第7話 えんがわの提案

 僕はひとまず携帯を置いて、風呂に入ることにした。頭から爪先まで全身が、まるで冷凍庫から出しておいた冷凍牛肉パックみたいにぐっしょりと濡れていたし、このままのんびりしていては体が冷えてしまう。僕は服を脱いで洗濯カゴに放り投げ、風呂場でシャワーを浴びた。体の汗を流しながら、僕はえんがわからの電話の内容について考えていた。先週の金曜日に彼女と寝て、ベッドの上で彼女に告白をして、そのまま何も連絡をしていなかった。彼女はそのことを怒っているに違いないと思った。こういう場合、言い訳をするべきか、あるいは僕はこういう人間なのだと開き直るべきか、僕は判断に困ってしまった。僕は元来、あまり筆まめな人間ではない。特に意味のないメールや電話に楽しみを見いだせないのだ。まるであとで埋めるとわかっていて穴を掘る作業のような、仕事のための仕事、会話のための会話のようなものに意味を見出せないでいた。しかし、同時に僕はえんがわとの関係を大切にしたいとも考えていた。えんがわがそれを望むのならば、自分の主義を曲げて、無用な連絡をすることも考えてもいいかもしれないと思った。どの道、僕の無精は大した主義などではないのだ。僕はその結論が出ないまま、シャワーを終え、風呂場を出た。タオルで体を拭き、新しいTシャツとジャージに着替え、化粧水を肌に塗って髪を乾かした。そして、意を決して携帯を手に取り、えんがわに折り返し電話をかけた。彼女からの着信から、既に1時間半が経過していた。

 何秒かのプッシュ音の後、まるで誰かの足音のようにコール音が響いた。その足音は、擬似的に空間が急速に収縮するみたいに、彼女との距離を縮めているような感覚があった。それは実際には数秒のことであったが、僕にはかなり長い時間に感じられた。やがて、空間は完全に収縮し、二人の距離はゼロとなった。

「もしもし」えんがわの声が聞こえた。いつになく不機嫌そうな声だった。

「もしもし、えんがわ?僕、アヒージョ」言ったあとで、僕は自分のセリフのあまりにも滑稽であることに思わず笑いそうになった。

「アヒージョくん」彼女は言った。その声は僕の記憶の中の彼女の声よりもずっと低く、そして抑揚がなかった。少しの沈黙の後、彼女は言った。「何をしていたの?」

「ジョギングをしていた」

「ジョギング?」

「そう。そしてシャワーを浴びていた。さっき電話に気付いたんだ」僕は小さな嘘を付いた。

「なるほど」彼女がそう言うと、再び淡い沈黙が電話線を支配した。僕は黙って彼女からの次の言葉を待った。「ねぇ、アヒージョくん。私達、先週の金曜日に何かしたわよね?」

「セックスをした」僕はなんでもないという風に答えた。

「そう、私達はセックスをした。ねぇアヒージョくん。その後、私達は恋人になったはずよね?」

「あるいはそうかもしれない」僕は言った。

「あるいはそうかもしれない?」彼女はすぐさま聞き返した。その声色には、明らかな怒りが感じられた。

「あのね、アヒージョくん。君は知らないかもしれないけど、私はかなり重い女なのよ。生半可な重さじゃないのよ、石どころじゃなく、希少な重金属くらいの、かなーりの、重い女なのよ。だから、私とセックスをするということ、そして私の恋人になるということに関しては、それなりの覚悟を持って欲しいの。ねぇアヒージョくん、どうしていままで連絡をくれなかったの?」

「それに関しては申し訳ないと思っている」僕は言った。「でも、これはわかってほしいんだけど、僕はあまりマメな人間じゃないんだ。用がないのに電話やメールをするということが、どうも苦手なんだ。もちろん、連絡をしたくないというわけじゃないし、やましい理由があるわけでもない。君から連絡を貰えれば、対応するつもりだった」

「まったく、何もわかってないのね」彼女は深いため息をついた。

「どういうこと?」

「あのね、アヒージョくん。私は君と連絡をしたいんじゃないの。君からの連絡がほしいと言っているのよ。君が筆まめな人間じゃないことは十分承知しているわよ。でも、だからこそ私だけには無理をしてでも連絡してほしいのよ。そういう女心って分からないかしら?」

「ねぇ、えんがわ」僕は意を決して言った。「もしかしたら、君とはしばらく会えなくなるかもしれない」

「なぜ?」

「どこか遠くへ行くかもしれないんだ。そして、長くなるかもしれない」

「それは、仕事で、ということ?」彼女は暗闇で何かを探るように尋ねた。

「仕事じゃない」僕はいった。「でも、とても大切なことなんだ。どこに行くのかも分からないし、どのくらいの期間になるかもわからない。もしかしたら1日で帰ってくるかもしれないし、何年もかかるかもしれない。あるいは、もう帰って来られないかもしれない。でも、行かなければならないんだ。できるだけ早いうちに、取り返しがつかなくなる前に。これは、僕の命に関わることなんだ」

「ねぇ、アヒージョくん」彼女は呆れたように言った。「私の事が嫌いになった?」

「君のことは好きだよ。この間、ベッドで言ったように。僕は、嘘は付かない。全部本当なんだ。君を好きだということも、どうしても出かけなければならないということも、その詳細がまるでわからないということも。だから、うまく説明できないけど、もし僕が突然いなくなっても心配しないでほしい」

「あのね、アヒージョくん。さっきも言ったように、私はすごぉく重い女なのよ。だから、好きだけど会えないとか、好きだけど別れるとか、そういうことは絶対に認められないの。好き同士だから一緒にいるか、どちらかが相手のことをものすごく嫌いになって別れるか、この2択しかありえないの。トランジスタの入出力が0か1しかないのと同じように。ねぇ、アヒージョくん。本当に私のことが好き?」

「僕は、えんがわのことが好きだよ」僕は言い間違えのないように、はっきりと言った。

「そして、君は嘘をついていない」

「そう」

「じゃあ、私にも分かるように説明して。どうして私に会えなくなるのか。それが私を抱いた責任というやつよ。説明できないというなら、私、どういう行動に出るか分からないわよ」

 僕は彼女の言ったことを頭のなかで反復してみた。確かに、僕の貧弱な理論と比べれば、彼女の理屈は筋の通った、真っ当なものであるように感じられた。しかし、果たして信じてもらえるだろうか?職場の誘導灯と話して、未来を変えるために非常扉を開けて向こう側に行かなければならないなんて、自分で体験していなければ、にわかには信じられない話だ。しかし、僕はすべてをえんがわに話してみることにした。そうすることが最も適当な方法だと思えた。そして、僕は彼女にすべてを話した。毎日職場のトイレでまるごと・ソーセージを食べていること、誘導灯の中の緑色の人に話しかけられたこと、自分の将来に不安があること、非常扉の先に、未来を変える答えがあること、その安全は消防法で保証されていること。そして、僕はその扉を開けてみたいと思っていること。

「素敵」彼女は僕の話をすべて聞き終えた後、先ほどよりも高い声で言った。その声色には、いつもの素晴らしい抑揚が戻っていた。「ねぇ、アヒージョくん。私、そういう話大好きよ。私も一緒に行くわ」

「一緒に?」僕は驚いて聞き返した。

「ええ、そうよ。私がすごく重い女だっていうことは、さっき話したでしょう?君が行く先には、どこだって着いて行くわ。行きましょう。今から」

「今から?」僕はまた聞き返した。

「そうよ。思い立ったら即、行動よ。君の職場は大手町だよね?大手町駅で待ち合わせでいいわよね?」彼女はまるで遠足にでも行くような、とても上機嫌な様子で言った。

「でも、えんがわ。仕事は?明日も仕事があるんだろう?」僕は言った。

「仕事なんてどうでもいいのよ」彼女はあっさりと言った。「少しの間私が休んでも、大したことはないわよ。もしクビになったって次を探せばいいわ。ねぇアヒージョくん、私はこう見えて、とても優秀なブライダルプランナーなのよ。会社なんて、どこだってやっていけるわ。1時間以内に大手町駅に行くわね」

 彼女はそう言って電話を切った。ツーツーという受話器の音を聞きながら、僕は自分の気持ちを整理した。今からあの誘導灯へ行き、非常扉の奥へ進む。隣にはえんがわがいる。何が起きるかわからない。誘導灯の緑色の人は安全だと言っていたけれど、本当に安全かはわからない。えんがわを危険に巻き込んでいいのだろうか。仕事のこともある。えんがわの仕事と、僕の仕事。本当に行っていいのだろうか?

 でも、これだけははっきりと言える。僕はそのとき、とても、うれしかったのだ。

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