3場 ライバル・忍者中二病

シーン1 美少女忍者の隠密行動・登校編

 ところで、「静観」とは、成り行きに干渉しないで事態の推移を見守ることである。

 決して、自分から動くものではない。

 しかし、その想い人を発見した翌日、つまり木曜日の朝から、瑞希は手遅れになる前に兄の悪癖を阻止すべく、しっかり隠密行動を起こしていた。

 その朝、瑞希は眠い目をこすりながら、兄の忘れた弁当を手に、その後を尾行した。

 ほとんどの小学生は、まだ登校しない時間帯である。部活の早朝練習に行く近所の中高生も、一人か二人しかいない。

 つまり、この日ばかりは疾走する必要がなかったのだが、いつもより面倒なことがあった。

 兄にバレるわけにはいかないのである。

 仕方なく、瑞希は一大決心をした。

 私服に黄色い帽子、赤いランドセル。

 半年前までの、小学生スタイルであった。

 目立つ。時間帯的に、目立つ。

 瑞希は兄から距離を取り、なるべく曲がり角で姿が隠れるように歩いた。

 塀の影から顔を出しては、せかせか歩く冬彦の背中が遠くの曲がり角に消えるのを確かめてから、とぼとぼと後を追うのである。

 唯一の救いは、玉三郎に邪魔をされないことぐらいである。

 だが、世の中そうそう甘くはない。

 小学生姿の瑞希に、頭の上から声をかけた者があった。

「一人じゃ危ないよ。学校まで送ろうか?」

 その場で、ランドセルを担いだまま高々と跳躍。

 背後の痴漢の顔面辺りに、ローリングソバットを見舞う。

 その蹴りが空を切るや否や、同じ声が背後から語りかけた。

「痴漢扱いはひどいな。君と僕の仲じゃないか」

 振り向きざまに放った上段蹴りを、背の高い少年が目を閉じたままでかわす。

「女の子がスカート履いてハイキックってのはどうかな」

 玉三郎、と声にならない叫びが瑞希の口から漏れる。

「不用心な小学生女子の登校を見守るのは、善良な一般市民の……」

 瑞希は無視して歩きだす。

 玉三郎はその横にぴったりついて離れない。

「何のつもりよ」

「だからエスコート」

 ぶすっと尋ねる瑞希に、玉三郎は楽しげに答える。

 傍目から見れば、微笑ましい兄妹喧嘩にしか見えない。

「そんなの要らない!」

 言い捨てて、瑞希はいつものペースで走り出す。

 中学2年の兄を連れて歩いた道である。後を追うのは何でもない。

 問題は、並走する玉三郎である。

「邪魔なのよ!」

 瑞希に邪険にされても、玉三郎は気にする風もない。

「まだ事情を聞いてないし」

 何でアンタに、とぼやいたところで、冬彦の後ろ姿が見えてくる。

「ああ、冬彦さんの尾行?」

 何で「さん」付け? と突っ込んだところで、再び冬彦は角を曲がった。

 瑞希は足を遅めて、再び歩く。玉三郎も並んで歩いた。

 やがて、広い車道が見えてくると、人通りも増え始めた。人の陰に隠れて尾行するには丁度いい。瑞希は兄との距離を詰めた。

 玉三郎が、前を向いたまま言った。

「靴を覚えるんだ」

「靴?」

 瑞希はいぶかしげに答えた。確かに、冬彦との距離は10mほどだが、忍者の眼に見えない靴ではない。

「靴は履き癖がついてるし、人によって踵の減り方が違うんだ」

「し、知ってるわよ、そんなこと」

 ムキになって答えている間に、冬彦は公園の角を曲がった。

 その後を尾行して歩くと、冬彦が「おはようございます」というのが聞こえた。

 すれ違った相手に挨拶したのである。

 瑞希たちに近づいてくるその相手は、チワワを連れた昨日の女性であった。

「まずい……」

 瑞希がつぶやいた。くるりと踵を返す。

「ひょっとして、犬、苦手?」

 からかう玉三郎に、ムキになって言い返す。

「あたしらが術使ってると吠えるでしょ!」

「俺、使ってないけど」

 首を傾げる玉三郎を、苛立たしげに瑞希は罵った。

「アタシが今使ってるでしょ!」

 確かに、変装も忍術のうちである。

 いくら半年前は小学生だったといっても、中学生となった今、ランドセル姿は変装である。

 因みに吉祥蓮では「化生ばけふ術」と言うのだが、三年とちょっとの間、一つ屋根の下で共に暮らした兄の目はごまかせまい。

 そんな瑞希の焦りを察しているのかいないのか、玉三郎はしらばっくれた。

「ああ、忘れてた」

 アンタね、と凄んでいる間に冬彦はまた角を曲がる。その先で横断歩道を渡れば正門である。

 しばし考えて、瑞希は渋々口を開いた。

「頼まれてくれない? あと5分間だけ」  

「何くれる?」

 即答であった。

 瑞希は指先で額を叩きながら目を閉じる。

 そうしている間にも、チワワは飼い主に愛嬌をふりまきながら尻尾振って近づいてくる。

「一食おごる!」

 額を叩く人差し指を、目を伏せたまま立てる。

玉三郎は懐かしの「E・T」よろしく自分の人差し指で触れる。

これも傍目から見れば仲の良い兄妹である。

 瑞希はその手をぱっと引っ込めて要件を告げた。

「うちのバカ兄貴がどっかの女子に引っかかってないか見てて」

 玉三郎は沈黙した。へっへっという犬の声はもうすぐ後ろまで迫っている。

「返事は!」 

 低い声で叱りつけると、玉三郎は深く息をついて答えた。

「御意!」

 おどけたような甲高い声は、背後で遠ざかっていくチワワの吠え声でかき消される。

 ……じゃあ、5分後に……。

 どこからか聞こえてくる微かな声を後に、瑞希は来た道を逆走して公園へ飛び込む。

 背中の赤いランドセルが、ぱんと音を立てて開く。

 いつも駆け抜けている砂利道からそれて、木々の間の小道へ駆け込む。

 曲がりくねった小道の、いくつものカーブから瑞希の白い肌が見え隠れする。

 そのたびに、ブラウスが、ネクタイが、スカートが、倫堂学園の制服に変わっていく。

 これが、人知れず着替えながら走って逃げるために編み出された「更衣遁走術」である。

 はじめて使ったのは、冬彦君中学2年生の夏のこと。


 ある日、冬彦は帰宅するなり、部屋に閉じこもって、夕食も食べなかった。

 天の岩戸から天照大神を引きずり出すために、一葉と瑞希は徹夜で部屋のドアの前に座り込んだ。

 一葉も吉祥蓮の一人である。その気になれば公安関係者にさえも国家機密を吐かせることができるぐらいの尋問術を心得ているのだが、深く傷ついた14歳の少年の心を開くのは容易ではなかった。

 明け方になってようやく聞き出せたのは、次の事実である。

 メガネの似合う、声音の優しい先輩のいる放送部に入部した。思い切って告白したが、校内放送の電源が入っているのに気付かなかった。自分が恥をかくのは子供の頃から慣れているが、先輩に迷惑をかけてしまった。

 事を荒立てないよう、早朝から校区内の諜報活動にかかった一葉の代りに、瑞希は冬彦に付き添って中学校まで歩いた。ここで放置すれば引きこもる恐れがあったからである。

 このとき、私服の女の子が並んで歩いていては怪しまれる。

仕方なく、小学5年生の瑞希は初めてセーラー服を着たが、そんなものが登校前に入手できる辺り、吉祥蓮のネットワークには侮れないものがある。

 因みに、一葉は何の工作もしないで帰ってきた。相手の先輩を心眼で見た(プロファイリングした)結果、いかなる噂が立っても軽く流せると判断したということである。

 実際、その先輩には卒業するまで何も起こらなかった。

 大変だったのは瑞希で、兄が立ち直るまで毎朝、セーラー服で中等部まで送ってから地元の小学校に私服姿で走るという生活を送る羽目になった。

 飛燕九天直覇流奇門遁甲殺到法に「更衣遁走術」がなければできない芸当であった……。


 あのときは、道行く人々の視界に入らないように、あるいは記憶に残らないようにその間を駆け抜け、時には物陰に隠れて走りながら着替えたものである

 今度は人目に付かない分、まだ気が楽なはずなのだが、世の中そう甘くはない。

「任務完了!」

 玉三郎の声に、瑞希はつんのめって転びかける。

 まだ、白にワンポイント(校章入り学校指定)のソックスを履きかけていたところである。

「見るなヘンタイ! 戻ってくるの早すぎ!」

 秋の朝風に揺れる公園の木の葉をざあっと鳴らして現れた玉三郎は、悠々と瑞希の隣に付く。

「別にどこが見えてるわけでもなし」

 白い素足をソックスが覆うところを横目で見る玉三郎を、瑞希の鎖が銀光を放って襲う。

「うるさい! 着替えジロジロ見るな!」

「ジロジロとまでは」

「つべこべ言うな!」

 引き戻される分銅を紙一重でかわして、長身の影が消える。

 ……安心しろ、女の気配なし……。

 耳の奥で調査報告を聞きながら整然とセーラー服を着こなした瑞希は、公園から歩道の人混みに紛れ込む。

 さっきまでランドセルを背負っていた小学生には見えない。

 正門に着く時間は、いつもの通りであった。

 当然、冬彦に弁当を届ける時間も、気合の入った挨拶を聞くのも、昨日と同じである。

「葛城先輩、おはようございます……」

 長い黒髪の、年上の美少女。

 どうやらそれが、瑞希の頭を悩ます恋多き兄の、今回の想い人の名前のようだった。

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