第9話 えんがわと誘導灯、非常扉へ
「僕達がキスをするのを見ていたの?」僕は誘導灯の中の緑色の彼に向かって、不快感を露わにして言った。
「言っただろう、僕はなんでも知っている。このビルにはいま君たち二人しかいないんだ。大胆にキスなんかされたら、嫌でも目に付くよ。僕は便宜的にこの廊下の先に設置されているだけで、視界はこのビル全体を網羅している。しかし、悪くないキスだったね。映画のワンシーンみたいだった」誘導灯の緑色の彼は、全く悪びれる様子も無く言った。僕はなにか言い返そうと思ったが、公共の場でキスをした僕達に非があるのは明白なので、それ以上怒るわけにもいかなかった。
「そうだ、こちらは僕の彼女の…」
「えんがわです」僕が言い終わるより先に、彼女は答えた。彼女は、誘導灯の緑色の人と会話をしたくてたまらない様子だった。
「えんがわちゃん」誘導灯はまるで石版の古代文字を指でなぞるみたいに、ゆっくりと言葉を繰り返した。彼の顔は相変わらず視線が読めないが、どうやら彼女の顔を見つめているようだった。「羨ましいよ、アヒージョくん。こんなにカワイイ彼女がいたなんてね。毎日便所飯をするようなダメ男にはもったいない美人だ」
「便所飯は関係ないだろう」僕は言った。
「関係あるね。大いに相関関係がある。職場の机で朝食も摂れないようなコミュ障が、どうやってこんな美人を口説いたのか、僕は非常に興味があるよ」
「あら、アヒージョくんはとっても魅力的なのよ」えんがわが笑いながら言った。
「いや、えんがわちゃん、よく考えたほうがいい。便所飯だよ?本来排泄をする場所で食事をするような非常識な人間なのだよ」
「彼のそういう少しズレたところが好きなのよ。朝、仕事に出かける時の死んだ魚のような目とか、ワインを飲むときに白目を剥く所とかも好きよ」
「白目?」
「そう、アヒージョくんはワインを飲む時や、キスをする時によく白目を剥くのよ。さっきのキスのときも剥いていたわ」
「そうなのか、それは、気づかなかった。ぜひ見たかったなぁ」
「もういいかな!」僕は二人の会話を遮るように言った。僕はだんだん耳が熱くなるのを感じた。「僕は、君に彼女を自慢しに来たわけじゃないんだ。やっと、その扉の向こうに行く決心が付いたから来たんだ。僕は未来を変える。彼女と一緒に」
「ふへっ、いいだろう」誘導灯は笑いを堪えているようだった。彼女もつられて笑いがこみ上げるのを懸命に堪えていた。僕は、思わず二人を睨みつけた。「そう怒るなよ。それだけ愛されているということじゃないか。こんな怪しい場所に一緒に来てくれる彼女なんて、そうそういないぞ、アヒージョくん。さて、えんがわちゃん、この扉については、彼から聞いているかな?」
「ええ、聞いているわ」えんがわは当然といったような口調で言った。「アヒージョくんの逃避願望が、無意識にあなたを求めていた。そしてあなたは、その扉を通して彼がいま必要な場所へ彼を誘導することができる。でも、その先に何があるのか、それはあなたにもわからない。あなたに分かるのは、消防法によってその安全は保証されているということだけ。そうでしょう?」
「素晴らしい」誘導灯は関心したように言った。「そこまで理解しているなら、もう僕から説明することはない。あとは、この扉を開けてアヒージョくんに一歩踏み出させれば、それで僕の仕事は終わりだ」
僕は誘導灯とえんがわを交互に見つめた。誘導灯は相変わらず微動だにしないし、えんがわは相変わらず目を輝かせていた。
「やれやれ」と僕は言った。これ以上の問答は不要みたいだった。「じゃあ、えんがわ。他に聞いておきたいことはない?」
「問題ないわ。早く行きましょう。もう待ちきれない」彼女はそう言って、僕の手を握った。僕も彼女の手を握り返した。
「じゃあ、どうもありがとう、誘導灯。もう行くよ」
「ああ、行ってくるといい。アヒージョくんをよろしくな、えんがわちゃん」誘導灯は言った。いつも快活な彼には珍しく、少し寂しそうな口調だった。
僕は金属のドアノブに手をかけ、ゆっくりと回して扉を押し開けた。扉の向こうは、まるでCGで色を塗ったような、針の先ほどの隙もない完全な暗黒だった。僕は少し躊躇して、えんがわの方を見た。彼女は少したじろいだようだが、すぐに笑顔を取り戻し、ぎゅっと僕の体にしがみついた。僕は彼女の背中に手を回し、しっかりと体が密着しているのを確認して、扉の先に足を踏み込んだ。その瞬間、まるでジェットコースターが落下するような感覚が全身を襲い、僕達は暗黒の中へ引きずり込まれた。先程まで背後に感じていた廊下の明かりはすぐに消え去り、四方八方が完全に闇に包まれた。体があらゆる方向から強烈な重量で引っ張られているような感覚を感じた。今、自分が落下しているのか上昇しているのか、あるいは押されているのか引っ張られているのか、そしてどれくらいの時間が経ったのか、僕には判断ができなかった。視覚も、方向と時間の感覚も失った中で、すがりつくように僕はえんがわの体を抱きしめた。えんがわの体の温もりだけが、僕に残された唯一の心の拠り所だった。彼女もまた同じように僕の体を抱きしめていた。やがて、意識がぼんやりと薄らいでいった。彼女とエレベーターでキスをした時の感覚が、まるで随分昔の出来事のように思い起こされた。
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