これ説明しないと話がつながらないの、と前置きして話が続く。
「2人を救うため、ロレンス神父が知恵を出す」
ジュリエットを薬で仮死状態にして自殺したようにみせかけ、納骨堂に葬らせたところでロミオに救出させ、逃亡させる、というのがその計画である。
「ジョン修道士の話よね?」
くどい、と一葉は質問を遮る。
「この計画を記したロミオへの手紙を預かったのがジョン修道士」
やっと出てきた、と瑞希はぼやいた。
その、やっと登場したジョン修道士だが……。
ロレンス神父は弟子に恵まれなかったらしい。
道は間違える、道案内の人選は誤る、とうとう手紙は届かなかった。
結局、ジュリエットが自殺したと聞いたロミオは納骨堂へ駆けつけて後を追う。
目を覚ましたジュリエットも、ロミオの亡骸を発見して命を断つ。
それを見つけた双方の両親、一族郎党まとめて無益な争いを反省するというわけだが……。
「出番ない割に面倒くさい奴なわけね」
瑞希の言うとおりである。
ジョン修道士を説明するだけで、『ロミオとジュリエット』のあらすじ全部をクドクドここまで説明しなくてはならないのだから。
「やっぱり、父さんに見に来てもらうほどのことないんじゃないの?」
でも、と一葉は言い切った。
「結婚して4年でしょ? こういうの、いっぺんも見てもらってないじゃない」
一葉は、冬彦の父、
共に、相手と死別している。
冬獅郎は妻を病で失い、一葉は夫を事故で亡くした。
一葉は縁者の紹介で冬獅郎と知り合い、結婚したのである。
「だって、長期出張だ単身赴任だって、コキ使われ過ぎでしょ? ちょっとひどくない?」
「そこを引き受けちゃうのが冬獅郎さんのいいところなのよ」
冬のライオン、とは明らかに名前負けである。
それでもさりげなくノロける母に、瑞希はがっくりとうなだれる。
「……断れないだけだって、気づかない?」
「そんなの、最初から分かってたわ」
即答である。
「だけど、損得考えたら、最初から父さんは選ばなかった」
「じゃあ、私の父さんは?」
この「私の父さん」とは、7年前に死んだ実の父である。
アクション映画のスタントマンをしていたが、撮影中の事故で死んだ。
「確かに、もっとクールで堂々としていたわね、でも」
ここで一葉は、真剣なまなざしで瑞希を見た。
「小賢しい人じゃなかった」
「……あたしも、まっすぐで賢くて、強い父さんが好きだった」
一葉は嬉しそうに微笑む。
「よかった。私と一緒で」
へへ、と笑う瑞希の長い黒髪を撫でて、一葉は囁く。
「忘れないで。私たちはそんな男たちと共に生きる、『
吉祥蓮。
女性ばかりで構成されるその集団がいつ生まれたのか、誰も知らない。
ただ、この1000年は常に歴史の陰にいて、男たちを支えてきたことは確かである。
だが、その男たちは、とても歴史を動かせるような器ではなかった。
むしろ、歴史の闇に埋もれていく、何の取り柄もない、どちらかというと英傑たちの足を引っ張ることのほうが多い人物たちであった。
しかし、そうした人たちの存在が大きな破滅を回避してきたことも否定できない。
なぜなら、歴史を動かすような才覚は、しばしば人を傷つけるものだからである。
英傑たちが力に驕り、暴走しても、ぎりぎりのところでつまずかせ、大きな破壊や殺戮を押しとどめる「普通の人」たち。
その傍にいて自ら、あるいは誰かとの縁を結ぶことで彼らを守り、支えてきたのが「吉祥蓮」であった。
「でもさ、父さん、大丈夫? これで身体なんか壊したら、間違いなく切り捨てられると思うんだけど」
真顔で尋ねる瑞希に、一葉は笑顔で、しかしはっきりと言い切った。
「そんな目に遭わせる奴らは、タダじゃおかない」
それは強がりでも何でもない。
吉祥蓮が男たちを支えて来られたのには、2つの要因があった。
ひとつは、女たちのネットワーク。
日本中に散らばった吉祥蓮の女たちは、様々な方法で連絡を取り合い、歴史的な危機から個人の結婚相談に至るまで協力しあう体制を整えていた。
もうひとつは、吉祥蓮に伝わる門外不出の技……。
「
一夜の内に千里を駆け、拳の一撃で熊をも屠るその技は、平たく言えば、忍術である。
しかし、人を傷つけるためには用いられず、世に泰平をもたらす器を持ちながらもその力を発揮できない男たちが子孫を残せるよう守り抜くことを大義とする。
吉祥蓮とはすなわち、男たちを1000年もの間、歴史の陰で見守ってきた女たちの忍者集団なのである。
「あ~あ、因果な家系に生まれちゃったな……」
ぼやく娘の額を、一葉はかるくこづいた。
「こんな母さんのこと、嫌い?」
瑞希はカウチから立ち上がって、一葉の背中に抱きついた。
「ううん、大好き」
そこへ風呂上がりの冬彦がトランクス一丁で風呂から上がって来て、妹の正面蹴りを食らった。
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