シーン3 美少女忍者が、一念発起した兄の事情を知ること
そんなわけで、菅藤冬彦が倫堂学園高等部の演劇部で主役の代役を仰せつかった翌日、すなわち水曜日の午後。
「そういうことか……」
放課後の教室を、高等部の無駄に巨大な図書館の隅っこから窓越しに眺めて、瑞希は一人合点していた。
中庭を挟んだ別棟の1階下にあるその教室では、演劇部が基礎練習をしている最中だった。
その稽古場の室内は、机を壁の向こうの倉庫に収納すれば40畳ほどになる。
絨緞を敷かれたその床では、30人ちょっとが寝そべって四肢を伸ばしている。
そもそも瑞希がここに来たのは、ドジで果てしなくマヌケなバカ兄貴のトラブルを予想し、かつ未然に回避するためである。
今までは全く問題にもしていなかったが、代役とはいえ舞台に立つ可能性があるとなれば話は別だった。
即座に、手元に積んだ演劇関係資料の山の中から基礎訓練に関するものを漁って調べてみる。
「脱力」という基本中の基本のようだった。
その、だらんと仰向けになった体の間を歩き回っている上級生と思しき数名の中に、すらりとした背の高い上級生がいた。
白いタンクトップに、淡いピンクのトレパン。
袖から伸びたしなやかな腕。
何よりも均整のとれた全身の曲線。
流れるような黒髪。
毎朝みかける、あの女子生徒だった。
一瞬だけ立ち上がって自分の体形と見比べ、髪をいじってみて、瑞希は再び席についた。
「……でも、あれは絶対に寝てるな」
遠目にも分かる色の白いメガネ男は、冬彦である。
難しい演劇理論は知らないが、兄のやっていることが基礎練習になっていないのは、見ればわかった。
意図的に力を抜いているのと、最初から力が抜けているのとでは、感じられる緊張感が違う。
その差は、全員がゆっくり立ち上がる様子を見れば分かる。
部員たちがころりと転がって背中を丸め、ゆっくりと体を起こしていくのに、冬彦は床に横たわったままである。
「……言わんこっちゃない」
冬彦に、立ち姿の美しい上級生が歩み寄る。
様子をうかがうと、しゃがみ込んだ彼女は冬彦をつついて起こそうと試みているようだった。
「そんなんで起きるわけない、あのバカ兄貴が」
毎朝、それで苦労している瑞希である。
つついても起きない冬彦を、上級生は軽くはたいたり、小突いたりする。
それでも起きない冬彦を見つめていた彼女は、やがてその手を取った。
「ちょっと……何それ」
肘から上を高々と持ち上げられたその手は、彼女の手を離れて真っ直ぐ落下する。
手がしたたかに床を打ち、冬彦はようやくのことで、もたもたと体を起こした。
きょろきょろと辺りを見回す冬彦の額を、しゃがんだままのセンパイがデコピンする。
うつむいておろおろする兄が優しく助け起こされるのを見て、瑞希は溜息を吐いた。
「間違いなく惚れたな、また」
人はしばしば、見たいものを見、信じたいものも信じようとするものである。
惚れっぽいのもいい加減にしてほしいと思っていると、毎朝見ている現実であっても、つい意識するのを拒んでしまうものだ。
そんな自分の愚かさを悔いてか、あるいは繰り返される兄の過ちを思いやってか、瑞希は天井を仰ぎ、目を閉じてつぶやいた。
「……世話が焼けるんだから、お兄ちゃん」
冬彦の容姿は、悪くない。16歳にしては背が高く、パッと見には清潔感あふれる勉学少年である。
頭も悪くない。だから割と名門と言われる倫堂学園に入学できたのである。
成績もいい。中等部では、300人ほどいる同級生の中で上位5位から落ちたことがない。
だが、欠点も多かった。
とにかく、ドジで単細胞なのである。
単細胞のほうは、「人を疑うことを知らない純朴な少年」で通るのだが、ドジはごまかしようがない。
体力はないわ、動作は鈍いわ、そのうえ物忘れが激しい。
弁当を走って届ける毎朝のセレモニーは、一葉が再婚した次の日からずっと続いている。
一葉からは「冬彦君をお願いね」と頼まれてはいるが、瑞希としては断言していることがある。
「これでお兄ちゃんに私利私欲があったら、あたし20歳で家を出るからね」
成人するまでという期限の切り方そのものが、すでに敗北宣言と言ってよい。
だが、冬彦には、その間抜けさに輪をかけた欠点があった。
とにかく、惚れっぽいのである。
まず、父・冬獅郎と一葉の再婚が12歳の時である。
6歳で母を失い、その面影を忘れられないのか、美しい一葉にはすぐになついた。
一葉は喜んだが、瑞希は翌年から冬彦の性癖に悩まされることになった。
それが、冬彦くん中学1年生の春のことである。
冬彦は、陸上部に入部した。
間もなく長距離走で倒れ、救急車で運ばれた。
地元の小学校に通っていた瑞希は一葉と共に病院へ駆けつけたが、病室にはやけに歯切れよく話す威勢のいい女子生徒がいた。
話を聞くと、女子陸上部の主将ということだったが、瑞希は小学4年生の身で、冬彦が身の程を知らない無理をした理由を察した。
そんなことが中学校の間ずっと続いて、高校1年生の現在に至るわけである。
惚れっぽくてお姉さま系が好みという性癖は、全く改まっていない……。
そんなわけで、兄が高校生になって最初の恋に対する瑞希のスタンスは決まった。
静観である。ひたすら見守るしかない。
確かに縁を結ぶのも吉祥蓮の使命であるが、何が何でも恋を叶えてやらなければならないわけではない。
守る相手のためになる女性が現れたとき、その間を取り持ってやればよいのである。
現段階では、瑞希にもそれが判断できる条件は揃っていなかった。
そもそも、近代より前の日本ならいざ知らず、相手を決めるのに16歳では早すぎる。
弱冠13歳にしてそう判断したかどうかは分からないが、瑞希は冬彦の恋を一葉には相談していなかった。
もっとも、恋する相手を母親に知られているというのは、冬彦でなくとも甚だ不愉快な事態であるが……。
そもそも、それまで何でも母親と相談してきた瑞希も、敢えて言わないことが増えていた。
入学してすぐに鳩摩羅衆と接触したことさえも、ましてや、その名が白堂玉三郎(自称・獣志郎)であることも、一葉には伝えていなかった。
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