第8話 闇夜の高層ビル

 僕が大手町駅に到着した時、時刻は既に午後9時を回っていた。えんがわは駅構内のスターバックス・コーヒーの前に立ち、真顔でスマートフォンを操作していた。女性がスマートフォンを操作している時の顔は、寝顔と同じくらい不用心だと思う。有名チェーンの飲食店が乱立する大手町駅構内では、スターバックス・コーヒーの前は便利な待ち合わせ場所だった。通路の両側で競うように自己主張をする各店舗の看板の中にあっても、緑地に木彫の柴咲コウのような女性が描かれた看板は、ひときわ目を引く。さすがに東京メトロの巨大ターミナル駅だけあって、乗り換えの動線であるこの通路も仕事終わりと思われるスーツ姿のサラリーマンが、まるで各々の腰と腕が短いロープで繋がれているかのように、滑らかに歩を進めていた。これだけ多くの人が同じ方向に歩いているにも関わらず彼らの考えていることには全く統一性が無いのだということを想像すると、多くの人間が志を同じくして動きを合わせるマスゲームを見た時に似た感動すら覚える。えんがわの近くにはやはり待ち合わせと思われる男女が数名、えんがわと全く同じ姿勢と表情でスマートフォンを操作していた。この光景に未来が来たような感覚を覚えるが、子供の頃に僕が想像していた未来とは少し違う。

「えんがわ、待った?」僕は彼女に近づいて、静かに声をかけた。顔を上げた彼女の表情には既に笑顔が刻まれていた。彼女はちらりと左腕の時計を確認して、答えた。

「待ったとも言えるし、待っていないとも言えるわ。私はそれなりの時間ここにいたけど、調べ物をしていたから時間を無駄に浪費していたわけではないのよ。アヒージョくんが電車に乗って移動する時間と、私がここで立っていた時間は、肉体が移動しているかどうかが異なるだけであって、本質的には同じものよ。私にとっては、ということだけれど」彼女はそう言って、僕の腕を取った。「さぁ、もう行きましょう。君の未来を変えに」

 地下街から地上へ出て、職場のビルに向う間、僕たちはほとんど会話を交わさなかった。世間話をするのも不適切な気がしたし、今後のことを話すには情報が決定的に不足していた。しかしそのような状況を、彼女は楽しんでいるようだった。未知に対する感覚は人それぞれなのだ。

「あのビルが僕の職場。そして、例の扉はあの13階にある」僕は目前の建物を指さしながら言った。日中の暑さの余韻を残す時間帯にも関わらず、闇夜に浮かぶコンクリートからは人間の温度が消え去り、まるで廃墟のような寒々しさを放っていた。

「意外と大きな建物なのね」彼女は少し驚いた様子で言った。「アヒージョくんが仕事の話をする時はいつも伏し目で、まるで葬儀に出るような顔をするから、てっきり薄暗い地下室みたいな所で仕事をしているのだと思っていたわ」

「僕以外はみんな、高層ビルでの仕事にふさわしいメンタルをしているよ。掃除のおばさんも含めてね」僕はそう言って、ビルの窓を見渡してみた。さすがに夜の9時を回れば、すべてのフロアの照明は消え、一階の入口付近の非常照明が静かに点いているだけだった。

「さぁ、行きましょう。私、誘導灯とお話するの初めてなの」彼女がまるで遊園地に来たみたいに腕を引っ張るのを、僕は静止した。

「コンビニで食料を買っていこう。一応。何があるかわからないから」

 僕はファミリーマートに入り、カロリーメイトとミネラルウォーター、乾電池と電池式の携帯電話の充電器を買った。僕がレジで支払いをする間、えんがわはハンドバックを揺らしながら闇夜のビル郡を眺めていた。支払いを済ませ、買い物袋ごと鞄に放り込んだ後、僕達はビルの従業員用出入口に向かった。普段は自動ドアになっているが、ドアの前に立っても反応はなかった。僕はポケットから社員証を取り出し、入口横のカードリーダーにかざした。ドアはまるで居眠りから起こされたみたいに、すぐさま左右に開いて道を開けた。そしてまっすぐにエレベーターホールへ向かい、上階行きのボタンを押した。エレベーターは1階で待機していたようで、すぐさま扉を開けた。僕はえんがわと共にボックスに乗り込むと、13と印字された行き先ボタンと閉ボタンを連打し、扉を閉めた。もし誰かに見られたら面倒なのだ。僕とえんがわの2人だけを乗せたエレベーターは、途中で停止することなく静かに上昇していた。僕はえんがわの方を見た。えんがわも僕の方を見ていた。僕は、このまま到着しなければいいのに、と思った。

「えんがわ、本当に一緒に行くの?今ならまだ引き返せるけど」僕はえんがわの目を見ながら言った。彼女は僕の目を真っ直ぐに見ながら、一歩ずつ僕に近づいてきた。その目の奥には僅かな怒りが感じられた。僕が言い訳を口から出そうとすると、それを遮るように彼女は僕に唇を合わせた。柔らかく、暖かく、適度に水分を含んだキスだった。唇と共に彼女の鼻と僕の鼻が触れ合い、彼女の吐息から漏れる女性の香りが僕の鼻孔を刺激した。

「今のキス、悪くないでしょう?」彼女は言った。

「悪くない」と僕は答えた。彼女はニッコリと微笑み、僕の手を握った。僕が何か気の利いたことを言おうと考えを巡らせているうちに、チン、という間抜けな音とともにエレベーターの扉が開いた。

「さぁ、行きましょう。念の為にキスも済ませたし、もう恐れるものは何もないのよ」彼女は僕の手を引き、13階のエレベーターホールに出た。僕は小さくため息をつき、薄暗い廊下の方へ向かった。廊下の先には、緑と白の誘導灯が闇の中にぽっかり浮かんでいた。僕はえんがわの手を引き、廊下を進んだ。そして、誘導灯の前につくと、彼を見上げて言った。

「起きてる?」僕は寝ている猫に話しかけるみたいに、小声で囁いた。

「やあ、やっぱり来たね。ばっちり覚醒さ。闇に包まれた時が我々が一番輝く時だからね。どうだった?職場でするキスの味は?」

「え、いや、キス…」僕は一瞬ギクリとして、横目で彼女の方を見た。彼女はまるで生まれて始めてニューヨークに来た少女のように、目をキラキラと輝かせていた。

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