第10話 電波の届かないアーケード街
僕達がいったいどのくらいの時間、暗闇の中で抱き合っていたのかは分からない。ほんの数秒間だったのかもしれないし、あるいは数時間が経過していたのかもしれない。時間の感覚と女性の涙は安易に信用してはならない。ただ間違いなく言えることは、僕が目を開いた時、僕達は賑やかなアーケード街の中心に立っていたということだ。僕はしばらくの間、自分の置かれている状況を理解できず、ただ阿呆のように立ち尽くしていた。アーケード街はどうやら歩行者天国になっているようで、メインストリートの両側には小さな商店がまるで窮屈な古本屋の本棚に詰め込まれたみたいに隙間なく立ち並んでいた。店舗の種類は多岐にわたり、そこで働く人たちの姿も様々だった。呉服屋の店員は退屈そうに店頭の着物の襟を整え、肉屋の店主は威勢のいい声で今日の赤身肉の筋の素晴らしさについて熱弁を振るっているところだった。肉屋の向かいのスーパーマーケットでは溢れんばかりに野菜が入れられた大きな籠が店先まで並べられ、赤い文字で「大売り出し」と書かれたのぼりが、客の熱気に呼応するかのようにバタバタと揺らめいていた。アーケードの天井は半円形のくすんだステンドグラスのような作りになっており、半透明の強化ガラスによって拡散された陽の光が、商店街全体を淡く照らしていた。僕は改めて周囲をよく見渡してみた。僕達の前を歩く人々の大半は、近所に住む専業主婦のように見えた。地味な色のセーターに履き古したサンダルのような、ラフな服装の女性が多かったからだ。主人と子供を送り出し、部屋の掃除を終えて食材の買い出しにやって来た、といったところだろう。彼女たちは僕の近くを歩く際、まるで朝の駅前で選挙活動をする区議会議員の候補者を見るような、冷ややかな視線をよこした。この商店街では20代の男性が立ち止まっているのがそんなに珍しいのだろうか?
「アヒージョくん」僕の胸元から、何かに押し潰されたような小さな声がした。僕が視線を落とすと、えんがわが僕の腕の中で顔を赤らめていた。「恥ずかしいから、そろそろ離していいわよ」
僕はすぐさま彼女を抱きしめていた腕を離した。えんがわは昼寝から起きた猫のように両腕をぐぐっと伸ばした後、全身を軽く点検するみたいに服のホコリをはらった。
「本当に君は、人の視線を気にしないのね」彼女は呆れたような口調で言った。
「ごめん、考え事をしていたんだ。この商店街について」僕は言った。
「まぁ、無理もないわね。真っ暗闇からいきなり昼間の商店街だもの。私も驚いてるわ」彼女はそう言って頭を上げ、先ほどの僕と同じように周囲を見渡した。陽光に照らされて白く強調された横顔のシルエットが、とても美しかった。「それで、ここはどこなのかしら?」
「わからない」僕は言った。「しかし、日本ではあるみたいだ。そして、夢ではないみたい」
「どうして?」
「僕はめったに夢を見ないけど、稀に見る夢は決まってモノクロ映像なんだ。でも今は色彩が感じられる。だから、これは夢ではない。それに見える文字も聞こえる言葉も、すべて日本語だ」
「とりあえず、ここは現実というわけね。じゃあ、どこかにワープしたのかしら。あの非常扉から」
「あるいはそうかもしれない」僕は言った。
「じゃあ、確かめてみる必要があるわね」彼女はそう言って、鞄からスマートフォンを取り出してホームボタンを押し、画面を起動させた。なるほど、いいアイデアだと思ったが、彼女はすぐに首を振ってスマートフォンの画面を僕の方に向けた。
「ダメね、電波が全然入らない。GPS機能が使えたら、と思ったんだけど。あたりまえだけどWiFiも飛んでいないわ」彼女の手の中のスマートフォンの左上には、電波が受信できないことを示す記号が点灯していた。僕は自分の携帯電話をポケットから取り出して、さらに左腕に着けた腕時計を確認した。LUMINOXの黒いダイバーウォッチは、アメリカ製品特有の堅牢性と視認性が気に入っており、プライベートでよく身に着ける腕時計の一つだ。定期的なオーバーホールが必要な機械式腕時計を愛用する人たちとは、おそらく旨い酒は飲めないだろう。同じような理由で、僕はスーパーカーが嫌いだ。僕は携帯電話のデジタル画面と、LUMINOXの時計盤を見比べてみた。共に日付と時間が分かるようになっているが、どちらも日付は非常扉を開けた日のまま、時刻は午後10時を少し過ぎだところを示していた。秒針が動いているので、時計が止まっているわけではない。
「僕達があの扉に入ってから、まだ1時間も経過していない。でも外はこんなに明るいし、ここは明らかに日本だ。つまり、僕達がこの現状を受け入れるためには、最低でも2つの常識を捨てなければならない。僕が言いたいことは分かる?」
「分かると思うわ」彼女はうなずきながら言った。僕はこめかみに人差し指を当て、脳にたまった情報をふるいに掛けるみたいに、ゆっくりと指でリズムを刻みながら言った。
「まずは、僕達は明らかに不自然な移動をした。あのビルの13階の扉から1時間足らずで、どこだかわからない商店街まで過程を飛ばして移動してしまった。つまり、まず空間的な常識を捨てる必要がある」
「信じがたいことだけど、実際に体験してしまっているわけだから、そういうことになるわね」彼女は言った。
「次に、これはまだ可能性という話だけど、僕達は空間的な移動と同時に、時間的な移動もしてしまっていると考えられる」
僕はその場でゆっくりとえんがわに背を向け、改めて商店街の様子を観察した。商店街の両側には商店の隙間にいくつかの細い路地が通っており、そこからはアーケードの外部の様子が伺えた。やはり外は太陽の光がさんさんと降り注いでおり、何人かの主婦が路地からアーケードに入ってきて、そのままスーパーマーケットの方へ向かった。もう誰も僕の方を見ていなかった。
「あれから1時間しか経っていないのに、今は明らかに昼間だし、そしてここはどう見ても日本だ。夜9時の大手町から1時間で昼間の日本のどこかに移動するには、時間を飛び越えるしかない」
「でも、ここが日本ではないことも考えられるわ。日本によく似た、南米の商店街かも知れない。それなら時差を考慮して、空間の移動だけで説明が付くわ」彼女は僕の目を真っ直ぐ見ながら言った。彼女の目はイルカショーを見る少女のように輝いており、誘導灯と話をする時と同じように好奇心が抑えられない様子だった。
「あるいはそうかもしれない」僕はなるべく冷静に見えるよう、声を低くして言った。たしかに、ここが日本ではないということは、時間移動トリックにおいては当然考慮すべき可能性のように思えた。「確かめてみる必要があるね。ここは本当に日本なのかどうか」
「どうやって?」えんがわは言った。
「誰かに尋ねてみればいい。幸運なことに、僕達の周りは日本語を話す人だらけだ。インターネットも使えないし、図書館の場所も分からない。こういう時は人に聞くのが一番だ。そうだな、なるべく若くて、年齢が近い人がいい」僕はそう言って、商店街を歩く人々の中から質問をするのに適当と思われる人を探した。年齢が近いほうが割り切った話もしやすいし、人生経験が少ないほうが、人を騙すようなこともなく親切に接してくれるだろうと思ったのだ。
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